ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年4月26日月曜日

漢字「来」の由来の意味するもの:「来」は麦の象形であった。この「来」と「麦」はどうしても結びつきません


漢字「来」の成り立ちと由来の意味するもの:「来」は麦の象形であった。この麦こそ、黄河文明を誕生させた立役者とともいうことができる
 漢字「来」は麦の象形であった。この「来」麦のお陰で、荒ぶる黄河の流域に穀物が豊富な黄河文明を来たした。しかしこの「来」と「麦」はどうしても結びつきません。「来」はどこから来たの?
 その謎は甲骨文字などの太古の文字を見れば解ける!
漢字「来」の楷書で、常用漢字です。漢字「来」は実は大麦だったのです。大麦の原産地は今のイランやイラク辺りだったということですが、3800年ぐらい前の新疆ウイグル地区の遺跡からこの種子が発見されています。
 夏商時代に西から伝播し黄河の流域で種をまかれ、栽培されたのではないかと推察されています。
「来」・楷書
このデッサンから、大麦ではなかったかと推察されている。




甲骨文字から、小篆の時代までおそらく1000年近くの時の流れがあったろう。その間の文字の変化は、社会の変化であったろう  
「来」甲骨文字「来」・金文
「来」・小篆


    


「来」の漢字データ
 

漢字の読み
  • 音読み   ライ
  • 訓読み  く(る)、きた(る)、きた(す)

意味
  • 来る  単純に行き来の「来る」(「去る」の反意語)
  • きたる(近いうちにという意味を表す)
  • きたす  結果として、ある事柄を生じさせる。結果になる

熟語   家来、未来、本来、旧来、従来、由来




引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)
唐漢氏の解釈
 今から3800年ぐらい前の新疆孔雀河畔の古墳中にある。専門家たちは夏商時代、麦が次第に東方に伝播され、黄河流域の古代の先民が種植したと認識している。中国最古の典籍の一つの《書経》に記載によると「麰」が来たことを記されており、ここの麰は大麦で、「来」は小麦のことだ。


 

漢字「来」の字統の解釈
 象形 麦の形に象る。《説文》に「周受けるところの瑞麦・来麰なり。・・芒朿の形に象る」とある。周の后稷が楚の瑞麦嘉禾を手に入れて周が勃興するに至ったという伝承がある。周の后稷は農業神であり、周の始祖でもあるからこの伝承は古いものであるとしている。


まとめ
 漢字「来」の由来が面白い。原意は、麦の象形文字であったろう。しかし、この「麦」が、古代中国の農業生産に革命的役割を果たし、夏殷帝国に繁栄をもたらしたことから、「来る」という意味を持つようになったのであろう。ここにも生産力の発展が文字に与えた影響を見て取ることができる。



「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2019年5月5日日曜日

漢字「差」の原義に戻って、「貧富の差」、「差別」って何だを考えた!!


漢字「差」の起源と由来
 そもそも「貧富の差」ってなんだ?「差別」って何だ?漢字「差」の原義に戻って考える!!

 世界の富の6,70%は数パーセントの富裕層が独占している!! そもそもこの「差」って何だ?
  漢字はその中に、生活や考え方や文化が込められていて奥が深い。この「差」という漢字を通して、今から4000年前の生活を垣間見ることができます。

引用:「汉字密码」(P232、唐汉著,学林出版社)
「差」の字の成り立ち」
 「差」、これは会意文字です。金文の「差」という言葉は、古代人が小麦の穂を脱穀するために、小麦の穂を手で揉みほぐすことから来ています。「差」という単語の上の部分は「麦」の単純な形であり、下の部分は「左」であり、仕事の手を示しています。小篆の「差」という言葉は、簡単化で象形を失った後の楷書では「差」と書かれています。


 また、「左」のヒエログラフの解釈は、本ブログの「左は「工具」を持つ手の象形文字」のページを参照ください。
 また、ここで穂のヒエログラフが何故麦かということに対しては、漢字の発生した中国の「中原」という地方では、稲作は盛んでなく、基本的に麦、稗、粟といった穀物が作られていたことから、おそらく麦であっただろうと推察しています。

現代の「差」という意味はどうして生まれたか?
 古代の社会では、脱穀するのに石の盆や陶器の鉢が使われていました。その内壁は不均一な研削パターンを持つことが必要でした。したがって、「差」とは、長短、高低が平たくないという意味です。このことから現代で使う「差」という意味が生まれ、標準ではなく不十分であるという意味にもなります。
 従って、「差」という漢字は、足らないときや不足であるときに使われるようで、他と比べ優位にあるときには、余り使われないようです。


