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2021年8月13日金曜日

漢字「室」の成り立ち:室が表すような大規模な建築物が甲骨文字の時代に存在したことが、極めて異質のことと考えられる


漢字「室」の成り立ちの不思議:この漢字が示す大規模な建築物が、河姆渡文化の中では異質の高度な建築技術を持っていた
 この字が作られた時代には、かなり大規模な建築群が建てられていたことを示しているが、古代王朝の建築については、近年の考古学の発展により、伝説の王朝とされていた夏王朝のものとされる城址が発見され、続いて殷代の初期から中期の城壁や宮殿、西周時代の宗廟(そうびょう)、春秋戦国時代の宗廟、などの遺跡が次々と発掘された。これら新資料の出現からみて、古代の記録のない早い時期から近代に至るまで、中国建築が悠久な歴史を不断に持続発展してきた情況が、明らかにされつつある。

 中国建築がきわめて早くから独創性に富む高度な技術的水準に到達していたことは、近年、浙江省河姆渡(かぼと)の遺跡から明らかになっている。炭素14法による判定で6000~7000年前とされる柱、根太梁(ねだはり)、床板などの出土部材には精巧な柄(ほぞ)・柄穴が加工され、すでに仕口(しぐち)の結合を用いた木造高床(たかゆか)建築の技術が開発されていた。華北・中原(ちゅうげん)の新石器時代の住居址は多く竪穴(たてあな)式の穴居である野に対し、河姆渡文化自体は稲作技術を伴う当時先進的な文明であり、、建築技術的にはまったく異質の系統が存在したことになることは大いに注目に値しよう。(以上日本大百科全書(ニッポニカ)「中国建築」の解説より抜粋)


漢字「室」の楷書で、常用漢字です。
 宀と至から構成されます。至は矢が着地するところを示しています。
 会意文字で、矢が届いた一番奥の部屋を示していると云われています。

このことから言えることは、この字が作られた時代には、かなり大規模な建築群が建てられていたことを示しています。問題はそれがいったいいつの時代であったのかです。
室・楷書


  
室・甲骨文字
室・金文
>跪いた状態を表している漢字
室・小篆
以上2文字の会意で、即ちとか直ちにを意味する


    


「室」の漢字データ
 

漢字の読み
  • 音読み   シツ
  • 訓読み  むろ

意味
     
  • へや :発酵させたり、苗を育てたりするために一般的に保温を施した部屋
  •  
  • 古代で見られた竪穴式の貯蔵倉庫
  •  
  • 会社組織などでの機能を持つ組織の一つ」(例:社長室)

漢字「室」を持つ熟語    暗室、温室、王室、居室、内室、密室




引用:「汉字密码」(P576、唐汉著,学林出版社)
唐漢氏の解釈
 室は会意文字であり、形声文字でもあります。

 物品を部屋に盛っている様です。甲骨文字の室という字は上下がが結びついた構造をしており、上部は居室の内部を表示しています。下部は「至」です。これは矢が部屋の中に落ちて、「去、至る場所」を示しています。
 甲骨文字の多くの用例は「大室」であって、先王の宗廟の部屋で、また集合する、集会場所を示しています。金文と小篆の室の字はその時代の意味の発展と拡張を含んでいます。

 人々が居住を止める場所を示している。また専ら建築群中の後部の中央の部屋を示し、建築群中の前部の「堂」と区別している。 《論語》中の、「升堂矣, 未入于室也。」(ホールに昇っても入室せず。) 以降「室」は男子の居住のする屋舎を指している。即ち女は家といい、男は室という。





漢字「室」の字統の解釈
 宀と至に従う。至は矢の至る所。「説文」に「實」と音義的に解し、また屋字条に「室屋はみな至に従う」と会意の字とする。卜辞に中室、南室、血室の名があり、皆祭室をいう。《大豊キ》に「王、天室に祀る」とあり、金文の大室、宗室はみな宗廟の祖霊を祀るところで、最も神聖とするところである。


まとめ
 文字が示している大規模な建築物が甲骨文字の時代に存在したことが、極めて異質のことと考えられる



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2021年7月13日火曜日

現代社会の基本である商は3500年前に中国で栄えた荒ぶる民族国家「商」(殷ともいう)という国名に由来していた


漢字 商の成り立ちと由来から見えるもの:古代中国の中原で強国「商」を作り上げた荒ぶる殷商王朝が浮かび上がる
 甲骨文字を最初に生み出し、強大な国家を作った殷の国は自らを「商」と呼んだ。

 この商という国は今の中国の湖南省・安陽という年にその国家の礎を定め、自らを商と名乗る。
 この商という名前そのものが、荒ぶる民族国家の成り立ちを物語るものである。

