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2013年10月1日火曜日

盾:漢字の起源と由来

  矛盾という言葉の中の矛について前2回触れてきた。今回はそのもう一つの主役である盾について調べてみよう。
  盾は実用もさることながら、その表面に美しい図案を施したビジュアル的要素の多い兵器になっている。

  中国や西洋ではこの盾が兵器の中で重要な位置づけを占めているにもかかわらず、日本では私の見る限り盾という兵器があまり表立ったものにはなっていないように思う。なぜだろうか。

 そこには日本と中国や西洋とでは戦闘のあり方が異なっているのではないだろうかと思う。何か決定的違いがそこにはあるような気がする。この違いを明らかにすると、日本と諸外国の気質の違いが見えてくるのではないだろうか。これは、後日の検討課題である。


引用 「汉字密码」(P585, 唐汉,学林出版社)

  盾は本来象形文字である。甲骨文字の盾の字は上古の盾牌のデッサンである。金文中の第1款の盾の字は甲骨文字の延長である。第2款の盾の字はもう一度改めて焼きなおしたものだ。上下の構造の会意文字で上辺は人形、下辺は台の形の盾牌を表し、盾牌を持って対人体的防護を表している。


   小篆はその過程の中で生じた変化で、盾牌の形象は目で表した。《説文釈疑》曰く、目は盾の用途を示し、形と意味が兼ね備わって文字になったものだ。

  三千年来、兵器の中の「矛」の進攻性と同じく、盾はビジュアル系防護器具の代表的な標本であった。最も原始的盾牌は干(盾の意味)から生まれ出て、藤木の類の材料が多用された。蒙古の周辺では獣の皮に、漆を塗ったあと凶悪なトラの絵を描いている。

  青銅時代の皮の盾にはすでに青銅の鋳造の泡釘をはめ込みあるいは獣の面の盾飾りを嵌め込んでいる。両周(東周、西周)の時期には盾と矛は兵士の作戦的な兵器になった。暫時戈は取って代わり、大量の装備の兵器になった。ただし盾と干の間には形成上の承継性がある。戈と矛の間の承継性はわずかだが受け継いでいる。よって青銅器の銘文中には片手には戈を持ち、もう一方には盾を持っているデッサンがある。矛盾が一緒に書かれた図もある。

商周の時期の埋葬墓にまた、常に戈と盾は同時に埋葬している現象がある。

  
「漢字の世界の起源と源流を探る」のホームページに戻ります。

2013年9月23日月曜日

矛と戈の字に見る武器の変遷

 

引用 「汉字密码」(P582,唐汉,学林出版社)

「戈」は象形文字である。甲骨文字の「戈」は正に戈のデッサンで戈の竿の上にはとがった横長の「戈頭」があり、上端は短い線で「秘帽」を為し、下端は鐏(戈などのいしづき)となり、地上に挿して立てることができるようになっている。

金文の「戈」の字は甲骨文字と比べさらに美観で真に迫っており、特に戈の頭の飾り房を表すまで至っている。 小篆の戈の字の線条は明晰であるが象形の味は非常に多く失われてしまっている。楷書はこの関係で「戈」と書くようになった。

   「戈」これは鉤で啄ばむ方式の殺人兵器で、また中国固有の民族的特徴を捉えた戦争兵器である。新石器時代の晩期の遺跡中考古学者はかつて石戈が出土したときその形から分析し、これらは有史以前の時期の「斧」であるかもしれないと考えた。斧は古代社会にあって、一種の樹木の切削道具として用いられた。必要あらば、敵をつつき殺すのにも用いられた。絶え間ない殺伐の啓示から、われわれの祖先は「戈」という一種独特の兵器を作り出した。

 商周の全時代を通じて、「戈」は最も重要な格闘兵器となり、多くは青銅が浅く鋳造されたのち再び磨かれ打ち直されたものだろう。戈は長ものと短柲の2種類があり、短秘の戈長さは約1メートルあり、歩兵の格闘に適し、長柲(木変に必)は長さは2-3メートルあり戦車の攻撃に適す。「戈」は商周の時代を経て一直線に戦争の実践主要兵器となった。紀元前3世紀に至ると「矛」の鋼鉄製の兵器の出現によりついに矛は戦争の舞台から退出した。

 戈はもともと兵器の専用名であった。戈は華夏の民族の代表的な最も実践的兵器であった。言葉の意味が拡大して以降、またそれは広く兵器をさすのに用いられるようになった。 「戈」の字はまた部首でもある。漢字の中で、およそ「戈」が組み合わさった字は、みな武器や格闘に関係している。例えば「載、戒、戎、咸、武」などの字である。
「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2012年2月25日土曜日

南京の「南」はどこから来たのか その起源と由来は如何に

 河村たかし名古屋市長の発言が物議をかもしだしている。その是非については、ここでは触れないでおく。

 南京の歴史は古く、紀元前700年頃、春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。三国時代になると呉の孫権が229年に石頭城という要塞を築いて建業と称してこの地に都を置いた。その後時代は下り、1421年に、靖難の役で皇位を簒奪した明の永楽帝により首都が北京(順天府)へ遷都され、「南京」と改められ、初めて「南京」という命名がされている。

 さて、ここで南京の「南」というのはどこから来たのか探ってみたい。
 南は上古の時代太鼓等と共に打楽器であった。それは南から伝わり殷商の時代に中原に入り、青銅器制の打楽器として隆盛を極めた。南蛮の楽器として「南」と呼ばれた。

 その音から、方位のことも「南」というようになった。

南京の名産物は「雨花石」(メノウの一種)と言われ逸品である。この石は中に鉄分や銅分等を含み、その含量等により模様や色がいろいろに変化する。また水に濡れれば絶品で、美しいことこの上なしといわれる。
「雨花石」は下の画像のようなものだ。これは日本の高知桂浜などの五色石にもよく似ている。

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