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2012年6月10日日曜日

地震は単に東北地方だけではなく、日本のすべてを揺り動かした:震の語源と由来

原発問題の核心は原発の存在。その引き金は地震
 原発問題の核心は言うまでもなく、原発があったことである。しかし、その問題の引き金になったのは、地震であるし津波である。宮城沖の海底地震は、東日本に甚大な被害を及ぼした。そしてそれは当然のこととして強烈な津波を引き起こした。津波は阪神淡路大震災にはなかった被害を東北地方の海岸べりにもたらす。

四川大地震 
 私は、去年の8月に中国四川省の地震跡に入ったことがあるが、それは東北地方の地震とはまったく違った様相を見せていた。そこではがけ崩れによる人家の倒壊が主な側面ではないかと思われた。しかし片やそれとはまったく異なる津波である。同じ地震といえども、その現れ方はケースバイケースで、その対策はまったく異なるのだということが実感できた。  現地のインターネット上で言われていたことだが、四川地震の原因は三峡ダムにあるのではないかということである。すなわち、強大な水甕が突如として現れたわけであり、それはその地方におそらく横たわるであろう活断層に何らかの影響を及ぼさずにはおかないだろうというものだ。  これが真実ならば、四川大地震は人災ということになる。しかしこれについては政府は認めておらず、未だ検証もされていないので、風聞の類なのかもしれない。そう軽々しく言うものではないことながら、私の見た三峡ダムはそれが風聞ではなく、現実なのだと思わせるに十分な規模のものであった。

地震の「震」の語源は結局地震の原因探しと同様よく分からない

 今日は地震の「震」という字について考える。これは会意文字で、「雨」+「辰」という字で構成される。
 以前に「辰」という字の解釈を行った。その時は、「辰の本義は臍の緒を切るということだ」とした。  唐漢氏はへその緒は切ってしばらくぴくぴくと動くので、拡張され躍動とか振動という意味が出たと解釈している。しかし、これについては当然別の解釈がある。 「漢字源」によれば、「象形。二枚貝が開いて、ぴらぴらと弾力性のある肉がのぞいたさまを描いたもの。」という解釈をしている。十二支の生成に重きを置けば唐漢氏の解釈に一貫性があるように思うし、ぴらぴらと動くさまに重きを置けば二枚貝説になる。  そして漢字源では、「雨」という空の現象を表す言葉と「辰」というびりびりと震えるさまを表す言葉を合わせて、「震」は「びりびりと震える雷のこと」としている。  ではそれでは雷の起源はどうかというと白川博士は、雷の原型は「雨」かんむり+「晶の漢字のすべての『日』が『田』に取って代わったもの」(稲妻を放射する形)という。このように百家争鳴で、諸説紛々としている。 しかし問題はその原因がどうであろうと、地震と原発がもたらした災害は、単に国土にとどまらず、いまなお、政治・経済・国力全般にわたり日本全体を揺る動かしている。

政治家やマスコミの演出する茶番
 わたしが危惧するのは、マスコミや自民や民主、公明などの政治家が意図的に目くらましを国民に投げつけているのではないかと思われるほど、皮相な問題をに必要以上に力を費やしていることである。  例えば、AKB48総選挙とか、原発事故調査委員会をめぐる茶番劇である。  前にも言ったように「菅首相がどういった指示を流したか」なんていうのは、どうでもいい話である。それよりも、大飯原発再稼動問題の方がよほど重要ではないか。


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2012年6月7日木曜日

小説「日本沈没」が語るもの:「沈」の起源と由来

日本沈没

 つい先ごろ、近所の「未来屋」という本屋さんで、「最も未来のない題名の」古本を買った。この初版は光文社から1973年に出され、その後小学館から2006年に再版されたものである。現在ではとうに絶版になっていて、たまたまこの本屋さんの古本の部に出ていたのを見つけ買ったものである。その本は小松左京の「日本沈没」である。

