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2024年6月18日火曜日

漢字 家の起源と由来:漢字・家の起源は地鎮祭にあり!


漢字「家」の起源と由来 「家」の起源は地鎮祭にあり!

 現在の漢字「家」は、はるか昔、今から約3500年前には、地鎮祭で生贄となった犬を表していた。
 やがて、「犬」は「支」さらに豚へと変化し、現在の「家」は宀+豕から構成される。
 どうして犬から、豚となったのか?

 なぜ犬から豕への変化したのか、変化しなければならなかったのか、ここで明らかになる。

このページは以前にアップした
「漢字「家」:起源と由来 「家」の中になぜ豚がいるのか 太古の昔の生活習俗に基づいていた」
に全面的に手を加えたものです。

導入

このページから分かること
 漢字「家」は宀(ウ冠)に豕(ぶた)と書かれる。なぜ屋根の下に豚と書かれて「家」を表すのか。太古の昔の生活習慣が、3500年の年月を経て今ここに蘇る。

前書き

目次




**********************

漢字「家」の今

漢字「家」の解体新書

 
漢字「家」の楷書で、常用漢字です。
家・楷書



  

 

漢字「家」の変化を明らかにするために、家の甲骨と金文のそれぞれ一款を、例として掲げてみた。甲骨文は家の中に犬がいる字で、これは生贄の犬が屋根のある矢代に埋められている状態を示したものという。

 金文の1款は、家の中に犬がいる状態であるが、この犬は、いわゆる「支える」という意味を示している。このことは、この家の中にいる、屋根の下にいる犬は、人間の生活を何らか「支える」役割を担っているのではないだろうか。そして、生活の発展の中で、「犬」から「豚」の登場になったと考えられる。

  
家・甲骨文字


家・金文


 




「家」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み   カ、ケ
  • 訓読み   いえ、うち

意味
  • 家屋
  •  
  • 家族
  •  
  • グループ

同じ部首を持つ漢字     家、嫁、蒙、
漢字「家」を持つ熟語    家、家族、家庭、一家


=====================================================

漢字「家」成立ちと由来

引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)

「漢字の暗号」の解釈

 雲南省のナシ族に伝わる結婚の習俗の中に、人々は「家の中に雄豚がいる」という謎を解くカギを見出すことができる。

 ナシ族の婚姻の習俗は、母系制社会の部外婚のステージを残している。女の子は成長しても家族の父や母と共に住み彼女は屋根付きの部屋をあてがわれる。
 彼女に一人で住まわせることによって、その他の氏族の男子が夜彼女を訪ねて一緒に過ごすことができる。明け方この男は起き上がって自分の家族の労働をしに帰っていく。飯を食べ休息の後、この男は新しい選択をすることができる。昨晩の女性の所に行って泊まるか、昨晩のとは違う別の女性の所に泊まりに行くかである。当然女性の方も、たとえかの男が彼女の家に幾晩泊まっておろうとも、男子の来訪を受け一緒に過ごすか拒絶するかの権利を持っている。

 家の所有者であるこの女性が妊娠し、その後子供を産んだ場合、子供は「母親は認識しますが、その父親は知らない」。お互いを愛し、彼(または彼女)とお互い愛するとしても、経済的一体になるのは、おじ、おば、おばあちゃん、そしておそらくおばあちゃんの母親、つまり母系家族全体のメンバー全員である。もしこの男の子が、成長したら、他の男性と同じように、自分の実の子供を残して、外族の女性と一夜を過ごすことになるだろう。彼は、たとえどのようなもてなしを受けようと彼をもてなした女性が彼の事実上の母親であっても、経済的な関係は持たないのである。

 この結婚の習慣は、殷王朝末期や殷王朝時代にも長い間存在してきたし、殷の中流階級と下層階級の間で依然として人気があった。西周初期の周公の摂政もこの種の結婚習慣に関係していた。秦の始皇帝が中国を統一した後、この「卑猥な」現象を止めるために、会稽を巡回した際に石に明確な命令発出した。

 この背景には、中国社会に極めて重要な変化が起こっていたと考えられる。すなわち、それまで連綿と続いてきた母系制社会が崩壊し、父系制社会に大変換を遂げていたことである。すなわち農耕が発達し、人口が急増し、より多くの生産の担い手を必要としていた。結果として、それまで機能していた、母系制に根差した氏姓制度が崩壊し、より中央集権的な社会システムに変貌していたことである。


