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2025年12月8日月曜日

2026年の干支は「午」。「馬」ではなく、実は「へその緒」だった!

2026年の干支は「午」。「馬」ではなく、実は「へその緒」だった!


==== サブタイトル====

 干支という天体の動きを表すのに、古代人が身近にある人間の出生を当てはめたのかもしれないという説は、かなり説得力のあるものだと思います。
 そもそも、人間と馬の関わりは、歴史的に非常に深いものです。馬は古代から現代まで、人類の移動手段や農耕、戦争、交流などさまざまな面で重要な役割を果たしてきました。

 非常に人間の出生の過程と脳歴という重要な二つの概念が、ここで結びついたという点で、歴史的に大切なことであったのかも知れません。
 最初の馬の家畜化は、紀元前4000年ごろの中央アジアで始まったと考えられています。この時期、野生の馬は狩猟の対象であり、人々は馬の肉や皮を利用していました。しかし、やがて人々は馬を乗り物や荷物の運搬手段として使うようになり、農耕や交易の発展に貢献しました。
 一方干支の歴史は、3000年以上前の中国・殷王朝で「十干十二支」として日付の記録や占いに使われ始めたのが起源とされ、干支として馬が登場するようになったのは、家畜化が始まった時から千年ほどの後のことです。
 馬が野山を駆け巡る姿を、子供の成長を重ね合わせていたのかも知れません。 なぜ古代人はへその緒を文字にするほど重要視したのか?その答えは『死亡率』にありました。古代人が子供の無事をひたすら思う、切実な願いが見えてくる。

     

導入

 2026年は「丙午(ひのえ・うま)」です。これは十干の「丙(火の陽)」と十二支の「午(うま)」が組み合わさったもので、躍動感や行動力、前向きなエネルギーに満ちた一年になるとされ、新しい挑戦を始めるのに良い年とされています。
 この十二支は人間の出生の過程を表したものであるという説も古くからある。従ってこの場合漢字は「午」であって、「馬」ではない。
ちなみに漢字源によれば、「午」と「馬」にはなんの関係もないが、旧く人々に干支を知らしめるため、動物を割りあてたのが、その起源とされる。

このページから分かること
  • 漢字「午」の成り立ち
  • 日本の平均年齢
  • 古代は異常に低かったこと
  • 江戸時代までは人生40年が普通 



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まえがき

漢字「午」の成立ちと由来

引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)

干支の「午」:甲骨、金文、小篆、楷書
漢字・陽の4款
漢字の主たる説明(唐漢氏の解釈)
 「午」の構造的な形はへその緒である。その物象は嬰児に起こる一定の時間の課程を経て、脱落してきたへその緒である。嬰児の身上から脱落したへその緒は大体7日から15日であるようだ。) このとき嬰児が最初の夭折 (若くして亡くなること)を無事過ごすと、慶事に値することになる。
 つまり、古代においては、この時期こそが人間が生れ落ちて、確かな生命の営みを辿るまで、人間に課せられた最初の試練だったといえよう。


漢字「午」の漢字源の解釈

 時刻では 現在の正午およびその前後の二時間、方角では南、動物では馬に当てる。
 馬に当てたのは農民がおぼえやすいように十二支に動物を配した秦漢の農暦の影響で、本来は、馬とは何の関係もない。


古代人の年代別の死亡率

 古代の年代別死亡率は、現代とは大きく異なり、乳幼児期の死亡率が非常に高く、成人まで生き延びた場合でも、その後の平均余命は現代よりかなり短かったことが特徴です。
主な特徴は以下の通りです。
1. 非常に高い乳幼児死亡率
 古代において、生まれた子どもの半数近く、あるいはそれ以上が成人になる前に亡くなっていました。例えば、18世紀のウィーンでは5歳までに約半数が死亡しており、古代日本でも同様の傾向が見られます。
 これは、栄養不足、非衛生的な環境、医療の欠如、疫病などが主な原因でした。