漢字源
 会意兼形声。「左」と「穂」の形を表現した。「左」そばから支えるの意味+「穂」を示すことで、穂を交差して支えると解釈する。


字統
 形声字であると解釈する。
意味は「禾」を神に「差」(すすめて)、祝祷するという意味を持つ。


「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2012年7月28日土曜日

古人の主食:粟、米、麦、稷、豆 総称の「禾」の起源、由来


中国は東アジアの文明の中心である。

  世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。
 中国は東アジアの文明の中心である。また世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。この歴史的遺物は、有史以前に農耕文明が燦然と輝いている存在であることを示している。

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
 その頃は主食は北方の地域では、稷(きび)や粟であったろう。これらの作物は乾燥に強く、干上がることの多かった黄河流域の比較的北方の地域ではよく作付されていたであろう。ところが南方即ち長江流域では既に米の栽培がなされており、水田も多く広がっていたと考えられる。それぞれが植えられ始めた時期はそれほど違ってはいないだろうと考えられている。


古代人の主食は「禾」

 禾という字の甲骨文字、金文は皆熟した穀物の様である。下部は根、中部は葉、上部は一方に垂れた穀物の穂である。古文の字を作った意味は見て分かるように、穀物で、まさに完全な形状をなしていて、本義は穀物を表す。 説文によると、禾を解釈して、よく実った穀物のこと。二月に生え始め、8月に熟し、時を得るうち、これ禾というなりとある。


「禾」は五穀の総称


 ここで禾は実際は粟のことを言い、粟を脱穀したものをいい、これが北方地方では古代では主食であった。これは猫じゃらしが穀物として成功したものだ。中国東北地方の旱作農業地域では主要な糧食であった。

 こうして何千年のうちに、農耕技術も発達し、貧富の差が生まれ、村が邑となり、大きな邑連合が形成され、都市国家を形成するようになり、殷商の時代に突入して行く。 
殷商の時代には広くいきわたり、産量が最大の糧食作物になっていた。秦の時代には禾は穀物を指し、もっぱら粟のことを指していた。

  漢字が甲骨文から金文に至るまで一つの例外もなく、歴史的証左で、一字一字農耕文明の残した暗号が数多くあり、農業技術の一歩一歩の推進を示している。また、同時に華夏民族の農業の文明の歴史過程を反映したものであることが分かる。 

「漢字の世界の起源と源流を探る」のホームページに戻ります。

2012年7月18日水曜日

麦は太古から貴重な穀物

麦の歴史は非常に古く、比較的寒冷地でも、乾燥地でもよく育つことから、西アジア・西域の地で栽培されていたものが中国に伝わったのではないかといわれている。昔から安定的に収穫できる作物として、重宝されている。

当時の食生活は、庶民は粟飯、貴族は黍飯その他麦、米などが食膳に上っていたようだ。
調味料としては、6,7千年前には既に、醤、酢、酒が開発され、今から3,4千年前には調理法も
煮る、焼く、炒る、煎じる、蒸すなど多岐に渡り、基本形は確立され、既に現在と殆ど変わらないような調理がされていたものと思われる。もちろん冷凍マグロなんてのはなかっただろうが・・・。チーズなどはあったのだろうか?興味は尽きない。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社, P214)

 「麦」これは小麦の専称とである。また麦類の作物の総称でもある。甲骨文字の麦の字は会意文字である。上辺は麦の株を植えるデッサン(来)で、下辺は足をひっくり返した形である。金文と小篆の「麦」は甲骨を受け継いで、麥と書く。漢字の簡単化から「麦」と書かれる。

 ある人は「来」の下に一つの足を増やしたことは、春に小麦は芽を出すとき、農民は足で踏みつけ麦の苗を押し付け踏みつけることからこれを表したものだ。 この種の情景は近代の農村にあってもまだ尚見ることができ、しかし、3300年前は分からない。先人はまだこの小麦の習性を理解できていなかったこともありうる。

 「麦」 は農業文明中非常に重要な位置を占めている。《礼記・月令》の中で言うには、「麦」は断絶と継続の乏しい穀物だ。即ち「いつも秋になってまだ作物が成熟していない時に、麦が収穫でき、まさにこれは絶えて何もかも乏しいときでも、続けて収穫できる。「本草図経」で、麦は五穀の中で貴重だ。周人が殷商を滅ぼしたもの、秦が六国を平定したものその強大な物質的(主要には食料)基礎があり、麦に関係があるに違いないといっている。

 司馬遷は「史記」のなかで麦の故事として触れている。殷商が周によって滅ぼされた後、箕子が周の王都镐京に行きたくなった、殷商の古都を通過したとき、昔の豪華な宮殿が既に荒れて田地になっており、感極まった。一首「麦秀歌」を作った。「麦は次第に芽を出し花が咲く。黍は悠々とゆったりとしている。あの軽薄な子供。われ好まず。この歌の中では箕子は「軽薄な子」で以って、暗に殷の纣王を批判し、纣王が彼を信任して重用しなかったことを述べている。国敗れて人はなく、都は沈んで麦畑になった。殷の人はこの歌を聞き、しばし涙が流れて止まらずいつまでも嘆き悲しんだ。
「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。