 殷商民族は、兵器の製造に熱中し,南征北伐を愛した。

 領土、人口、政権は国家の三要素をなす。ただし厳格に言えば「領土」とは武力コントロールあるいは占領下にある土地のことであり、「人口」とは武装統治にある民衆のことである。政権はすなわち武力を運用できる能力のある機構のことを言う。武力はあるもは専ら征伐を行使する常備武装のことをいい、国家の元である。

 殖民統治に伴うもろもろの実践の中で、「国」の字は血なまぐさい洗礼の中で生まれた。現有実物の査証から甲骨文の記載からいうと、ただ「商」だけが国家の真の意味を表している。とうぜん漢字はその遺伝子の暗号で以ってさらにその形象をなし、さらにその真実をわれわれに告げている。殷商はつまるところいったいどのような国家だったのだろう。

 商の時代は、生産技術はそれほど発達していなかったためか、国力の増強は専ら侵略による捕虜の獲得に頼ったのかも知れない。


漢字「商」の楷書で、常用漢字です。
 「商」は、本は殷商民族が、自己の王国の都城の呼称としたものである。即ち「大邑商」(現在の河南省安陽の小さな村)である。商民族が自己の民族と国家の呼称であった。甲骨卡辞中の「今岁商受年。」然るに甲骨文の商の字の形象を見てみると戦争捕虜と関係がある。どうして戦争捕虜を押し込めておく場所に商朝の都城を選んだのか。どうして地名の商を殷商王朝の名称に合わせたのか?
商・楷書


  
商・甲骨文字
戦争で奪ってきた捕虜に入墨を入れ支配を明示した。その入墨の針器を台座の上に建て、祝禱と共に神に祈ることで、更なる侵略の成功を祈った
商・金文
甲骨文字を承継しているが、経済を示す貝を付け加えることで、富の蓄積を誇ったのかも知れない
商・小篆
小篆が使われる時代には商という国は消滅し、殷商人の末裔である商人か活躍した。
国名と一般名称の乖離


    


「商」の漢字データ
 

漢字の読み
  • 音読み   ショウ
  • 訓読み   あきな(う)、はか(る)

意味
     
  • 品物を売買して利益を得る事(あきなう)、商売をすること
  •  
  • 商売人、商人(あきんど)、「行商人」(例:隊商)
  •  
  • はかる(良し悪しを明らかにする) 

漢字「商」を持つ熟語    商人、商業、商売、商量、商事、商圏、商談、商団




引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)
唐漢氏の解釈
  甲骨文字の上部は軍の符号です。即ち「辛」の初文です。上古時期は捕虜を押さえつける刑具でもあった。下部は「内」の符号で、即ち丙の初文でもあった。それは地面に掘った軍の穴の牢獄の縦断面の図形である。甲骨文の後の一種の図形となり、また口を加えて地面の穴の入り口を示しこの種の牢獄の描写となった。

 金文中の「商」の字は、甲骨文を受け継いでいるが、但し下辺に貝の字が付け加えられ商の字となっている。

 約3300年前商民族は安陽の小さな村を捕虜を押し込めておく場所に選んだ。捕虜を押し込めておくために常備的な武装兵士を駐在させないわけにはいかない。軍事連盟の首領の商王は常備の武装兵士を指揮しコントロールするために移送させるわけにはいかない。このようにして事実上政治軍事の中心となった。捕虜中の工匠に対しては青銅の戈の上の図形文字には、飢餓と死亡の威嚇の下、必至に手工芸労働に専心し、兵器弓矢、玉器、精美を凝らした青銅器などを絶えることなく不断に製造することができたとき、大邑商は事実上王国の都城となった。


漢字「商」の字統の解釈
 商とは、辛と台座と口(サイ)に従う。辛は取っ手のある大きな針器。この入墨に用いる刑具を立てた、台座に祝禱を収める噐を据え付け、これに祈って神意を問う意であるから、商(はかる)ことを原義とする。古代王朝としての商は殷の正名でその都は大邑商といった。商はその神政的な支配を示す国号であったと思われる。

 商は神意を計ることを原義とし、そこから商量の意が生まれ後通商の意となったものであろう。


まとめ
 今我々が日常不断に使う「商」という漢字は、古代中国の「商」という国に由来する。この国は国名からして、血塗られた侵略と構想のの中で生まれ育った。人類は、このようにして戦いと侵略の歴史を繰り返してきた。それから後の生産力の高揚と相まって、血なまぐさい戦争の繰り返しから脱して、平和に生活することが出来るようになった。我々はこの人間の歴史からともに共存するという生活様式・生き方を今後とも大切にしなければならない。



