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2020年5月16日土曜日

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている


漢字「騎」には戦国時代に起こった戦術の大変換の痕跡が反映されている
 漢字「騎」には戦国時代に起こった戦術の大変換の痕跡が反映されている。
 それはまるで日本の長篠の戦にて、鉄砲戦術が武田勝頼を破り、日本の戦闘戦術を革命的に変換させたのと非常によく似ている。

 漢民族が馬を使う歴史はまずは戦車に乗っていたのであり、騎馬の歴史は後のものである。一般的には、馬があって車があるというが、戦車が先で後に馬が出てきた。
 《曲礼正義》によれば、古人は馬に騎乗せず、ゆえに経典は見えず、三代から春秋に至り用兵は車戦を率いるの説法で、学者は一般的に古代の人々は馬に騎乗せず、又騎という字もなかった。

 実際的には甲骨文字にある騎の字は明らかに馬ではない。羊かあるいは牛(図に示す如く)これはそれに類する動物である。
 漢民族の騎馬の歴史は趙の武霊王(紀元前325年~300年)の『胡服骑射』が初めてである。当時はまさに戦国の末期であり、華北の趙の国と匈奴の不断の戦争最中であった。趙の国戦車と歩兵では北方の遊牧民族の騎兵を御することはできなかった。


 彼らは精悍に騎射をし、丈を起こしてきて縦横無尽に駆け巡り、丘陵河谷どこでも彼らを阻むことができなかった。それにひきかえ戦車は明らかにもたもたしており、遅くゆっくりして、往々に戦争の礼儀を守らない匈奴の騎兵の落花流水の如く打ち出す戦法に遅れをと撮っていた。

 そこで超王の霊王将兵の服装を改めさせ、胡服如くズボンのように穿く服装に改め、戦車を捨て、精鋭の騎兵を養い、匈奴の侵入を撃退した。


引用:「汉字密码」(P54、唐汉著,学林出版社)
春秋戦国時代に起こった戦術の大転換の反映
 甲骨文字にある騎の字は明らかに馬ではない。羊かあるいは牛(図に示す如く)もしくは他の動物であったようだ。

 金文になって初めて馬が出てきている。金文の騎の字は馬と「奇」という音からできている。ここで「奇」は大と可からなり、人が足を広げ馬にまたがる様子である。意味は跨ぐである・「奇」は「騎」の本字となり、騎を騎乗を以後表示するようになった 奇の字は「怪異、奇特の意味を表示するように多用されている。これは馬にまたがる胡服の兵士が当時の人々の目にはある種怪異な服装に思えたところからきている。


結び
 漢字の変遷を見ると甲骨文字の時代の「騎」を表す文字には、馬は出てきていない。しかし、金文の時代即ち春秋戦国時代に至ると馬は漢字に組み込まれており、この時代に戦車から騎馬軍団に主力が移ったことが伺える。そして、次第に戦車は戦闘の主戦力から退き、騎馬軍団へと代わって行った。


「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。



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2012年7月5日木曜日

漢字「左」の起源と由来:「左」には助けるという意味あり。「佐」は助ける人

左は「工具」を持つ手の象形文字

 「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る。また針を通して作るとも見れる。但し全て労働して作るの意味である。両形の会意で工作の左手を表示している。
この解釈は白川博士も、藤堂博士の「漢字源」でも同じ解釈をとっている。
 
左の本義は左手である。左右の両字が連用される時、『左右圣上』のように補助の意味を表す。即ち皇帝を補助するの意味である。「佐」は左の字から出来た。それは前の文の「佑」と同じである。だから、左の字はもともと補佐の意味を有する。補助は「佐」から受け継がれている。


中国では東向きを左という。これは皇居は南向きに作られており、皇帝から見て東は「左」に当たる

中国の伝統的地理の観念中、常に西向きを右と言う。東向きは左という。江西は江右といい、山西は山右といい、江東は江左である。このような方位の概念は、元々皇宮が北にあって南に面して、君主は南に向いて座るのは確定的である。


左は太古では低く見られていた。戦車が使われるようになると左が高く見られるようになる

 「左右」の字は尊卑、上下の気配を濃厚にもっている。「右」は本来勝ち進む、出来るの意味を持っている。しかし戦車の文化の中では、却って「けなし言葉」になってしまった。


古代の戦車での戦闘方法 

 古代は戦車には3人一組で乗り込む。御者は前方の真ん中に座り、射手は矢を以て車の左に座り「車左」、長い矛を持つものは車の右辺に立って陣取る。また、車右とも呼ぶ。敵味方双方の戦車が殺し合う時、相向かって駆け、先ず射手が更新中に連続して矢を射かけ、戦車が近くなって迫撃の時、両者は同時に左に旋回し、右側の長矛を持った兵士に攻撃をさせる。古人は所謂「左に回り右に引き出す」という。これは所謂「一回のわたり合い」だ。両者は相向かって駆け抜け、左に転じて攻撃し、もしこれが右に転じた時は、戦車の攻撃の規則に合わず、戦うのを嫌って逃げたことになる。左は攻撃、右は逃げる。

左が低く見られたのは、何も中国に限らず、インドでもそうだったと聞いている。昔はトイレでは紙を使わず、尻は手で拭いたが、その際、右手は使わず、左手で拭いた習慣があった。従って、今でも左手は「不浄の手」と言われている。握手する時も左手で握手を求めるのは大変失礼なことだそうだが、どうであろう。


左は革新、右は反動

 近代社会に至っても、左は革命、右は反動、左は妄動、右は機会主義となったことが、定着したが、これは、昔の戦車の戦法が人々の意識に染み付いてしまったためであると唐漢氏はいう。
 しかしこのことは、フランス革命のときのフランスの議会で、革新側は議場の左に陣取ったことから来ていると昔習ったように思うのだが・・。

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