 左の表にみる通り、古代における乳幼児の成長率は極めて低く、縄文時代には7割以上が若年のうちに死亡していた。
 特にへその緒のとれる夭折期までの死亡は多くこの時期を過ぎて生き延びることは、まさに祝いものであった。このような事情があり、多くの地域で幼児を非常に大切に扱っていた。
 日本でも「へその緒」を大事に保存する風習が未だにみられるのも、このような事情があってのことと思われる。


2. 成人後の余命
乳幼児期という最も危険な時期を生き延びた場合、ある程度の年齢まで生きることは可能でした。しかし、それでも現代のように高齢になるまで生きる人は多くありませんでした。

明治以降の急激な平均寿命の推移
明治時代(1868〜1912年頃): 40歳前後。
昭和前半: 50歳台に。
1950年頃: 男女とも50歳超え。
1950年代: 60歳台(男性63.60歳、女性67.75歳など)。
1980年代: 70歳台に到達(男性73.35歳、女性78.76年など)。
2022年: 男性81.05歳、女性87.09歳。

へその緒の文化

へその緒の文化

へその緒に関する文化は、国や地域によって大きく異なります。特に日本では、母子の絆の象徴として大切に保管される独特の文化が根付いています。
日本の文化
 日本では、江戸時代初期からへその緒を保存する風習が広まったとされています。

  • 保管の理由: 「記念に残しておきたい」という思いや、「母と子がずっと一緒につながっていられる証」として大切にされます。神秘的な力が信じられ、お守り代わりに保管されることもありました。
  • 保管方法: 乾燥させた後、湿気を避けるために「へその緒入れ」と呼ばれる専用の桐箱に保管するのが一般的です。多くの産院では、おとめマークなどをあしらった臍箱を用意し、退院時に渡してくれます。
  • 処分のタイミング: 保管期間や処分の明確な決まりはありませんが、母親や本人が亡くなった際に、棺に入れて火葬するという言い伝えがあります。これは、冥土で閻魔様に子どもを産んだ証拠を示すため、あるいは来世でも親子の縁が続くようにという願いが込められています。

世界の文化
 へその緒を大切に保管する風習は、実は日本と一部のアジア地域だけに見られるもので、他の多くの地域では出産後に処分されるのが一般的です。
 へその緒を切る人: 海外では、夫や母親自身がへその緒を切る国が多いですが、日本では安全上の理由から、原則として医師や助産師などの医療者が行います。

その他の慣習:
 韓国の一部地域では、へその緒を新生児の太もも付近まで伸ばして切り、乾燥させて保管する伝統的な風習がありました。
 ジンバブエなど、へその緒を腰に巻き付けるといった独自の慣習を持つ国も存在します。
 現代では、へその緒や胎盤(胞衣)は、法律に基づき適切に処理されますが、その一部を希望に応じて受け取り、自宅で保管するかは各家庭の判断に委ねられています。

へその緒の文化(世界)
 一般的な処分: 日本や一部のアジア地域を除き、多くの国ではへその緒は医療廃棄物として処分されることが一般的です。

 特定の慣習: ジンバブエなど、へその緒を腰に巻き付けるといった独自の慣習を持つ地域も存在します。

その他の興味深い出産・産後文化
産後の過ごし方:
 中国では、産後1ヶ月間は「坐月子(ズオユエズ)」と呼ばれる期間があり、外出やシャワーを浴びることが禁止され、授乳以外はほとんど起き上がらずに過ごすという文化があります。
 アメリカの産後の入院期間は、日本が自然分娩で5日から1週間程度なのに対し、通常48時間以内と非常に短いです。

出産祝い:
 中華系のお祝いとしては、赤ちゃんの生後1か月に親戚や友人を招いて祝う「満月(マンユエ)」が一般的で、この際に「満月弁当」が配られます。
 欧米では、日本のおむつケーキのような贈り物が人気です。

出産の場所:
 ボリビアなどでは、妊婦に寄り添う「伝統的なお産」が求められる傾向があります。
 フランスや北米、ヨーロッパ諸国では、無痛分娩の利用率が非常に高い(フランスで80%以上)という特徴もあります。
 国や地域によって、新しい命の迎え方や産後の過ごし方に対する考え方は大きく異なることがわかります。