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2021年6月15日火曜日

殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり

 殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり


本記事は2012年6月28日木曜日にアップした記事「殷の起源と由来」を全面的に加筆修正したものである
殷という国は、紀元前1600年頃、今の中国の河南省の辺りで栄えた連合体国家であった。殷という国名は殷の人々自身がそう呼んでいたのではなく(むしろ彼ら自身は自分のことを「商」と呼んでいたようであるが)、これを滅ぼした周人がこの商邑という国家連合をさげすみの心で「殷」と呼んだということである。
その心は「殷は国の腹全体に膿がたまった国」という意味だ。


  因みに殷の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。

しかし、これ自体は高度な医療技術で、商人は高い医療技術を身に付けていたことが、図らずも、殷の国の蔑称となった、漢字から明らかになった。



殷という字の解析

  「殷」これは会意文字である。甲骨文字の「殷」の字は左辺はおなかが突出した人間の形である。右辺は今まさに手が鋭い針の形ものを持っている形である。両形の会意文字で、針を以て人の腹を指していることを表示している。疾病を治療する意味である。金文の「殷」の字は、甲骨文字を引き継ぎ、小篆もまた金文を引き継いでいる。文字が一歩一歩変化している中で、楷書の「殷」とかくようになった。


広大な王墓の門

殷の本義は手術用の石針で切り開き、血を放出する

「殷」の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。この種の篩治療手段は3つ効果:その一骨ばり、竹針、金属バリを用いて刺治療、その二は石片、角骨片を用いて急性のカタルを切ったり、放血治療したり、第3には外科手術の切開に用いたりした。

殷は針または放血のことで、放出した血は往々にして赤黒いものである。この為殷には黒紅色の意味もある。《左伝・成公二年》にある如く、「左輪朱殷」は即ち左の車輪は血で染まって赤黒かったという意味である。針石で、化膿部を破った時に声が出た。だから「殷」は声の様な言葉にも見える。「Yin」と読む。《诗·召南·殷其雷》の殷其雷は雷の音殷殷としてのという意味である。 



殷朝の国王の墓に埋葬されていた戦車と人馬
周から見れば
殷は国の腹全体に膿がたまった国

 「殷」も周人が商を滅ぼした後、周人が商王朝に付けた蔑視的なあだ名である。意味は「商王朝の統治者は飲んだくれで色に溺れ。王国全体が腹に膿がたまった病人のようだ。周人はイシバリを手に取った医者で、彼らに最初の手術をした。だから周人は敵を恨み商を殷とよんだ。


周人が殷を滅ぼした後、商王国が数百年架かって作り上げ、蓄積してきた大量の財宝を掠め取った。だから、「殷」は膿の溜まった凸部,腫れという意味から拡張して盛大なとか多いという意味が出てくる。現代中国語の中で「殷」は財物について、充足していることを指す。また感情については「深く厚く」を指す。殷切、殷憂のとおりである。また更に拡張して、熱情、周到の意味もある。殷勤の言葉の様なもの。

 

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2020年6月2日火曜日

漢字「里」:資本主義を危機に陥れているグローバリズムから抜け出す概念になりうるか


里山資本主義:グローバリズムの暗闇の中の光明になりうるか
資本主義の煉獄の中で
 漢字「里」の起源と成り立ちは如何に。コロナ騒ぎの中で、コロナウイルスがパンデミックの広がりを見せる背景として、問われているのがグローバリズムであるといわれています。人間のあくなき欲望はアフリカや南米のジャングルを切り開き深い自然の中に押し込められていたものを不用意に開放した結果、様々な未知のウイルスが人間の間に蔓延することになってきたといわれています。  そしてコロナの疫病の克服のため、世界経済は深い痛手を蒙り、サプライチェーンの見直しが迫られ、ITの進化に伴い労働の態様の変化が生じ、一人ひとりの働き方までも対応を迫られてます。 たかが風邪だとたかをくくっていた人間は今までに見たことのない変革を突きつけられているといえます。


資本主義の今日の到達点
 このように人間は、資本主義を通じ生産力を極限にまで拡大し、ついには生産力が消費をはるかに上回ったために、生産消費、再生産というサイクルを破壊し、生産力が生産体制を崩壊させるまでに至りました。
 その後幾たびかの修正を加えながらもどうにか今日まで、体制自体を維持してきたのですが、今日に至って、資本主義体制は地球をも破壊し、資本主義自体を存続させることができなくなっています。  この変化は、資本主義の終焉を示唆しているとも考えられ、全く新しい価値観が必要とされています。