漢字「家」の字統の解釈

 古くは 犬牲に従う字で、家の奠基のために犬を犠牲とした。卜文•金 文の字形は明らかに 犬牲に従っている。

 説文に「居なり。」に從ひ、豭の省聲」という。この省声説は、家を形声の字とするために、強いて声の近い字を求めたものにすぎない。「按ずるに、 この字は一大疑案たり」というが、ト文・金文はも とより、〔魏石経」の字も犬の形に従うており、「犬牲を埋めて奠基とする建物」の意である。その構造は、同じく犬牲を用いる冢 (塚)や墜(地)と似まっ ている。いずれも神霊を祀るところで、家もト辞に 「上甲の家」とあるように、先王の祀所を家というのが古義であった。屋は殯のための板屋、室は太室・玄室で、みな祀所をいう字である。のち家屋という。 家族・家系·家格・家名など、氏族の単位を家をもっていう。

 甲骨文字の成り立ちと文字の形成は白川博士の説の通りであろう。しかし、その後の文字の発展は、唐汉が説く過程も見逃せない。文字はその壮大な経済的背景を吸収し、ある意味緩やかに変貌を遂げてきたのである。したがって、犬牲の余韻は薄れ、いつの間にか実態を反映した「家」という字に代わってしまっている。


漢字「家」の変遷の史観

文字学上の解釈

 犬の墓から家になぜ変化した?
 白川博士によれば、家という文字は、当初は「家」ではなく、「犬牲を埋めたいわば墓」だとしている。
 しかし、「後に 家族・家系·家格・家名など、氏族の単位を家をもっていう。」に変化している。この変化はなぜ起きたのだろうか。自然発生的に起きたのではなく、歴史的必然性をもって起こるべくして起きたと考える。

古代人は犬をどう表現していたか?
 羊や牛のように体の一部を描くのではなく、全身を使って直立させて描いている。
 このように全身の特徴をとらえて描くことにより、より正確に生贄となった犬を描写することができたのであろうと考える。



犬の墓から「家」への変化はなぜ起きた?
 古代人たちは建物を建てる時に今日でも我々が行っていると同様の儀式である「地鎮祭」を行っていたのではないだろうか。そして神に「犬」を生贄としてささげ、その建物の安全を祈願して祈りをささげていたであろう。
 そして権力者の為だけに行われていた「地鎮祭」が、一般大衆の間にも普及し、地鎮祭のための犬の墳墓が、いつの間にか家そのものに取って代わられたのではないだろうか。

 長い年月を経て、地鎮祭は形骸化すると同時に、家父長制の実施に伴う生活様式の変化が、犬の代わりに豕というより経済的変化を反映させた「家」という文字を作り出したと考える。

まとめ

 家という文字が甲骨文字から小篆へと変化する過程を見てきた。そこに当初行われてきた呪術的風習から、実際の生活様式を反映させた文字へと変化する過程を目の当たりにすることができた。こうして文字を丁寧にたどることによって、数千年前までさかのぼった歴史的変化を垣間見ることができるようになる。今後もこの探求は続けられ行くだろう。

  


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2023年12月7日木曜日

漢字「馬」の成立ちと由来:馬と人間の係わりを漢字の中から探る


漢字「馬」:馬と人間は長い歴史の中で如何に係わってきたか、そしてそれは漢字にどう反映されたか?

 馬は昔から、人間の生活になくてはならないものであった。というわけで馬にまつわる話にはことを欠かない。馬は起源は北米だという説もあり、またウクライナ地方で5000年前だという説もあり、また紀元前2000年ごろバビロニアの遊牧民が最初に飼い始めたという説もある。このバビロニアの馬は足が速く、今のアラブ馬の祖先だという説もある。

 人間と馬の関わりは、歴史的に非常に深いものである。馬は古代から現代まで、人類の移動手段や農耕、戦争、交流などさまざまな面で重要な役割を果たしてきた。  最初の馬の家畜化は、紀元前4000年ごろの中央アジアで始まったと考えられている。この時期、野生の馬は狩猟の対象であり、人々は馬の肉や皮を利用していた。しかし、やがて人々は馬を乗り物や荷物の運搬手段として使うようになり、農耕や交易の発展に貢献した。



 本ページは、以前にアップした「漢字の成り立ち:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだった」を全面的に加筆修正したものである。


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「馬」と人間のかかわり

歴史の中での人間と馬の係わり(特に戦場における馬との係わり)

古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。近年の研究では既に地中海世界では大型の鞍が発明されており、旧説で言われているほどには騎乗は困難でなかったとは言われるが、鐙(あぶみ)が発明されるまでは馬上で武器を扱うのは困難であり、幼い頃からの鍛練が必要な特殊技能であった。中国やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕地域では馬を育てる事に費用が嵩むため、所有出来るのは金持ちや有力者に限られていたようである。

   アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。


 

騎馬遊牧民の出現

匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

事実紀元前2000年ー1500年ごろに栄えた殷王朝の安陽の遺跡からは、騎馬戦車が数多く発掘されている。 そして、漢民族が戦車ではなく、馬に跨り戦場を疾走するようになるのは、時代が1000年ほど下った戦国時代に起こった戦術上の大変換になるまで待たなければならない。(下記のページを参照ください)


中国に起こった騎馬がかかわる戦術上の大変換

 戦国時代は、中国の歴史上の時代のひとつで、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて続いた。この時代には、多くの国家が争い、統一を目指して戦った。

 初期の戦国時代では、戦闘は主に歩兵中心で行われていた。しかし、騎馬戦術の重要性が次第に認識されるようになり、騎馬兵の使用が増えるようになった。騎馬兵は、偵察や奇襲、迅速な移動などに優れた能力を持ち、戦闘の効果を高めることができました。
 また、戦国時代の中盤から後半にかけて、騎馬戦術は進化した。その中でも特に有名なのが、騎射戦術(きしゃせんじゅつ)です。これは、馬上から弓を射ることによって戦う戦術で、強力な騎馬アーチャーが敵に対して威力を発揮しました。
 さらに、騎馬戦術の発展に伴い、騎兵隊の組織化も進んだ。騎兵隊は独自の指揮系統を持ち、連携して戦うことができた。また、騎兵隊は槍や剣を使用することもあり、接近戦においても優位に立つことができた。

 ただし、戦国時代の騎馬戦術は、あくまで限定的な存在でした。地形や戦場の条件によっては、騎馬兵の運用が制約されることもあった。また、他の戦術や兵種との組み合わせも重要であり、騎馬戦術の単独の優位性だけで戦局を決めることは難しかったようだ。

 以上が、中国の戦国時代における騎馬戦術の変遷についての概要である。この時代の戦争は非常に複雑であり、各国が様々な戦術を駆使して争った。



漢字に反映された馬

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている

漢字「馬」の解体新書

漢字「馬」の楷書で、常用漢字です。
 
馬・楷書


「馬」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み   バ、マ
  • 訓読み   うま、ま

意味
  • うま。
  •  
  • 将棋の駒の種類、
  •  
  • 競馬

同じ部首を持つ漢字     馬、騎、馭、馴、慿
漢字「馬」を持つ熟語    馬、馬車、馬力、馬鈴薯


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漢字「馬」の由来と成り立ち

 馬は人間の生活と関係が深く、 〔説文〕がその部に録する字は115字、康熙字典には異体字を含めると481字に及ぶ。  
馬・甲骨文字
馬・金文
馬・小篆


漢字「馬」の甲骨文字から金文への変化

  • 早期の金文の「馬」の字は甲骨文字の持つ象形の特徴は小篆にいたるころには却って似て非なるものとなっている。
  • 図の示すところ小篆の馬の字は下部は5画で今の4本の足と尾を表し、二本の足と尾っぽの変化したものだ。上部の3本の横棒は馬の首の上の鬣毛が変化したものだ。
  • 楷書の繁体字の「馬」は9画あり、書くのには十分不便で、このため漢字の簡略化の案は行書を参照にされ、今日の中国で使用されている簡体字「马」が創造された。  人類が飼育している家畜の中の体型は最も大きいもので、このために古人は大きいものの修飾語として「馬」を専ら使うようになった。同類のかつ大きいものの比較で、馬蜂(スズメバチ)、马勺(杓子)、马明、马蚁(蟻)などである。また山東人の習慣で大きな棗を称して「馬棗」という。広東人は大豆のことを馬豆と称している。




引用 「汉字密码」(P50,唐汉,学林出版社)

漢字「馬」の民俗学的解釈

  馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。


漢字の変遷 甲骨文字から金文、楷書へ

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。上古の先民は天才画家に称号にも耐えうる。彼らは馬の形体に対し、眼と耳際の毛はの正確な描写はまさに分析が深く、大きく扁平で長い眼、長く突出した頭部の両側、上に直立して立った鬣、遠くみても一目で、馬とその他の動物間の特性と差別するのにできる。



漢字「馬」の字統の解釈

 馬の「鬣」のある形。中国では古くから車馬を用い、馬はその生活と関係が深く、 〔説文〕がその部に録する字は115字、康熙字典には異体字を含めると481字に及ぶ。車馬 は古くより最も重要な交通及び戦闘の方法であった から、中国の古代においては、車馬具の発達が極めて著しかった。殷周以来の大墓には多く車馬坑を 伴うており、その遺品が多い。