まとめ

  1. 旧石器時代前期(260万〜20万年前): 12万5千人程度
  2. 旧石器時代中期(20万〜4万年前): 100〜120万人程度
  3. 旧石器時代後期(4万〜1万3千年前): 220〜300万人程度(人類の生きた最古の時代)
  4. 縄文時代(4万〜1万3千年前):日本列島では数千人程度しかいなかったのではと推定されています

これらの時代は生まれても、生き残る方が稀という時代ではなかったといわれています。ネアンデルタール人が絶滅したのも、理由は色々考えられるが、彼らは小さな集団で生活していたために、食料を十分に確保できなかったことも理由の一つと考えられている。
 人類も極めて初期は子供を産んでも産み落とすようなことであっただろうが、ある程度衣食足りるようになってからは、子供もきちんと育てることが自分たちが生き延びるために必要と認識したのであろう。


「漢字考古学の道」のホームページに戻ります。

2023年12月7日木曜日

漢字「馬」の成立ちと由来:馬と人間の係わりを漢字の中から探る


漢字「馬」:馬と人間は長い歴史の中で如何に係わってきたか、そしてそれは漢字にどう反映されたか?

 馬は昔から、人間の生活になくてはならないものであった。というわけで馬にまつわる話にはことを欠かない。馬は起源は北米だという説もあり、またウクライナ地方で5000年前だという説もあり、また紀元前2000年ごろバビロニアの遊牧民が最初に飼い始めたという説もある。このバビロニアの馬は足が速く、今のアラブ馬の祖先だという説もある。

 人間と馬の関わりは、歴史的に非常に深いものである。馬は古代から現代まで、人類の移動手段や農耕、戦争、交流などさまざまな面で重要な役割を果たしてきた。  最初の馬の家畜化は、紀元前4000年ごろの中央アジアで始まったと考えられている。この時期、野生の馬は狩猟の対象であり、人々は馬の肉や皮を利用していた。しかし、やがて人々は馬を乗り物や荷物の運搬手段として使うようになり、農耕や交易の発展に貢献した。



 本ページは、以前にアップした「漢字の成り立ち:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだった」を全面的に加筆修正したものである。


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「馬」と人間のかかわり

歴史の中での人間と馬の係わり(特に戦場における馬との係わり)

古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。近年の研究では既に地中海世界では大型の鞍が発明されており、旧説で言われているほどには騎乗は困難でなかったとは言われるが、鐙(あぶみ)が発明されるまでは馬上で武器を扱うのは困難であり、幼い頃からの鍛練が必要な特殊技能であった。中国やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕地域では馬を育てる事に費用が嵩むため、所有出来るのは金持ちや有力者に限られていたようである。

   アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。


 

騎馬遊牧民の出現

匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

事実紀元前2000年ー1500年ごろに栄えた殷王朝の安陽の遺跡からは、騎馬戦車が数多く発掘されている。 そして、漢民族が戦車ではなく、馬に跨り戦場を疾走するようになるのは、時代が1000年ほど下った戦国時代に起こった戦術上の大変換になるまで待たなければならない。(下記のページを参照ください)


中国に起こった騎馬がかかわる戦術上の大変換

 戦国時代は、中国の歴史上の時代のひとつで、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて続いた。この時代には、多くの国家が争い、統一を目指して戦った。

 初期の戦国時代では、戦闘は主に歩兵中心で行われていた。しかし、騎馬戦術の重要性が次第に認識されるようになり、騎馬兵の使用が増えるようになった。騎馬兵は、偵察や奇襲、迅速な移動などに優れた能力を持ち、戦闘の効果を高めることができました。
 また、戦国時代の中盤から後半にかけて、騎馬戦術は進化した。その中でも特に有名なのが、騎射戦術(きしゃせんじゅつ)です。これは、馬上から弓を射ることによって戦う戦術で、強力な騎馬アーチャーが敵に対して威力を発揮しました。
 さらに、騎馬戦術の発展に伴い、騎兵隊の組織化も進んだ。騎兵隊は独自の指揮系統を持ち、連携して戦うことができた。また、騎兵隊は槍や剣を使用することもあり、接近戦においても優位に立つことができた。