里山資本主義:グローバリズムの弊害から如何に抜け出すか
 そこで、アンチグローバリズムのテーゼとして「里山資本主義」が当面のソフトランディング先として注目されているのは当然の帰結だと思います。つまり利潤最優先のシステムではなく、トータル的にバランスの取れた、生産、分配、消費システムが求められているわけで、過度のグローバリズムを排し、地域の特色を生かした生産対戦を構築する。地域で消費するものは地域で生産をし、流通の賦課を少なくする。全体の生産はITを駆使し、地球規模でのバランスをとりながら生産体制を構築する。
 この実現のための絶対的条件は、グローバリズムの元凶たる無国籍企業やGOFAといったIT企業、アメリカ、中国などの国際企業化した帝国主義を民主主義的な機構の下に支配下に置くことです。
 果たしてそんなことが可能であろうか?今まで人間は強欲の中に埋もれてきた和歌だが、そろそろ民主的な発想に従うのが人間の英知というものだろう。


 以上の議論を踏まえ、漢字の「里」が生まれた原点に立ち返ってみたいと思います。
引用:「汉字密码」(P238、唐汉著,学林出版社)


田と土から構成される
唐漢氏の解釈
「里Li」、これは会意文字です。「田」と「土」という言葉を組み合わせたもので、土地を「田」の形に区分した後の、そのうちの1つを意味します。
 「里」の本来の意味はあるブロックに分かれているエリアを指します。
 「周礼」では「5家族が隣人、5隣人が里」と記録している。つまり、一箇所に住んでいる25家族は「里」と呼ばれている。つまり、田畑の区分を表した。
 また、「里」という言葉は、面積の単位を表すために使用されます。<韓詩外伝>幅300歩、長さ300歩は、「1里」です。古代人はまた、マイルを長さの単位として300歩を1里とします。



結び
 里は殷の時代の土地区分税制に基づく、井田制の区画の中をあらわしていた。そしてその区画に基づき古代の賦課が実施されていたようである。その一単位としてして里があり、、後に集落を指すようになった。そして、里山にあるように田畑の中の集落を里というようになったようだ。

 今まで人間は強欲の中に埋もれてきた和歌だが、そろそろ民主的な発想に従うのが人間の英知というものだろう。




***** ご参考に *****




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2016年7月26日火曜日

鼎にまつわる故事

鼎とは三つの足と二つの耳を持つ金属製の釜のことで、古代中国では祭祀、料理、表彰の具、釜茹での刑に用いられた。通常は3本足であるが、方形の鼎は3本ではなく4本の足を持つ。




 左の写真はいずれも中国の殷墟跡博物館に陳列されていた円形、方形の鼎である。
これらの青銅の鼎は、大きさはそれほど大きなものではないが、同じ殷墟の正面には非常に大きな鼎が展示してあった。この殷墟のものは、殷や周の時代のものであり、紀元前1500年のものである。
 下の写真は中国安陽にある「殷墟王陵遺跡」の正門近くに安置されている超大型の方形鼎である。これそのものが遺跡から発掘されたものかはわからない。ただし遺跡内にはかなり大きな鋳型跡が残されていたので、殷の時代にはすでにかなり高度な鋳物技術が発展していたであろうと想像している。
 中国ではこの殷が周によって亡ぼされた後、数百年を経て春秋戦国時代に入り孔子などの諸子百家の活躍の後ようやく秦の始皇帝による天下統一が完成する。



 鼎は中国の王朝においては、非常に大切にされていた。日本でいうとさしずめ「三種の神器」にあたり帝位の象徴とされてきた。
 中国に古くから伝えられている成語に「鼎の軽重を問う」というのがある。この意味は「帝位を狙う下心を持っている」という意味であり、これが転じて、「相手の内情や実力を見透かして、その弱みに付け入る」の意味にもなっている。  この成語が生まれたのは周時代の末期のBC600年ごろ楚の莊王が周王と洛陽郊外で対立していたころの逸話から生まれている。
 当時楚の荘王は春秋の五覇に数えられるほどの実力を持っていたし、天下に対する野心を持ち、周との一戦を構えようと虎視眈々と機会をうかがっていた。荘王はかねてから覇権のシンボルと言われ、周の王室に伝わるという「鼎」というものについて知りたかったので、使者にその軽重を尋ねた。使者は「鼎」について、それが夏の禹王が諸侯に命じて銅を供出させこれを用いて鋳させたものであり、朝廷が夏から殷にそして周に移ってからも700年余り周で受け継がれてきたことをとうとうと述べた後、「そもそも鼎の重さが問題になるものではない。要はそれを持つ者の徳が有るかないかが問題なるのである。鼎は常に徳のある所に移ってきており、周は衰えたといえども、鼎を伝えてきたことは天命の致すところであり、したがって鼎の軽重など尋ねられるいわれはない」と突っぱねた。荘王も力づくで奪うわけにいかず、兵を引き上げたという逸話が残っている。
 ところでこの鼎の行方は、周が滅びた後秦に運ばれる途中、泗水に沈んだといわれている。
    以上「中国故事物語」(後藤、駒田、常石著 河出書房新社)参照 

