国会の事故調と原子力村
5月29日の毎日新聞で、国会の原発事故調査委員会(事故調)で菅元総理の事情聴取が行われ、その一問一答が報道されている。このやり取りの中で、菅元総理は事故調の中で原発事故対応において、「原子力村」の存在そのものが、極めて阻害要因として機能しているという意味のことを指摘していた。以前から原子力村は電力会社の「イチジクの葉」としての役割を担い、電力会社はその維持の為、膨大な金と尽力とコネを使ってきた。そして肝心かなめの時には、「想定外」という一言でその責任逃れを繰り返してきた。そして、その状況はこの場に至っても改善されず(むしろ悪化している?)、原発の再稼働に向け、血眼になっているように見える。
事故調とマスコミに対する杞憂
私が危惧するのは、今事故調でのやり取りに関するマスコミの問題の捉え方で、非常に由々しい傾向がうかがわれることである。それは、「全て菅首相の個人的責任になすりつけ、問題の核心を隠蔽しようとしているのではないか」ということだ。
あのような異常事態において、たとえ一国の首相といえども、イライラすることもあっただろうし、瞬間的にはものの方向も見失うこともあっただろう。あってはならないけれども、ありうることである。要はそのことをいかに回避するシステムにするかということだ。
いま報道の論点が、「菅首相のイライラした対応、下手に技術屋であったばかりに技術的な細目に目を奪われた、東電に乗り込んで直接口を出し現場を混乱させた」というようなことばかりがクローズアップされている。しかし、ある意味彼がそうせざるを得なかった背景にはあまり触れられず、「彼が事態の後追いばかりに汲々としている」という論調が目立つのである。今マスコミがしなければならないのは、個人的な資質の問題に焦点を当てることであろうか。個人的な問題にすりかえれば、結論は一つ、別の人間であればうまく行ったであろうというとんでもない結論が待っているだけであろう。
そのことは、原発事故と同じではないか。あってはならないことでも、あり得たことであるし、実際にあったことで、起こってしまったことだ。それをあり得ない、絶対安全だと繰り返してきたのは、東電をはじめとする電力会社であるし、それのおこぼれを貰ってきた「原子力村」であるし、御用学者であるし、国機関であるし、長年それを推進してきた自民党、公明党ではないだろうか。
事故調は「何をなすべきか」
確かにあのような国存亡の危機の時にあってはならないことを、絶対起こさないようにするためのリスク回避を如何にすべきかということである。その点について、菅首相は「脱電発とすべきで、一時は安全を確認しながら推進することも考えたが、誤りであった」と述べている。
原発をなくすることによって、国全体で被るべき問題(例えば、エネルギー不足など)は代替エネルギーを開発すべきであろう。大きな視野に立って、その方向性をはっきりと打ち出すべきであろう。
事故調は事故の調査がその使命であろうから、原子力そのものに云々する立場でないだろうが、それにしても、決して個人的な問題に責任を転嫁し、問題点をすり替えてはならない。
原発がなければ事故調自身も必要がなかったであろうから
最後に、このサイトの使命は漢字の起源と由来を探ることである。
「核」:漢字の起源と由来
漢字源では、「会意兼形声。亥(ガイ)は、ぶたの体の芯に当たるかたい骨組を描いた象形文字で、骸(ガイ)の原字。「核」は、「木」+「亥」で、木の実の固い心をいう。
左は「亥」の金文文字である。
唐漢氏の解説には「核」については触れられていない。「亥」については、別の機会に紹介しよう。