 ただし、戦国時代の騎馬戦術は、あくまで限定的な存在でした。地形や戦場の条件によっては、騎馬兵の運用が制約されることもあった。また、他の戦術や兵種との組み合わせも重要であり、騎馬戦術の単独の優位性だけで戦局を決めることは難しかったようだ。

 以上が、中国の戦国時代における騎馬戦術の変遷についての概要である。この時代の戦争は非常に複雑であり、各国が様々な戦術を駆使して争った。



漢字に反映された馬

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている

漢字「馬」の解体新書

漢字「馬」の楷書で、常用漢字です。
 
馬・楷書


「馬」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み   バ、マ
  • 訓読み   うま、ま

意味
  • うま。
  •  
  • 将棋の駒の種類、
  •  
  • 競馬

同じ部首を持つ漢字     馬、騎、馭、馴、慿
漢字「馬」を持つ熟語    馬、馬車、馬力、馬鈴薯


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漢字「馬」の由来と成り立ち

 馬は人間の生活と関係が深く、 〔説文〕がその部に録する字は115字、康熙字典には異体字を含めると481字に及ぶ。  
馬・甲骨文字
馬・金文
馬・小篆


漢字「馬」の甲骨文字から金文への変化

  • 早期の金文の「馬」の字は甲骨文字の持つ象形の特徴は小篆にいたるころには却って似て非なるものとなっている。
  • 図の示すところ小篆の馬の字は下部は5画で今の4本の足と尾を表し、二本の足と尾っぽの変化したものだ。上部の3本の横棒は馬の首の上の鬣毛が変化したものだ。
  • 楷書の繁体字の「馬」は9画あり、書くのには十分不便で、このため漢字の簡略化の案は行書を参照にされ、今日の中国で使用されている簡体字「马」が創造された。  人類が飼育している家畜の中の体型は最も大きいもので、このために古人は大きいものの修飾語として「馬」を専ら使うようになった。同類のかつ大きいものの比較で、馬蜂(スズメバチ)、马勺(杓子)、马明、马蚁(蟻)などである。また山東人の習慣で大きな棗を称して「馬棗」という。広東人は大豆のことを馬豆と称している。




引用 「汉字密码」(P50,唐汉,学林出版社)

漢字「馬」の民俗学的解釈

  馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。


漢字の変遷 甲骨文字から金文、楷書へ

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。上古の先民は天才画家に称号にも耐えうる。彼らは馬の形体に対し、眼と耳際の毛はの正確な描写はまさに分析が深く、大きく扁平で長い眼、長く突出した頭部の両側、上に直立して立った鬣、遠くみても一目で、馬とその他の動物間の特性と差別するのにできる。



漢字「馬」の字統の解釈

 馬の「鬣」のある形。中国では古くから車馬を用い、馬はその生活と関係が深く、 〔説文〕がその部に録する字は115字、康熙字典には異体字を含めると481字に及ぶ。車馬 は古くより最も重要な交通及び戦闘の方法であった から、中国の古代においては、車馬具の発達が極めて著しかった。殷周以来の大墓には多く車馬坑を 伴うており、その遺品が多い。


漢字「馬」の漢字源の解釈

 象形。馬を描いたもの。古代中国で馬の最も大切な用途は戦車を引くことであった。馬にまたがって乗ることは、北方の遊牧民族、匈奴などから伝わった習慣で、古代中国では直接馬に乗ることはしなかった。


漢字「馬」の変遷の史観

文字学上の解釈

 馬の起源は、5500万年前北米に生息した種にあるそうだが、現代の馬の起源としては、冒頭にも触れたように、ユーラシアステップ地帯西部(ボルガ・ドン地方)で、約5000年前に放牧されていた馬が急速に各地に拡散したものだといわれている。 その流れは当然のこととして、中国西域、モンゴルにも到達し、最初は農耕用、あるいは荷役用として飼われていたであろう。