漢字「馬」の漢字源の解釈

 象形。馬を描いたもの。古代中国で馬の最も大切な用途は戦車を引くことであった。馬にまたがって乗ることは、北方の遊牧民族、匈奴などから伝わった習慣で、古代中国では直接馬に乗ることはしなかった。


漢字「馬」の変遷の史観

文字学上の解釈

 馬の起源は、5500万年前北米に生息した種にあるそうだが、現代の馬の起源としては、冒頭にも触れたように、ユーラシアステップ地帯西部(ボルガ・ドン地方)で、約5000年前に放牧されていた馬が急速に各地に拡散したものだといわれている。 その流れは当然のこととして、中国西域、モンゴルにも到達し、最初は農耕用、あるいは荷役用として飼われていたであろう。

 古代、中国の華北平原と内蒙古の地区では、野馬が生息していた。この種の野馬の頭の高さは高くなく、長くて頭をつけ、鬣と耳は立っており、短い足と長い尾っぽは下向きに垂れていた。専門家はまさにこの種の野馬は新石器時代にアジアの土着の居住民によって、われわれの祖先たちが養育に成功し6畜のひとつになったという。

 そして春秋戦国時代には、革命的な戦争戦略の変換があり、戦車を引くためだけに使われていたものが、騎乗、騎馬用として用いられるようになってきた。そうした長い歴史のおかげで、漢字の上でも実に数百款に及ぶ「馬」が存在している。

 


まとめ

  ここに掲げた漢字の「馬」の甲骨、金文や小篆の文字はほんの一部であるが、これらのいずれも、一見して馬だとわかる特徴を備えている。いまさらながら、古代人の描写の巧みさに感心すると同時に、漢字の持つ視的面の効用に感心せざるを得ない。
  


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2021年3月21日日曜日

漢字の成り立ちの意味するもの:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだ


漢字の成り立ち:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだった

前書き

 馬は昔から、人間の生活になくてはならないものであった。というわけで馬にまつわる話にはことを欠かない。馬は起源は北米だという説もあり、またウクライナ地方で5000年前だという説もあり、また紀元前2000年ごろバビロニアの遊牧民が最初に飼い始めたという説もある。このバビロニアの馬は足が速く、今のアラブ馬の祖先だという説もある。
 人間と馬の関わりは、歴史的に非常に深いものです。馬は古代から現代まで、人類の移動手段や農耕、戦争、交流などさまざまな面で重要な役割を果たしてきました。

 最初の馬の家畜化は、紀元前4000年ごろの中央アジアで始まったと考えられています。この時期、野生の馬は狩猟の対象であり、人々は馬の肉や皮を利用していました。しかし、やがて人々は馬を乗り物や荷物の運搬手段として使うようになり、農耕や交易の発展に貢献しました。


漢字「馬」の由来と成り立ち


引用 「汉字密码」(P50,唐汉,学林出版社)

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。



漢字の変遷 甲骨文字から金文、楷書へ

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。上古の先民は天才画家に称号にも耐えうる。彼らは馬の形体に対し、眼と耳際の毛はの正確な描写はまさに分析が深く、大きく扁平で長い眼、長く突出した頭部の両側、上に直立して立った鬣、遠くみても一目で、馬とその他の動物間の特性と差別するのにできる。

金文の馬

  • 早期の金文の「馬」の字は甲骨文字の持つ象形の特徴は小篆にいたるころには却って似て非なるものとなっている。
  • 図の示すところ小篆の馬の字は下部は5画で今の4本の足と尾を表し、二本の足と尾っぽの変化したものだ。上部の3本の横棒は馬の首の上の鬣毛が変化したものだ。
  • 楷書の繁体字の「馬」は9画あり、書くのには十分不便で、このため漢字の簡略化の案は行書中の手書きタイを参照に今日のわれわれがまさに使用している「马」字を創造したものだ。  人類が飼育している家畜の中の体型は最も大きいもので、このために古人は大きいものの修飾語として馬を使うのは外形の大きいところを形容している。同類のかつ大きいものの比較で、馬蜂(スズメバチ)、马勺(杓子)、马明、马蚁(蟻)などである。また山東人の習慣で大きな棗を称して「馬棗」という。広東人はまさに大豆のことを馬豆と称している。
  •  古代、中国の華北平原と内蒙古の地区では、野馬が生息していた。この種の野馬の頭の高さは高くなく、長くて頭をつけ、鬣と耳は立っており、短い足と長い尾っぽは下向きに垂れていた。専門家はまさにこの種の野馬は新石器時代にアジアの土着の居住民によって、われわれの祖先たちが養育に成功し6畜のひとつになったという。