2015年12月13日日曜日

来年の干支は「申」


  来年の干支は「申」である。今から3500年前の殷の時代の廃墟から出土した甲骨文字の中に、すでに十二支十干で暦を表していた。干支についての考察はすでに以前に触れているのでここであえて触れることはない。
 古代の人々が農耕のために暦を作る必要に迫られた時に、何をよりどころにするか?唐漢氏が主張するように、自分たちの身の回りで繰り返される人が生まれ成長し、それに何を期待し願うのかの思いをそこに込めてそれをよりどころとする説はそれなりに説得力がある。それはあくまで仮説であって、諸説紛々としているのは事実である。
 しかし彼らは何故を持って十二支としたのか、まだ明確な回答は示されていないように思う。一年は12か月、そして子、丑・・という字を当てはめ12年で循環させたその理由はいったいなぜだろう。子という字に鼠を当てはめ、丑という字に牛という動物を当てはめたのは、文字の読めない人々にも理解しやすいように動物の名前を当てはめたというのは理解できる。
 来年の干支は「申」であって、「猿」ではない。では古代人が申としたその字はどういう意味を持っているのだろう。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

 申という字は指事語である。「申」の字の構造的な形は、女の嬰児に対する期待から発生したものである。 甲骨文字の「申」の右半分は (匕)で、これは即ち、母獣の生殖器の指事造語である(漢字源によると「匕」は妣の原字で、もと、細い隙間をはさみこむ陰門を持った女や雌を示したものという。)この借用で女の嬰児の性別を表示する。匕の左下の符号は女子の嬰児が大きくなって生育したことを示している。このため申の字は女の嬰児の意味で、また女が女を生み代々続く意味である。 人々はとうの昔にその形の深い意味を知らなくなっている。金文の申の字は字形の美形化と同時に、又その内容については失われてしまっている。小篆ではまさに上下の2個の指示符号いわゆる両手に変化している。楷書では誤りに誤りを重ね、又両手は合併され「申」と書くようになっている。
 「申」の本義は一種の期待と願望だ。即ち母系血縁に照らして、代々延々と続くことを呈示している。このことから引申はまっすぐ伸ばす、展開の意味になった。

「申」の嘱望、期待の意味から、又陳述、表白の意味が出てきた。

「比」は狭いすき間を置いて並ぶ、「屁」は狭いすき間から出るおなら

参考 指事語とは「中日大辞典」(愛知大学・大修館書店編)によると「形を模することができない抽象的概念を表すために符号を組み合わせる造字法」とある。
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2014年11月24日月曜日

干支十二支の起源と成り立ち


 2011年2月10日のブログですでにふれた通り、殷商の時代すなわち甲骨文字が生まれた時代に早くも十二支は天干と共に日にちを表すのに用いられている。干支は十干と十二支の二つの概念で構成されている。十干とは天干ともいい、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10種類からなる。十二支は子丑虎卯辰己馬未申酉戌亥は地支といい、天干と地支と相交えて日にちを表していた。 「上古の先民は何のためにこの漢字を作ったのだろう。彼らはまたどんな事実の証拠になるのか。こういう漢字を作るようになってきたのか。 個体発生学と人類発生学の相似の一面が科学的に証明される。殷商民族は商代の甲骨文字に刻まれている、干支年表の緑子の時期に酷似している。人類の発生の時期、全てのものは現象を持ってそのよりどころとした。文字もその例外ではない。

引用 「汉字密码」(P866、唐汉,学林出版社)

 安陽の殷墟の小さな村で発見された、甲骨文字が刻まれた「甲子年表」はほぼ中国で最も早くカレンダーが順序どおり並べられていたことが知られている。出土した商代の甲骨文は多数干支で日にちが記され、商代すでに干支で日にちを記す方法が行き渡っていた。しかし、地支「十二支」の形と意味は今日に至るまで、諸説紛々としており。いまだ共通認識にいたっていない。
 またウィキペディアによると、「また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。」とあり、いま一つはっきりしない。


 しかし後世のこじ付けともいえる命名のことはともあれ、なんと今から大方4000年前、中国では夏、殷、商という高度な文明を持った王朝が栄え、干支年表というカレンダーを作っていた。そしてそのカレンダーの中身は、子丑寅卯辰己馬未申酉戌亥という漢字を用いていた。
 わが唐漢氏は、「子丑寅卯辰己午未申酉戌亥」という漢字が、大きく二つに分けられ、前半の「子丑寅卯辰己午」は人間の胎児の時代から、産道を通って出産してくる現実の出産過程を表し、後半の「未申酉戌亥」は未だ未然のことではあるが、嬰児が夭折なく、無事育つよう、希望と期待をあらわしていると解釈する。
一方天干も実は生命消長の循環過程を分説したものであるといわれている。以下の意味合いを持っているとの説が有力である。