 古代、中国の華北平原と内蒙古の地区では、野馬が生息していた。この種の野馬の頭の高さは高くなく、長くて頭をつけ、鬣と耳は立っており、短い足と長い尾っぽは下向きに垂れていた。専門家はまさにこの種の野馬は新石器時代にアジアの土着の居住民によって、われわれの祖先たちが養育に成功し6畜のひとつになったという。

 そして春秋戦国時代には、革命的な戦争戦略の変換があり、戦車を引くためだけに使われていたものが、騎乗、騎馬用として用いられるようになってきた。そうした長い歴史のおかげで、漢字の上でも実に数百款に及ぶ「馬」が存在している。

 


まとめ

  ここに掲げた漢字の「馬」の甲骨、金文や小篆の文字はほんの一部であるが、これらのいずれも、一見して馬だとわかる特徴を備えている。いまさらながら、古代人の描写の巧みさに感心すると同時に、漢字の持つ視的面の効用に感心せざるを得ない。
  


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2021年6月20日日曜日

漢字 駒の誕生と由来:古人は若々しい馬をみて、若い、小さい馬と素直に表現したのだろう。一言で「駒」!


漢字「駒」の誕生秘話:古人は若い牡馬のことを駒と呼んだ。
古人が若い馬を見た時、普通の馬との句ベルをどう付けたのか:一番の特徴は、「若い(小さい)」というのが最も納得できる特徴づけかも知れない


漢字「駒」の楷書で、常用漢字です。
 馬と句からなる。駒とは五尺以上なるをいう。また説文に「馬の2歳なるを駒という」とあり、これらを合わせると、2歳馬で、五尺以上でかつ、成馬でないものを「駒」というようである。つまり馬の通淫を避けるために群れから離している若い雄馬(種馬)のことを駒と呼んでいるようだ。

 句が小さいことや曲がったことを表す要素として使われていることが多い
駒・楷書


  
駒・甲骨文字
馬+牡であることを示す
駒・金文
句+馬
駒・小篆
以上2文字の会意で、即ちとか直ちにを意味する


    


「駒」の漢字データ
 

漢字の読み
  • 音読み   ク
  • 訓読み   駒

意味
     
  • 若い元気な馬、二歳の馬、五尺以上で六尺以下の子馬。
  •  
  • 若者、子供
  •  
  • こま 将棋のこま、三味線の糸をささえるこま

同じ部首を持つ漢字     駒、狗、拘、鉤
漢字「〇」を持つ熟語    若駒、駒下駄




引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)
唐漢氏の解釈
 「駒」 は生育がしっかりとした小さな仔馬のことをいう。即ち雄の仔馬のことをいう。甲骨文の「駒」の字は右側は馬の象形である。左側は雄馬の生殖器の図形である。

 金文の「駒」は馬と句からなる。文字の構造からみて金文の駒の字の右は非常に美しい馬のデッサンで、左側は「斗」(句)で「駒」の字の発音にもなっている。

 若い種馬は馬の強い方向にあるので、走り、労苦にもよく耐え、恐れを知らない。

 


漢字「駒」の字統の解釈
 声符は句。句に小なるものの意がある。《説文》に「馬の2歳なるものを駒という」とあり、《詩、周南、漢広》に「駒とは5尺以上なるものをいう。」とする。
 成馬は6尺以上のものをいう。駒の通淫を避けるために、一時群れから離すことが記されているが、馬政上重要なこととされている。


まとめ
 句は若い、小さいを表す言葉という説のほかに、交尾を示す言葉という説もある。ここでは取り上げなかったが、句の甲骨文字の字体からはこの説も捨てがたいと感じる。何故、雌馬を「駒」と呼ばなかったのか。駒という漢字の中には「オス」という指標が入っていなければならないように思うのだが?