歴史の中での人間と馬の係わり(特に戦場における馬との係わり)

古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。近年の研究では既に地中海世界では大型の鞍が発明されており、旧説で言われているほどには騎乗は困難でなかったとは言われるが、鐙(あぶみ)が発明されるまでは馬上で武器を扱うのは困難であり、幼い頃からの鍛練が必要な特殊技能であった。中国やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕地域では馬を育てる事に費用が嵩むため、所有出来るのは金持ちや有力者に限られていたようである。

   アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。



 

騎馬遊牧民の出現

匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

事実紀元前2000年ー1500年ごろに栄えた殷王朝の安陽の遺跡からは、騎馬戦車が数多く発掘されている。 そして、漢民族が戦車ではなく、馬に跨り戦場を疾走するようになるのは、時代が1000年ほど下った戦国時代に起こった戦術上の大変換になるまで待たなければならない。(下記のページを参照ください)


中国に起こった騎馬がかかわる戦術上の大変換

 戦国時代は、中国の歴史上の時代のひとつで、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて続きました。この時代には、多くの国家が争い、統一を目指して戦いました。

 初期の戦国時代では、戦闘は主に歩兵中心で行われていました。しかし、騎馬戦術の重要性が次第に認識されるようになり、騎馬兵の使用が増えました。騎馬兵は、偵察や奇襲、迅速な移動などに優れた能力を持ち、戦闘の効果を高めることができました。
 また、戦国時代の中盤から後半にかけて、騎馬戦術は進化しました。その中でも特に有名なのが、騎射戦術(きしゃせんじゅつ)です。これは、馬上から弓を射ることによって戦う戦術で、強力な騎馬アーチャーが敵に対して威力を発揮しました。
 さらに、騎馬戦術の発展に伴い、騎兵隊の組織化も進みました。騎兵隊は独自の指揮系統を持ち、連携して戦うことができました。また、騎兵隊は槍や剣を使用することもあり、接近戦においても優位に立つことができました。

 ただし、戦国時代の騎馬戦術は、あくまで限定的な存在でした。地形や戦場の条件によっては、騎馬兵の運用が制約されることもありました。また、他の戦術や兵種との組み合わせも重要であり、騎馬戦術の単独の優位性だけで戦局を決めることは難しかったです。

 以上が、中国の戦国時代における騎馬戦術の変遷についての概要です。この時代の戦争は非常に複雑であり、各国が様々な戦術を駆使して争いました。

漢字に反映された馬

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている


「馬」を含む故事・成語

「馬を含む故事・成語 5選」に触れられているので、紹介しておこう



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2021年1月15日金曜日

漢字「解」の成り立ちと由来:牛の解体が漢字になった。牛が社会の中で重要な役割を果たしていた証拠


漢字「解」の成り立ちと由来:牛の解体が漢字となった
 動物の所有の中で、牛の人類の生活の影響は大変重要である。先住民たちは遊牧でもって生活手段を得るとき牛は放牧しやすく体格は大きく遊牧民にとって牛は重要な財産の指標となった。農耕時代に入ると牛はその力が大きいために苦しい労働に耐え農耕に不可欠の労働力になった。先住民の生存のよりどころにもなった。中華民族の三皇の一人炎帝乃至神話伝説中のいわゆる「神農」は農業の神様のシンボル的存在であるが《史记》の記載によれば「体は人で、首は牛」といわれている。このことから牛は農耕文化において、重要な位置を占めていたと考えられる。牛は先住民の目から見て、家と財物の代表している。牛があれば一切あることに等しいので、このことから一切のものに共通の名前は「物」と呼ばれる。  
引用:「汉字密码」(P20、唐汉著,学林出版社)
  甲骨文字の解の字は一頭の牛と牛の角を両手で掴んでいることを意味している。解の中の角は何のためにある。それは牛の気力は大変強いが、牛の首は致命的弱点である。普通の男でも牛の角に手を掛け力いっぱい牛の頭を捻りまわすと、牛はドサッと地に倒すことができる。即ちこの牛の頭は千斤の重さがあるのだ。解はまさに牛を殺すときの始めの過程を描写している。小篆の解は両手の形を省略して、代わりに一振りの刀を示している。

