2018年12月31日月曜日

「歳」と「年」の違いは? 漢字「歳」の起源はどう違うの?


漢字「歳」の起源と由来
 今年もまた、「年が明け歳が暮れる」ことの繰り返しであった。これはずーと何一つ変わらず繰り返されてきた。しかし、そこで出来事は凄まじい勢いで流れていく。漢字では「年」と「歳」が何の疑問も持たれずに、用いられてきた。しかしこの差は一体なんであろうか。

 前号で、年の字の成り立ちから見て、「年」の本義は成熟した作物であるという意味であることは理解できた。しかし、ここで同じように一年の時間の長さに「歳」という漢字があり、この「年」と「歳」がどのように違うのか明らかになっていない。そこでここでは、この二つの漢字の成り立ちがどのように違うのかを明らかにしたい。

引用:「汉字密码」(P289、唐汉著,学林出版社)

「歳」の字の成り立ち」
 甲骨文字の「歳」は血の付いた斧のようなものです。「斧」は殺害のための武器であるため、古代の文献では「歳」は「生贄にして犠牲にする」、つまり先祖や神々に捧げるため牛を犠牲にするために牛を殺すことを意味するのによく使われている。甲骨文字の第1款の歳の形の上の小さい点は犠牲を殺した時の血の跡の可能性がある。上古時代「歳祭」はもっぱら「一歳挙行一回」はこの種の大規模な盛大な祭祀を指している。


「歳」が犠牲の血で以て神にささげる祭りという意味から時間に概念が変わる時
 甲骨文字の第2款と金文の歳は斧鉞を用いて二つの「止」を分け隔てている。このことから時の流れを分けることを表示するようになった。
 歳は年歳の名前で、大歳も先民の祭祀に関係がある。中国人の星座には歳星、またの名を大歳星すなわち木星がある。因みに木星は12年ごとに空中を一回周遊する。木星の運行は一辰すなわち一年である。この説明はもっともらしいが、少し後付けのようなきらいがないわけではない。

 結果として、歳は「年」と同じく時間の指標として、用いられてきた。しかし、成立ちは大いに異なるようです。片や農業の実り由来する実りであり、片や神権政治に結び付く、歳祭に見られる生贄を祭る祈りの挙行からくるようです。しかし、この二つの由来を結びつける必然があったように思われます。それが何かを解きか明かすことに更なるロマンがあるようです。


参考記事
1. 漢字「年」の起源と成り立ち 


「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2018年12月28日金曜日

干支の起源:2018年の干支は「戌」で、2019年は「亥(いのしし、猪)」となる理由は? 


干支の起源:来年の干支は「亥(いのしし)」と決めた理由は何?
 干支とは何ぞや
 今までこのブログでも何度か干支について説明をしてきました。(「干支、十二支の起源と成立ち」を参照ください)しかし、干支の起源:どうして2018年は「戌」で、来年の干支は「亥」?という質問の答えはなく、「干支とはなんだ」という概念はもう一つはっきりせず、消化不良という感じを持たれてきた読者の方々も少なからずあったのではないかと反省をしています。そこでここではもう一度基本に戻って解き明かしてみたいと思います。

 干支は十干と十二支の二つの概念で構成されていることは既にお話してきました。十干とは天干ともいい、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10種類からなります。この甲乙丙丁とは、こう、おつ、へい、ていと読むのでなく、きのえ(木の兄)、きのと(木の弟)、ひのえ(火の兄)、ひのと(火の弟)と呼びます。

 十二支は子丑虎卯辰己午未申酉戌亥は地支といい、天干と地支と相交えて日にちを表していた。従って、この方法によれば、10X12の最小公倍数の60を1サイクルとする年代を表すことができることになります。

西暦を十干十二支で表してみると
十干は10年でワンサイクルということですから、西暦の1位の数字に夫々甲乙丙丁・・を割り当てて、「十干」としたようです。
 ではなぜ、このように割り付けられたかというと、成立ちは、以下の理由によるということです。

 この紀年法が定式化されたのが、後漢の建武26年(西暦50年)だったようで、この時が庚戌の年だったということです。光武帝に随従していた学者たちが、決めたことが結局今日まで続いているということです。」


西暦の一位 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
十干

十二支の起源の話に移ります。
十二支の起源も、十干と同様で非常に単純な話です。
 偶々この紀年法が定式化されたのが、後漢の建武26年(西暦50年)だった時に、この紀年法が決定されたことだけの話です。後漢の光武帝が力を持っていたことの証明になるのかもしれません。


西暦を12で割った余り 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11
十二支



干支が決まるまでの長い歴史とその意義
 今までの説明(「干支、十二支の起源と成立ち」を参照ください)で、既にお分かりの事と思いますが、後漢の光武帝の時には紀年法が定式化されただけのことで、紀年法に干支はすでに商(殷)代に現れており、2000年近く使われてきたものです。しかし、十干と十二支が殷の時代に生まれて、後漢に至るまでの間、ああでもない、こうでもないと議論が闘われてきたのですが、光武帝の時に「これで行こう!」と正式に決定されたということです。

 干支が鼠、丑、寅などの十二支や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や迷信・俗信が生まれましたが、元号紀年法が政治体制により、目まぐるしく変化したのに比べると、一貫したものを持っており、西暦が一般化するまでの間実用性を持って人々の間で重宝されてきました。


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