参考ページ: 漢字の成り立ちの意味するもの:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだ

「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2021年3月21日日曜日

漢字の成り立ちの意味するもの:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだ


漢字の成り立ち:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだった

前書き

 馬は昔から、人間の生活になくてはならないものであった。というわけで馬にまつわる話にはことを欠かない。馬は起源は北米だという説もあり、またウクライナ地方で5000年前だという説もあり、また紀元前2000年ごろバビロニアの遊牧民が最初に飼い始めたという説もある。このバビロニアの馬は足が速く、今のアラブ馬の祖先だという説もある。
 人間と馬の関わりは、歴史的に非常に深いものです。馬は古代から現代まで、人類の移動手段や農耕、戦争、交流などさまざまな面で重要な役割を果たしてきました。

 最初の馬の家畜化は、紀元前4000年ごろの中央アジアで始まったと考えられています。この時期、野生の馬は狩猟の対象であり、人々は馬の肉や皮を利用していました。しかし、やがて人々は馬を乗り物や荷物の運搬手段として使うようになり、農耕や交易の発展に貢献しました。


漢字「馬」の由来と成り立ち


引用 「汉字密码」(P50,唐汉,学林出版社)

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。



漢字の変遷 甲骨文字から金文、楷書へ

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。上古の先民は天才画家に称号にも耐えうる。彼らは馬の形体に対し、眼と耳際の毛はの正確な描写はまさに分析が深く、大きく扁平で長い眼、長く突出した頭部の両側、上に直立して立った鬣、遠くみても一目で、馬とその他の動物間の特性と差別するのにできる。

金文の馬

  • 早期の金文の「馬」の字は甲骨文字の持つ象形の特徴は小篆にいたるころには却って似て非なるものとなっている。
  • 図の示すところ小篆の馬の字は下部は5画で今の4本の足と尾を表し、二本の足と尾っぽの変化したものだ。上部の3本の横棒は馬の首の上の鬣毛が変化したものだ。
  • 楷書の繁体字の「馬」は9画あり、書くのには十分不便で、このため漢字の簡略化の案は行書中の手書きタイを参照に今日のわれわれがまさに使用している「马」字を創造したものだ。  人類が飼育している家畜の中の体型は最も大きいもので、このために古人は大きいものの修飾語として馬を使うのは外形の大きいところを形容している。同類のかつ大きいものの比較で、馬蜂(スズメバチ)、马勺(杓子)、马明、马蚁(蟻)などである。また山東人の習慣で大きな棗を称して「馬棗」という。広東人はまさに大豆のことを馬豆と称している。
  •  古代、中国の華北平原と内蒙古の地区では、野馬が生息していた。この種の野馬の頭の高さは高くなく、長くて頭をつけ、鬣と耳は立っており、短い足と長い尾っぽは下向きに垂れていた。専門家はまさにこの種の野馬は新石器時代にアジアの土着の居住民によって、われわれの祖先たちが養育に成功し6畜のひとつになったという。



歴史の中での人間と馬の係わり(特に戦場における馬との係わり)

古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。近年の研究では既に地中海世界では大型の鞍が発明されており、旧説で言われているほどには騎乗は困難でなかったとは言われるが、鐙(あぶみ)が発明されるまでは馬上で武器を扱うのは困難であり、幼い頃からの鍛練が必要な特殊技能であった。中国やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕地域では馬を育てる事に費用が嵩むため、所有出来るのは金持ちや有力者に限られていたようである。

   アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。



 

騎馬遊牧民の出現

匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

事実紀元前2000年ー1500年ごろに栄えた殷王朝の安陽の遺跡からは、騎馬戦車が数多く発掘されている。 そして、漢民族が戦車ではなく、馬に跨り戦場を疾走するようになるのは、時代が1000年ほど下った戦国時代に起こった戦術上の大変換になるまで待たなければならない。(下記のページを参照ください)


中国に起こった騎馬がかかわる戦術上の大変換

 戦国時代は、中国の歴史上の時代のひとつで、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて続きました。この時代には、多くの国家が争い、統一を目指して戦いました。