 今から30年近く前の話で、当時読んだ時は、ある意味で「荒唐無稽」な小説と感じたのを記憶している。しかし、17年前に自分自身が阪神淡路大震災を経験し、そして先日の東北大地震を目の当たりにし、当時漠然としていた恐れが、にわかに真実味を帯び、自分の心の片隅に澱の様に居座っている今日この頃である。  しかも、その後の東南海トラフ、西南海トラフ等に溜まっているというストレスの解析が進むにつれ、澱のように沈澱していたものが、具体的な形と色を持つに及んで、この小説の下巻、更には第2部の上下を読んでおかねばならないという衝動に駆られ、アマゾンから取り寄せたり、更にいろいろな古本屋に当たって見たりして、ついに全て読み終えた。

 日本列島が真っ二つに折れ、太平洋に沈みこんでしまうという、壮大なスケールの前に、なすすべもなく、12000万人の人間のうち数千万人の脱出させるのが精いっぱいという結末を迎える。残された数千万人は太平洋の藻屑と消えてしまうしかなかった。
 小松氏は日本列島が大洋に浮かぶ龍の様だったと書いている。そしてそれがまるで生贄の様に大洋に呑みこまれてしまう。「沈」という字も、太古の昔、牛をいけにえに捧げるため、大河に沈めた様を描写したものだという。


小松左京氏の視点

小松氏は日本列島の上に起こる未曽有の自然災害を、科学的な観点から見事に描き切ったといえる。  しかし私が感心したのは、その天変地異の現象を通して、日本人、日本民族の特質をえぐり出し、良くも悪くも現代日本人に課せられた課題を突き付けていることである。  日本沈没という未曽有の事態を直前にして、首相の委託を受け、箱根に住む妖怪の様な老人のもとで三人の学者?が日本人のすすむべき道のためのガイドラインを作る。 1) 日本民族の一部がどこかに新しい国を作るために 2) 各地に分散し、どこかの国に帰化してしまうケース 3) 世界のどこにも入れられない人々のために   これら3つのガイドラインは実は「この状態にあっても何もしないケース」を元に組み立てられている。「国土を失った日本民族は世界のあちこちの隅を借りることになる。だが求めて得られなければ無理に要求してはならない。生きるにしても自力で生きなければならない・・。」ということをベースに各論が組み立てられている。日本民族は世界の厳しい環境の中である意味では、本当に自力で生きた経験がない。日本列島という大きな箱舟の中で守られてぬくぬくと生きてきた。  私は本当に自力で生きることこそが、日本沈没までいかなくても、今の日本人に求められていることではないかと思う。

日本沈没と原発

 最後に時代的制約かもしれないが、指摘しなければならないのは、この小説の中では原発について触れられていないことだ。日本列島沈没という事態の前に、今日本にある原発は世界中に非常に長きにわたって放射能汚染という2次的な災害をもたらすことが予想され、1次災害以上に人類破滅の道筋をつけるものになるかも知れない。ある人は言うかもしれない。「このような荒唐無稽な事態を設定して、原発の安全性を云々することはばかげていると」。  しかし、一つだけはっきりしていることは、原発がなければ、原発事故は起こらないということである。

漢字の解析:沉」と「沈」は古代ではもともと同じ字

甲骨文字は川の中で男が小便をするさま
川の中にいけにえの牛が溺れているの2案あり
  「沉」と「沈」は古代ではもともと同じ字であった。「沈」は甲骨文字の字形は一人の男が川の中で放尿をしているもので、沈没の意味である。尿は樹木の様に浮かぶことなく、又石の様に河底に落ちてしまうわけではない。こうして声もなく息もなくなってしまう。古人はこの象形文字を使っての、絶妙のアイディアを言えよう。(ほんまかいなとつい思ってしまう)

 甲骨文字の中で別の表現がある。沈牛を表す字である。これは牛の自然溺死を示すものではない。川の中の牛の沈入は祖先と河川の神に対する祭祀に用いたか、上古先民の祭祀の一種の方法である


沈祭、埋祭の生贄

祭品を作る為に牛は沈祭の中で悲劇の役割を演じるだけではなく、埋祭の中でも同様に悲劇の役割を演じる。甲骨文字中の埋の字は十分形象的である。一頭の牛(あるいは他の動物)が深い穴の中で傍らの点点でぱらぱら落ちる泥土を示して、 逐次埋葬される天命にゆだねた祭牛の状況を表している。牛は穴の中に生き埋めにされ、人間の土地の神と先祖の神霊に奉納される祭品となる。


