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2012年7月18日水曜日

麦は太古から貴重な穀物

麦の歴史は非常に古く、比較的寒冷地でも、乾燥地でもよく育つことから、西アジア・西域の地で栽培されていたものが中国に伝わったのではないかといわれている。昔から安定的に収穫できる作物として、重宝されている。

当時の食生活は、庶民は粟飯、貴族は黍飯その他麦、米などが食膳に上っていたようだ。
調味料としては、6,7千年前には既に、醤、酢、酒が開発され、今から3,4千年前には調理法も
煮る、焼く、炒る、煎じる、蒸すなど多岐に渡り、基本形は確立され、既に現在と殆ど変わらないような調理がされていたものと思われる。もちろん冷凍マグロなんてのはなかっただろうが・・・。チーズなどはあったのだろうか?興味は尽きない。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社, P214)

 「麦」これは小麦の専称とである。また麦類の作物の総称でもある。甲骨文字の麦の字は会意文字である。上辺は麦の株を植えるデッサン(来)で、下辺は足をひっくり返した形である。金文と小篆の「麦」は甲骨を受け継いで、麥と書く。漢字の簡単化から「麦」と書かれる。

 ある人は「来」の下に一つの足を増やしたことは、春に小麦は芽を出すとき、農民は足で踏みつけ麦の苗を押し付け踏みつけることからこれを表したものだ。 この種の情景は近代の農村にあってもまだ尚見ることができ、しかし、3300年前は分からない。先人はまだこの小麦の習性を理解できていなかったこともありうる。

 「麦」 は農業文明中非常に重要な位置を占めている。《礼記・月令》の中で言うには、「麦」は断絶と継続の乏しい穀物だ。即ち「いつも秋になってまだ作物が成熟していない時に、麦が収穫でき、まさにこれは絶えて何もかも乏しいときでも、続けて収穫できる。「本草図経」で、麦は五穀の中で貴重だ。周人が殷商を滅ぼしたもの、秦が六国を平定したものその強大な物質的(主要には食料)基礎があり、麦に関係があるに違いないといっている。

 司馬遷は「史記」のなかで麦の故事として触れている。殷商が周によって滅ぼされた後、箕子が周の王都镐京に行きたくなった、殷商の古都を通過したとき、昔の豪華な宮殿が既に荒れて田地になっており、感極まった。一首「麦秀歌」を作った。「麦は次第に芽を出し花が咲く。黍は悠々とゆったりとしている。あの軽薄な子供。われ好まず。この歌の中では箕子は「軽薄な子」で以って、暗に殷の纣王を批判し、纣王が彼を信任して重用しなかったことを述べている。国敗れて人はなく、都は沈んで麦畑になった。殷の人はこの歌を聞き、しばし涙が流れて止まらずいつまでも嘆き悲しんだ。
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2012年7月9日月曜日

古人は稷を主食としていた:漢字の「稷」の起源と由来

古代人は何を食べていたのだろうか。その主食はなんであろうか?それを解くカギは甲骨文字にあった。これから文字から古代人の生活を蘇らせることに努めていこうと思う。

 古代人は主食は五穀を食べていた。即ち黄河流域の北部の乾燥地帯では、稷(きび)、粟、長江流域では早くから水田が開かれ、大規模な灌漑工事が施され、主食は米であった。この外五穀には小麦、豆等があげられる。豆はどこでも栽培されていたようだが、小麦はむしろ西域から伝わったようだ。



以下は「汉字密码」 (唐汉、学林出版社)より引用

稷は穀物の長

「禾」が穀類の作物をおおよそ指す一方、粟は穀物が成熟後の種子を指すのに用いられる。粟が「谷子」の専用名称になったために、穀物の種子を表すには、今日に至るまでずっと「稷」が用いられている。甲骨文字ではまるで人が穀物の苗をもてあそんでいるような字形である。金文と小篆の「稷」の字は人の形が一つ一つ変わって、採集は一個の形声字に変わっている。説文では「稷」は五穀の長で禾偏と形声からなる。



稷は中国東北地方では最も良く栽培された

「稷」は乾燥にも十分耐え、北方の干からびた天候に適しており、産量も比較的安定する。脱穀後粟飯粥または炊飯は少しさわやかな香りがする。だから、稷は古代先民からは穀物の神のように見られ、五穀の長とみなされた。古人の稷に対する評価は「天下はこれで安定だ。危なくなるはずはない」


古代では稷は農耕文明の中心的存在

中国は元々農業大国を誇り、土地と菱食は立国の本と見立てていた。古人は社で以て土神とし、黍は穀物の神と見ていた。社稷(土地の神と五穀の神)併せて国家の代称の言葉とされた。(社稷は国家という意味がある)漢代の大学者班固は解説して、「人は土地に立つにあらず、穀を食うにあらず、土地広くても、教えるに偏ること出来ず、五穀多くとも、いちいち祭りもできず、故に土地に封じて役所を作れば、土地があること示す。 稷は五穀の長である。故に稷を立て、これを祭る。」この事から稷は農耕文明の中心的な重要な位置を占めている。


農業の発展につれ、「稷」の農作物の中での比重は減少


今日農業の発展、進歩するにつれ、稷の農作物の中で占める比重は次第に小さくなった。しかし社稷が国家の代称ということも、長期に下火になった。北京公園内で明清の両代皇帝が使用してきた社稷坛はよくよく整備され欠けたところがない。

以上引用終わり



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