甲 こう きのえ 木の兄    草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意
乙 おつ きのと 木の弟   陽気のまだ伸びない、かがまっているところ
丙 へい ひのえ 火の兄   陽気の発揚
丁 てい ひのと 火の弟   陽気の充溢
戊 ぼ つちのえ 土の兄  “茂”に通じ、陽気による分化繁栄
己 き つちのと 土の弟   紀に通じ、分散を防ぐ統制作用
庚 こう かのえ 金の兄   結実、形成、陰化の段階
辛 しん かのと 金の弟   陰による統制の強化
壬 じん みずのえ 水の兄 “妊”に通じ、陽気を下に姙む意
癸 き みずのと 水の弟 “揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態

  こうしてみると唐漢氏が十二支は人の出産・成長過程を表したもので、古代人が時を表すのに、身近に起こる出来事で象徴的に表したものだという説をとったことは合理的だという気がする。

2012年7月28日土曜日

古人の主食:粟、米、麦、稷、豆 総称の「禾」の起源、由来


中国は東アジアの文明の中心である。

  世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。
 中国は東アジアの文明の中心である。また世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。この歴史的遺物は、有史以前に農耕文明が燦然と輝いている存在であることを示している。

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
 その頃は主食は北方の地域では、稷(きび)や粟であったろう。これらの作物は乾燥に強く、干上がることの多かった黄河流域の比較的北方の地域ではよく作付されていたであろう。ところが南方即ち長江流域では既に米の栽培がなされており、水田も多く広がっていたと考えられる。それぞれが植えられ始めた時期はそれほど違ってはいないだろうと考えられている。


古代人の主食は「禾」

 禾という字の甲骨文字、金文は皆熟した穀物の様である。下部は根、中部は葉、上部は一方に垂れた穀物の穂である。古文の字を作った意味は見て分かるように、穀物で、まさに完全な形状をなしていて、本義は穀物を表す。 説文によると、禾を解釈して、よく実った穀物のこと。二月に生え始め、8月に熟し、時を得るうち、これ禾というなりとある。


「禾」は五穀の総称


 ここで禾は実際は粟のことを言い、粟を脱穀したものをいい、これが北方地方では古代では主食であった。これは猫じゃらしが穀物として成功したものだ。中国東北地方の旱作農業地域では主要な糧食であった。

 こうして何千年のうちに、農耕技術も発達し、貧富の差が生まれ、村が邑となり、大きな邑連合が形成され、都市国家を形成するようになり、殷商の時代に突入して行く。 
殷商の時代には広くいきわたり、産量が最大の糧食作物になっていた。秦の時代には禾は穀物を指し、もっぱら粟のことを指していた。

  漢字が甲骨文から金文に至るまで一つの例外もなく、歴史的証左で、一字一字農耕文明の残した暗号が数多くあり、農業技術の一歩一歩の推進を示している。また、同時に華夏民族の農業の文明の歴史過程を反映したものであることが分かる。 

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2012年6月28日木曜日

殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり  

 殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり

殷という国は、紀元前1600年頃、今の中国の河南省の辺りで栄えた連合体国家であった。殷という国名は殷の人々自身がそう呼んでいたのではなく(むしろ彼ら自身は自分のことを「商」と呼んでいたようであるが)、これを滅ぼした周人がこの商邑という国家連合をさげすみの心で「殷」と呼んだということである。

 その心は「殷は国の腹全体に膿がたまった国」という意味だ。

  因みに殷の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。

殷という字の解析

  「殷」これは会意文字である。甲骨文字の「殷」の字は左辺はおなかが突出した人間の形である。右辺は今まさに手が鋭い針の形ものを持っている形である。両形の会意文字で、針を以て人の腹を指していることを表示している。疾病を治療する意味である。金文の「殷」の字は、甲骨文字を引き継ぎ、小篆もまた金文を引き継いでいる。文字が一歩一歩変化している中で、楷書の「殷」とかくようになった。


広大な王墓の門

殷の本義は手術用の石針で切り開き、血を放出する

「殷」の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。この種の篩治療手段は3つ効果:その一骨ばり、竹針、金属バリを用いて刺治療、その二は石片、角骨片を用いて急性のカタルを切ったり、放血治療したり、第3には外科手術の切開に用いたりした。

殷は針または放血のことで、放出した血は往々にして赤黒いものである。この為殷には黒紅色の意味もある。《左伝・成公二年》にある如く、「左輪朱殷」は即ち左の車輪は血で染まって赤黒かったという意味である。針石で、化膿部を破った時に声が出た。だから「殷」は声の様な言葉にも見える。「Yin」と読む。《诗·召南·殷其雷》の殷其雷は雷の音殷殷としてのという意味である。 