沉」と「沈」の使い分け

「沉」の本々の字は「沈」の異体字である。現今両方の字は既に分化している。現代漢語の中では、「沈」はshenと読み、姓名、地名を表すのに用いられる。「沉」は溺れて溺死するの意味である。


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2012年5月29日火曜日

問題の核心は「核問題」ではないのか? 「核」:漢字の起源と由来


国会の事故調と原子力村
5月29日の毎日新聞で、国会の原発事故調査委員会(事故調)で菅元総理の事情聴取が行われ、その一問一答が報道されている。このやり取りの中で、菅元総理は事故調の中で原発事故対応において、「原子力村」の存在そのものが、極めて阻害要因として機能しているという意味のことを指摘していた。以前から原子力村は電力会社の「イチジクの葉」としての役割を担い、電力会社はその維持の為、膨大な金と尽力とコネを使ってきた。そして肝心かなめの時には、「想定外」という一言でその責任逃れを繰り返してきた。そして、その状況はこの場に至っても改善されず(むしろ悪化している?)、原発の再稼働に向け、血眼になっているように見える。

事故調とマスコミに対する杞憂
私が危惧するのは、今事故調でのやり取りに関するマスコミの問題の捉え方で、非常に由々しい傾向がうかがわれることである。それは、「全て菅首相の個人的責任になすりつけ、問題の核心を隠蔽しようとしているのではないか」ということだ。 
あのような異常事態において、たとえ一国の首相といえども、イライラすることもあっただろうし、瞬間的にはものの方向も見失うこともあっただろう。あってはならないけれども、ありうることである。要はそのことをいかに回避するシステムにするかということだ。
いま報道の論点が、「菅首相のイライラした対応、下手に技術屋であったばかりに技術的な細目に目を奪われた、東電に乗り込んで直接口を出し現場を混乱させた」というようなことばかりがクローズアップされている。しかし、ある意味彼がそうせざるを得なかった背景にはあまり触れられず、「彼が事態の後追いばかりに汲々としている」という論調が目立つのである。今マスコミがしなければならないのは、個人的な資質の問題に焦点を当てることであろうか。個人的な問題にすりかえれば、結論は一つ、別の人間であればうまく行ったであろうというとんでもない結論が待っているだけであろう。
そのことは、原発事故と同じではないか。あってはならないことでも、あり得たことであるし、実際にあったことで、起こってしまったことだ。それをあり得ない、絶対安全だと繰り返してきたのは、東電をはじめとする電力会社であるし、それのおこぼれを貰ってきた「原子力村」であるし、御用学者であるし、国機関であるし、長年それを推進してきた自民党、公明党ではないだろうか。

事故調は「何をなすべきか」
確かにあのような国存亡の危機の時にあってはならないことを、絶対起こさないようにするためのリスク回避を如何にすべきかということである。その点について、菅首相は「脱電発とすべきで、一時は安全を確認しながら推進することも考えたが、誤りであった」と述べている。
原発をなくすることによって、国全体で被るべき問題(例えば、エネルギー不足など)は代替エネルギーを開発すべきであろう。大きな視野に立って、その方向性をはっきりと打ち出すべきであろう。

事故調は事故の調査がその使命であろうから、原子力そのものに云々する立場でないだろうが、それにしても、決して個人的な問題に責任を転嫁し、問題点をすり替えてはならない。
原発がなければ事故調自身も必要がなかったであろうから


最後に、このサイトの使命は漢字の起源と由来を探ることである。

「核」:漢字の起源と由来

漢字源では、「会意兼形声。亥(ガイ)は、ぶたの体の芯に当たるかたい骨組を描いた象形文字で、骸(ガイ)の原字。「核」は、「木」+「亥」で、木の実の固い心をいう。

左は「亥」の金文文字である。

唐漢氏の解説には「核」については触れられていない。「亥」については、別の機会に紹介しよう。



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