 初期の戦国時代では、戦闘は主に歩兵中心で行われていました。しかし、騎馬戦術の重要性が次第に認識されるようになり、騎馬兵の使用が増えました。騎馬兵は、偵察や奇襲、迅速な移動などに優れた能力を持ち、戦闘の効果を高めることができました。
 また、戦国時代の中盤から後半にかけて、騎馬戦術は進化しました。その中でも特に有名なのが、騎射戦術(きしゃせんじゅつ)です。これは、馬上から弓を射ることによって戦う戦術で、強力な騎馬アーチャーが敵に対して威力を発揮しました。
 さらに、騎馬戦術の発展に伴い、騎兵隊の組織化も進みました。騎兵隊は独自の指揮系統を持ち、連携して戦うことができました。また、騎兵隊は槍や剣を使用することもあり、接近戦においても優位に立つことができました。

 ただし、戦国時代の騎馬戦術は、あくまで限定的な存在でした。地形や戦場の条件によっては、騎馬兵の運用が制約されることもありました。また、他の戦術や兵種との組み合わせも重要であり、騎馬戦術の単独の優位性だけで戦局を決めることは難しかったです。

 以上が、中国の戦国時代における騎馬戦術の変遷についての概要です。この時代の戦争は非常に複雑であり、各国が様々な戦術を駆使して争いました。

漢字に反映された馬

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている


「馬」を含む故事・成語

「馬を含む故事・成語 5選」に触れられているので、紹介しておこう



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2020年5月16日土曜日

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている


漢字「騎」には戦国時代に起こった戦術の大変換の痕跡が反映されている
 漢字「騎」には戦国時代に起こった戦術の大変換の痕跡が反映されている。
 それはまるで日本の長篠の戦にて、鉄砲戦術が武田勝頼を破り、日本の戦闘戦術を革命的に変換させたのと非常によく似ている。

 漢民族が馬を使う歴史はまずは戦車に乗っていたのであり、騎馬の歴史は後のものである。一般的には、馬があって車があるというが、戦車が先で後に馬が出てきた。
 《曲礼正義》によれば、古人は馬に騎乗せず、ゆえに経典は見えず、三代から春秋に至り用兵は車戦を率いるの説法で、学者は一般的に古代の人々は馬に騎乗せず、又騎という字もなかった。

 実際的には甲骨文字にある騎の字は明らかに馬ではない。羊かあるいは牛(図に示す如く)これはそれに類する動物である。
 漢民族の騎馬の歴史は趙の武霊王(紀元前325年~300年)の『胡服骑射』が初めてである。当時はまさに戦国の末期であり、華北の趙の国と匈奴の不断の戦争最中であった。趙の国戦車と歩兵では北方の遊牧民族の騎兵を御することはできなかった。


 彼らは精悍に騎射をし、丈を起こしてきて縦横無尽に駆け巡り、丘陵河谷どこでも彼らを阻むことができなかった。それにひきかえ戦車は明らかにもたもたしており、遅くゆっくりして、往々に戦争の礼儀を守らない匈奴の騎兵の落花流水の如く打ち出す戦法に遅れをと撮っていた。

 そこで超王の霊王将兵の服装を改めさせ、胡服如くズボンのように穿く服装に改め、戦車を捨て、精鋭の騎兵を養い、匈奴の侵入を撃退した。


引用:「汉字密码」(P54、唐汉著,学林出版社)
春秋戦国時代に起こった戦術の大転換の反映
 甲骨文字にある騎の字は明らかに馬ではない。羊かあるいは牛(図に示す如く)もしくは他の動物であったようだ。

 金文になって初めて馬が出てきている。金文の騎の字は馬と「奇」という音からできている。ここで「奇」は大と可からなり、人が足を広げ馬にまたがる様子である。意味は跨ぐである・「奇」は「騎」の本字となり、騎を騎乗を以後表示するようになった 奇の字は「怪異、奇特の意味を表示するように多用されている。これは馬にまたがる胡服の兵士が当時の人々の目にはある種怪異な服装に思えたところからきている。


結び
 漢字の変遷を見ると甲骨文字の時代の「騎」を表す文字には、馬は出てきていない。しかし、金文の時代即ち春秋戦国時代に至ると馬は漢字に組み込まれており、この時代に戦車から騎馬軍団に主力が移ったことが伺える。そして、次第に戦車は戦闘の主戦力から退き、騎馬軍団へと代わって行った。


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2013年12月9日月曜日

来年は午年、「馬」とは何の関係もないが、馬は干支の生れる千年も前から人間と親しかった!