 説文は解を「判なり」としている。刀で牛やその他の動物を分解することの意味である。「判」の直接の解釈は、「『刂』(刀をを意味する)を用いて、半分に分ける」ことである。当然この種の解釈は小篆の解の字から来ていて、甲骨や金文の「解」の字にはふさわしくない。つまり甲骨や金文では刀を用いていなくて「手」を用いている。




漢字「解」の字統の解釈
 会意文字 角と刀と牛とに従う。刀で牛角を解く形で、説文に「判つ(わかつ)なり」という。引伸して獣体を解くの意となった。


結論
 漢字の変遷を見ると社会発展の歴史が見えてくる。この漢字「解」もまた然り。漢字の中だけではなく、漢字を通して社会の発展を見つめなおす姿勢が要求される



「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。



漢字学の聖典

2021年1月7日木曜日

漢字「物」の成り立ち:「牛」と「勿」からなり、殺されない牛の意から、万物一般のすべてのものに拡張された



漢字「物」は「牛」と「勿」からなり、両形の会意から、刃がボロボロになった刀では牛を殺せないことを意味します。
 甲骨文字にある「物」は、「牛」と「勿」からなる会意文字です。「勿」の本来の意味は、刃が刎ねてしまった後の使用できない刀のことです。 左右両形の会意から牛を殺せないことを意味します。


引用:「汉字密码」(P21、唐汉著,学林出版社)
「牡」と言う字は、元々オスの牛を指していた
唐漢氏の解釈
 甲骨文字にある「物」という言葉は、会意文字です:牛と勿からなる。 「勿」、本来の意味は、刃が刎ねてしまった後の使用できない刀のことです。 両形の会意。ここでは、雄牛を殺せないことを意味します。 小篆の「物」という言葉は甲骨文字を継承し、楷書は「物」と書きます。「物」という言葉の本来の意味は殺されない牛という意味です。拡張され動物の存在から物事のカテゴリーまで、それは一般的に客観的に存在する世界のすべてのものを指します。 「動物、植物、人」、さらには「材料、物体、物理学」など。物が集まった後は、すべてを「物」と呼ぶことができます。

今日の私たちの物体意識は、今でも古代の祖先の意識と同じ基準点にありますが、今日私たちが持っている「もの」は1000万倍も多く、「すべてのもの」と呼んでいます。



漢字源の解釈
会意兼形声。 「牛」+音符「勿」で、色合いの定かでない牛。一定の特色がない意から、いろいろなものを表す意となる。牛はモノの代表として選んだに過ぎない。

 それでもなぜモノの代表として「牛」でなければならなかったのかの疑問は残る。古代には「牛」は体の大きさ、有用性、姿、周りに絶えず目に触れるものとして、ポピュラーであったのかも知れない。豚では字の収まりが悪いし、羊では存在感がないというのもその理由になったのかも知れない。 



結び
 漢字「物」の成り立ち:「牛」と「勿」からなり、殺されない牛の意から、万物一般のすべてのものに拡張された。
 漢字は社会の変化を残す母斑であると常々言ってきましたが、この漢字「物」は社会発展の痕跡というより、抽象化の概念の表れとして考えられるのかも知れない。しかし、なぜ牛でなければならなかったのか、殺せない牛がなぜ万物の代表となったのか疑問はまだ残る。




「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2021年1月6日水曜日

漢字「牡」は太古の昔にはオスの牛だけを意味していたが、現代では「牡」という漢字は動物一般の性別を総称するようになった



漢字「牡」は太古の昔にはオスの牛だけを意味していたが、社会の発展に伴い、牡という漢字は動物一般の性別を総称するようになった。
 漢字「牡」は最初は牛だけに使われていたが、いつしか動物の「オス」の総称を表すようになった。その裏には、狩猟生活の時代にはオス、メスの区別を明示的にあらわさねばならなかった時代から、農業・牧畜の時代に入り、必ずしも牛や、馬、羊など動物の雌雄を漢字で明示する必要がなくなった社会変化があった。

 社会の変化が漢字に変化を与えた一つの例をここに見ることができる。



引用:「汉字密码」(P16、唐汉著,学林出版社)
「牡」と言う字は、元々オスの牛を指していた
唐漢氏の解釈
 「牡」という言葉は、もともとは古代の雄牛を指すために使用されていましたが、後に「雄羊、雄鹿」などの雄動物の総称になりました。