殷朝の国王の墓に埋葬されていた戦車と人馬
周から見れば
殷は国の腹全体に膿がたまった国

 「殷」も周人が商を滅ぼした後、周人が商王朝に付けた蔑視的なあだ名である。意味は「商王朝の統治者は飲んだくれで色に溺れ。王国全体が腹に膿がたまった病人のようだ。周人はイシバリを手に取った医者で、彼らに最初の手術をした。だから周人は敵を恨み商を殷とよんだ。


周人が殷を滅ぼした後、商王国が数百年架かって作り上げ、蓄積してきた大量の財宝を掠め取った。だから、「殷」は膿の溜まった凸部,腫れという意味から拡張して盛大なとか多いという意味が出てくる。現代中国語の中で「殷」は財物について、充足していることを指す。また感情については「深く厚く」を指す。殷切、殷憂のとおりである。また更に拡張して、熱情、周到の意味もある。殷勤の言葉の様なもの。

 

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2012年3月26日月曜日

「酒」よもやま話と漢字「酒」の起源と由来

 ここでは、少し趣向を変えて「「酒」のよもやま話と漢字「酒」の起源と由来」について触れたいと思うので、酒で一献傾けるつもりでお付き合い願えたら幸いです。

中国の酒
 中国の酒は地域ごとに製造機法と独特の味,香りを持っていてその種類と名前が多様で、約5,000種以上に上ると云われている。 中国酒は製造方法により大きく分けて白酒,薬味酒,黄酒に分類される。

白酒
 白酒は一般蒸留式透明な色の酒でよく白干だと呼ぶ。酒の主原料は高粱であり、とうもろこし、小麦、エンドウなども原料で使われる。 蒸留式技法で製造される白酒のアルコール度数は38-60%間で、透明な色を持っている。 代表的な酒としては古井貢酒,五粮液,茅台酒,孔宝家酒などがある。一般的に香りがきつく最初は腰が引けてしまうが、慣れるとこの「くせ」に嵌ってしまう。

 薬味酒は白酒に色々な漢方薬などを添加して、糖分を含む酒で製品の類型はリキュール酒に属する。 代表的な酒としては五加皮酒、竹葉青酒などがある。 


黄酒
 黄酒は米を原料とした醸造酒で、揚子江南部が主要生産地で紹興酒が有名である。この為中国南部では紹興酒が好まれ、北部では白酒が多く呑まれているようだが、最近では、ビールの需要が大きくなってきている。

ビール

 ビールは青島ビールが有名だが、ハルピンビール等地産のビールが結構販路を伸ばしている。近年は宴会では白酒が結構呑まれるが、日常生活ではビールがシェアが伝統的な酒より需要は大きくなていると思う。

 私も元来酒が嫌いな方ではなかったので、中国ではいろいろの酒を飲んだ。押し並べての感想は、

中国の酒の特徴

  1. 中国酒は一般的に製造過程に独特の香りを持っている。
  2. また、どの酒もそこそこの品質を保っているように思える。つまり中国人は酒であまり嘘をつかないのでは?(酒の上でという意味ではなく)酒そのものは真面目に取り扱っているように思えるという意味だ。
  3. 千差万別とは思うが、そこそこの酒を安く飲めるということだ。びっくりしたのは天津の地酒(白酒)を500cc2元で替えたということものあった。日本円で30円である。

漢字の「酒」
さて漢字の「酒」について立ち返って見よう。

    
「酒」これは会意文字であり、形声文字でもある。甲骨の字の酒の字は「酉」の字である。即ち酒瓶の象形文字である。両側の曲線は酒が溢れ出している様を表し、また酒の香りが四散しているとも理解できる。金文の酒の字は水の字を用いて、酒が大きな酒瓶に入った液体であることを強調している。

   小篆の酒は左側に水の字を加え、液体であることが強調されている。右辺の「酉」は盛器を表示している。楷書は小篆を引き継いでいる。


酒の文化の浸透
 酒を飲むこと及び酒文化が盛んになると強く人の精神を恍惚とせしめようになる。上古先民の意識の中では、酒は人々の虚ろで幻想の世界に入るのを助け、一種の人と神の関係を橋渡しする霊的なものを備えていると考えるようになった。その為に祝い事、神霊の祭祀から兵士の出征等すべてに酒を離れることが出来なくなった。酒ある方に祭りあり、酒ある方に宴ありの状態に達するまでに至った。

 しかし上古の時代には先民たちは未だ酒を十分飲むことはなく、酒は医療や病気に用いていた。これは□(医の旧字)の字には酉がつく理由である。
  殷商時期、酒は人々が大変好んだもので、祖先祭祀、出征の時、愛を交歓する全て時に時酒から離れることはできなかった。アルコールは殷商民族のプライドを実際以上に誇大にしたため(一種のアルコール中毒)、征伐は頻頻で残酷であった。アルコール中毒の為出産率が低下た。「醜聞天にも聞こえた為天は降りて来て殷を滅ぼし周に取って代わった」と言い伝えられている。つまり殷は酒で滅んだということだろうか。殷の紂王の淫乱から生まれた諺(成語)に「酒池肉林」がある。
酒にかかわる故事・成語がより詳しく展開されています