来年は午年、「馬」とは何の関係もないが、馬は干支の生れる千年も前から人間と親しかった!


==== サブタイトル====

 なぜ古代人はへその緒を文字にするほど重要視したのか?その答えは『死亡率』にありました。古代人が子供の無事をひたすら思う、切実な願いが見えてくる。
 来年は十二支では午年に当たる。我が唐漢先生の説によると、この十二支は人間の出生の過程を表したものであるという。従ってこの場合漢字は「午」であって、「馬」ではない。ちなみに漢字源によれば、以下の通り、「午」と「馬」にはなんの関係もない。
 曰く、この時刻や方角の午を午に当てたのは「農民が覚えやすいように十二支に動物を配した秦漢の農暦の影響で、本来は馬と何の関係もない」(「漢字源」の「午」の解説より引用)とある。来年は十二支では午年に当たる。

 しからば、古来「午」はどのように表わされていたのか、甲骨文字を紐解いてみる。


引用 「汉字密码」(P874,唐汉,学林出版社)

「午」は象形文字である。甲骨文字の「午」の字の二つの字形はすべて嬰児の体から脱落したへその緒からとった形象だ。しかし金文から小篆にいたって、字形の外形は著しく変化した。ただし変化の軌跡は却って明らかで証明しやすい。漢字の早く書く書き方と対称化の過程の中で、楷書では「午」と書くようになった。

 「午」の構造的な形はへその緒である。その物象は嬰児に起こる一定の時間の課程を経て、脱落してきたへその緒である。字形上の区別から、ものを括ったところとせん断した刃口にはなお一定の距離がある。これは古代の医薬消毒の条件が今日と比べ大きな隔たりがあることから来ている。いわゆる嬰児の身上にとどまって出てくるへその緒は今日の長さと比べ大変長かったに違いない。もって病原菌の感染を防いだ。嬰児の身上から脱落したへその緒は大体7日から15日(首都の医科大学の幾人かの教授および多くの子供を成育してきた母親によれば、へその緒が脱落する時間は、それぞれ人によって言うことが違うが、ここでは大体この数値になるようだ。) このとき嬰児が最初の夭折期を過ごすと、慶事に値することになる。

 つまり、古代においては、この夭折期こそが人間が生れ落ちて、確かな生命の営みを辿るまで、人間に課せられた最初の試練だったといえよう。今でこそ、医学の発達した病院や、施設での産褥はさほど危険なものではなくなってきたが、数千年前には、母子ともにきわめて危険な過程ではなかったろうか。しかも人間の場合、馬や牛と違い、生まれてからすぐ立つことはできない。牛や馬は生れ落ちると外敵に対するためすぐに立たなければならない。しかし、人間やサルの霊長類は母体を守るため、嬰児は自らの足で立つことが出来るほどまでに長く、母の胎内にいることは許されない。その代わり長い時間をかけて、育て上げることが必要で、その意味からも、この1,2週間のへその緒が取れるまでの期間は非常に大事であるし、また危険な時期であるといえよう。

 「午」は嬰児の産出、養育の順序に照らしていえば、地支の配列は第7番目にくる。時刻標記に用いて、「午」は真昼、11時から13時の間の時刻を指す。午時、午休み、午飯のごとくである。また特に日中の時刻をさし、
正午、中午、昼の3時などと使う。また「午」は日影の方向から拡張され方位を指す。「子」は即ち真北を指し、「午」は真南を指す。いわゆる陕西関中から漢中にいたる道を子午道という。また地面上のある点を通る南北の経線を子午線という。
 「午」は甲骨文字の中では基本構造の文字である。古代漢字の中で独特のへその緒文化を構成している。しかし古代文字の大家は皆それを糸と混同している。実際上は文字の実際表意に基づけは、区別は明らかである。
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