 甲骨文字の「牡」という単語の左側には「牛」があり、右側には男性の生殖器の図形「⊥」があります。

 小篆の字形は金文からが進化する過程で男性のシンボルは「土」になりました。

 さまざまな動物を表す象形文字の横に男性のシンボル「⊥」を追加すると、男性の羊、馬、鹿の適切な名前にすることができました。しかし、さまざまな雄の動物の固有名詞を表すこれらの文字は、長い間に大規模な文字ファミリから姿を消しました。その第1の理由は、すべて2音節の組み合わせ文字であり、中国語文字の1文字と1音の要件を満たしていないためです。第2の理由は漢字の抽象的な能力の昇華により、人々は「牡鹿、牡马」などのより簡潔な表現を持ち、古代の固有名詞を置き換えることができたからです。

 私たちの先祖にとって、狩猟と動物飼育が主な生産方法であった時代には、野獣のオスとメスを区別することは非常に重要でしたが、農業社会に入った後、狩猟は貴族や王族のレクリエーション活動になり、そのような細分化と区別はもはや必要ではないので、これに関連する文字は徐々に消え、「牡」という言葉は動物の性別の一般的な名称になりました。


結び
 漢字は社会の変化を残す母斑であると常々言ってきましたが、この漢字「牡」もそれを如実に示す一つの例といえましょう



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2020年12月24日木曜日

漢字「告」の由来と成り立ち:告白とは重い響きの言葉だ。それは「告」が神に告げるという厳粛な言葉から来ている由縁である



漢字「告」の由来と成り立ち:告白が重い響きを持つのは、「告」が神に告げるという厳粛な言葉から来ている由縁である
 「告」は生贄の牛を祭壇に並べたことからくるという解釈と祭祀を執り行うとき神に告げる言葉を「サイ」という祝詞を入れる箱を木に結びつけたことからくるという説等諸説があるが、いずれにせよ単に話すとか語るということではなく祭祀に臨んで神に祝詞をあげるという厳粛な使い方をされたことから来るものだ。


引用:「汉字密码」(P24、唐汉著,学林出版社)
祭祀のとき神に祈りや祝詞を奉げ、告げること
唐漢氏の解釈
 「告」の字は甲骨文字の第一款は、「牛」と「口」から成り祭告、告庙を意味する。告の字の構造の形象から看て、それは祭壇の前の皿の上に置かれた、切り刻まれた雄牛の頭に非常によく似ています:彼の目は大きく開いていて、何かを言っている様子が伺える。

 告は牛の頭を祭祀に用いて祖先を慰める神祗を表示している。又「告」の本義は人びとが祭祀の時に発するする祈祷であり、それゆえ牛の鳴き声とも理解できます。



字統の解釈
 木の小枝に祝詞を収める器の賽をかけている形象形文字である。 祝詞の器を木の小枝に付けて捧げ 髪に祈告する意味で告とは神に訴え告げることを言う。説文には 牛と口に従う字とし「牛人に触る。角に横木をつくとし、人に告ぐるゆえんなり」とあり、牛が人に何かを訴えようとするとき横木をつけた口を摺り寄せてくると解するが、上部は牛の形ではなくて物をかける木の枝の形であることは卜文、金文の形において明らかである。

 唐漢氏と字統の解釈は、祭祀に生贄の牛を使うか、木に祝詞を掲げるかの違いはあるが、祭祀に神に何らかの祈りをささげる点では一致している。

漢字源の解釈

 会意文字だとする。漢字源では、牛の角に縛った枷の原字だとする。後付の解釈のような気がする。


結び
 現代で告白という言葉は、単に「言う」とか、「話す」ということだけではなく、ある種の重みを持ったものとして語られる。告白が重い響きの言葉の理由は、「告」がそもそも漢字が発生した太古の昔から、神に告げるという厳粛な意味を持っている由縁である


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2010年5月22日土曜日

漢字「家」はなぜ「ウ冠に豚」で漢字 牢 はなぜ「ウ冠に牛」なの

牛にウ冠が付くと牢になり、豚にウ冠が付くとなぜ家になる。実は牢のウ冠は柵であった。
甲骨文字「家」
 「牛」にウ冠がつくと「牢」になる。ところが、豚を意味する漢字「豕」に、ウ冠がつくと「家」になる。今日は牛がつく字についてもう少し深めてみよう。 「豕」は、豚という意味だが、今はこの字は使われず、もっぱら「猪」が使われている。





甲骨文字「牢 」
牛と豚では何でこうも扱いが異なるの?
豚と牛では扱いがえらく異なる。不平等ではないか。豚は家に住み、牛はなぜ牢なのか。もう少し探ってみる。 

 結論から先に言うと、牢のウ冠はウ冠のように見えて、実は昔は家ではなく柵であった。



 牛は古代は一種の野生動物であった。すなわち野牛であった。
 家畜動物とするためには、牛の凶暴な野生を改造して、まじめにこつこつ働く牛、あるいは「牛っこ」の類の優良な性質にするためにこの有史以前の先住民たちは散々苦労をして、長い年月を掛けて事を成し遂げてきた。