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2010年6月2日水曜日

「男」という漢字の起源と由来は

今回は引き続き男と女の問題について上古の昔に戻ってみよう。

甲骨文字_男
男という字は会意文字である。甲骨文字の字の左は「田」である。この意は農耕のことである。

右側は「力」。これは「加」や「幼」の中の記号と同様である。元々は男の生殖器を指しており、ここでは男性を示す記号である。


小篆_男
 金文の男の記号は田の下に来ている。小篆の形体は基本的には金文と同じである。ただ「力」という字が完全に「田」の下に来ており形体もまた少しごちゃごちゃしている。楷書の「男」は小篆を引きついているが、「田」と「力」で簡単明快である。

殷商の初期、農耕はまさに土地を焼き、木の先を尖らして地上に穴を掘り、種をまいた後土をかぶせて、農作業を終えるといういわゆる焼き畑農業が行われていた。この種の簡単な労働は主として女が受け持った。しかしながらたとえ農耕の主力が女としても、氏族の集団で狩をしたり、狩猟は男の担当であった。このようにして甲骨文字の中の「男」の字は、商王国の中でもっぱら農耕部落の首領をさすようになった。


史書に記載している周の時代の「公候伯子男」爵の中の男爵は常々農事に功のあった臣に授けられる爵位である。この種の制度は殷商の時代の「男服」に源を発している。即ち「男服」とは常々農耕に従事しさらに王に農産物を貢ぐ部落の首領あるいは小規模の候国の王のことである。
周が滅んで後、華夏民族にとって民族的歴史に真の農耕時代をもたらされた。このときから狩猟活動は減少し、農業産出物が食物の本源的な主体となった。更に体力の強壮化によって、男子は農耕の生産の主体を担った。これに反し女子はその生理的条件と社会的地位の制限により、農耕領域では二次的な生産者の位置に下がってしまった。そうして家務を切り盛りし、桑や麻をつむぐことを主要な職務となった。
農耕と男子のこの種の関係は、「男」の字に新しい意味を付け加えることになった。農耕即ち男子のことである。「説文」(漢字の集大成された古文書)で「男は主人である。田と力から、力を持って田をなすことを男という。」
男の性別の意味が氏族の首領の意味に取って代わって以降、畑の中で労働する男を指し、さらに拡大して一般に成年男子のことを言うようになった。もちろん限定された使い方で、男の子を意味したり、息子を意味する場合もあるが・・。




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2010年5月24日月曜日

漢字「家」:起源と由来 「家」の中になぜ豚がいるのか 太古の昔の生活習俗に基づいていた

 なぜ、「家の中に豚がいるのか」その理由は太古の昔の生活習俗に基づいていた

 漢字「家」:起源と由来 「家」の中になぜ豚がいるのか 太古の昔の生活習俗に基づいていた

 遥か3500年前の遺跡の考古学の発見から見ると先住民は豚を家畜として飼っていた証拠がある。甲骨文字の形から見て、家の中にある豚は一頭の雄豚である。しかしなぜ雄豚なのか?

 この謎は太古の昔の雲南省の部族の風習から解き明かすことが出来るとし ている。

 納西族の婚姻の習俗は母系性社会の族外婚の一つの段階にあった。女の子は成長した後も、家族の中の母と父と暮らし、それから後も彼女は一棟の部屋を持ち単独で居住することが許される。、氏族男子が夜訪れ、泊まることになる。

   面白いのは、全く同じ習俗を、その当時の先住民の豚を飼う檻を訪れる野性の雄豚に発見することだ。夜な夜な彼らの豚の檻に野豚が訪れ、しかも同時に彼らの母豚をはらませ、巣に子豚を恵んでいる。この頼みもしない野豚はまるで太古の昔の男子と同様で、夜が明けるとすごすごと去ってしまう。両者は恐ろしくよく似ている。

 これが当時の男、野豚の雄の重要な役割であったということだ。男は部族の女にとっては共有財産?だったといえる。

 この種の婚姻習俗はかつて優れたシステムであり続けた。殷商の末期には、商民族の中下層社会に敷衍した。しかし秦になって以降、この種の「放蕩?」な現象に制止がかかり、以降この風習は廃れたという。何らかの理由でこのシステムの存在価値がなくなったのだろう。

 これが家の字の中に雄豚のある原因である。

 こんなややこしいことをいうまでもなく、上古の時代は生産力が低いので、繁殖力の高い豚は珍重され、家の中で豚は飼われていたからだという説もある。


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