唐漢氏の解釈
 甲骨文字、金文文字の両方にある「牢」という字は牛が閉じ込められた状態を表している。
 殷や商の遺跡を発掘中、多数の大小さまざまな円形や長方形の地面に掘られた穴を発見した。これらは浅いもので2メートルから4メートルあり、深いものでは9メートルに達した。この穴の前面には上に上がるための道がつけられ、この坂道の底には木製の柵の門が取り付けられていた。もし野牛を捕らえたらここに押し込めたのであろう。そしてこの方法は数十年、あるいは数百年も掛けて何代も何代も飼いならす中で、更に飢えをしのぐ制度として奨励されてきただろう。


金文「家」

 こうするうちに野生の牛のかたくなな性格も次第に消失し、何事にも耐え忍ぶ性格が構築されてきた。これは牢の功績である。

 「牢」の本来の意味は、牛を殺したり、養ったりするための地面に掘られた穴である。このことから家畜を養うための丸い柵のことを牢と呼ぶようになった。「亡羊補牢」(成語:羊に逃げられてから柵の修理をするの意味)の中の「牢」にもつかられている。さらにそれから犯人を捕まえて押し込めておく監獄牢や牢獄という言葉にも用いられるようになった。このほか「堅牢」のように堅固な状態を表す形容詞にも用いられるようになった。

結び
 このように家と牢では全く異なるのである。甲骨文字ではっきり分かるだろうが、家のウ冠は明らかに屋根であり、牢のウ冠の部分は紛れもなく「囲いと門」である。

 更に近年の研究で、この殷墟が栄えたあたりの黄河流域は今より温度が2、3度高く高温湿潤の地域であったといわれている。そのためこの辺りは、牛、水牛、虎、豹、象などが多数生息していた野獣の宝庫みたいなところだったかもしれない。そのことは漢字にも見事に表現されている。

 漢字の世界は深い。


2010年5月20日木曜日

「牛」の起源と由来 牛の災難

現時点で私たち日本人にとって、もっとも気がかりなのは普天間の問題もさることながら、身近なことでは、宮崎県で発生した「口蹄疫」のことであろう。
これは人間には感染しない疫病であるが、牛でも感染はとどまるところを知らない。今では13万頭ほどが処分の対象になっている。
少し前に大騒ぎになったのは、狂牛病というのがあった。これはまだ今でも我々に暗い影を落としている。こちらの方は肉を煮ても焼いても食べた人間は発病する恐れがあるといわれている。
こちらの方は、牛に牛の臓物を食べさせていたのが問題だということであったが、今回は牛の飼料にウイルスが紛れ込んでいたといわれているが、こんなに爆発的に発症する原因は、高密度で飼育する方法に問題があったとの報道もされている。牛もとんだ災難を背負わされたものである。
さてその牛は十二支では「丑」というまったく別の漢字があてがわれている。漢字の発生は「牛」と「丑」ではまったく異なる。

ここでは本来の「牛」について、漢字の起源を探るたびに出たい。

「牛」甲骨文字
「牛」小篆
古い文字の牛は水牛の頭を簡略化した図形である。上部は牛の角で下部は牛の頭である。特徴は牛の角であり耳がその特性を表している。


もしやはり古代文字の「羊」と比較してみると歴然としており、この両種の角が違ったように表現されている。漢字の中で牛のつく字はこの牛及びその動作行為から作られている。

牛のいわゆる字の音であるが、大概は牛の呼吸音から一種の擬声語のような音になっているが、その後「哞」という字が出来「もーもー」という牛の鳴き声に当てられている。



牟(ムー)甲骨文字

牛の字から派生したものに「牟」という字がある。この字の古文字は左の通り。
金文と小篆の牟という字は下部は牛の頭の形、上部は引き上げられた、あるいは湾曲した形を現している。これは牛が泣いているさまの表現である。

「牟(ムー)」小篆

甲骨文字の字形は牛と口の会意文字である。いわゆる牟の本義は牛の鳴き声なのである。東漢の文字学者の許慎は「説文解字」の中で「牟はすなわち牛の鳴き声なのだ」と述べている。尚現代の発音はmou、muと表されている。

後に”哞”(口偏に牟)という文字が作られ、牛の鳴き声はもっぱらこの字で表されるようになった。
”モーモー”結構。

「牛耳を執る」という故事についてはこちらをクリックしてください。



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