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2020年3月2日月曜日

漢字「私」を科学する・・ビルゲーツの財産は彼の「『私』的な所有物か?」


漢字「私」を科学する・・ビルゲーツの財産は彼の「『私』的な所有物か?」
副題:漢字「私」に刻まれた人間社会発展の歴史を跡付ける

  漢字は人間社会発展の歴史を刻みつけている母斑だと常々いって来ました。そして漢字[私」こそ、我々が今なおそこから抜け出せずに拘泥している概念です。というより、それはもう人間の業というべきものかも知れません。ここでいう「私」は日本語で言う自分のことではなく、私有の「私」のことです。
 私有は資本主義の時代より遥か以前、人間が狩猟に明け暮れていた石器時代から既に社会の成り立ちの礎として人々の体の中に染み付いていたものだと思います。それは今や人間のDNAともいうべきものとなっているともいえると思います。

 どんな理性的な人でも、どんなに高潔な人でも、この「私」から逃れることは出来ません。現実の世界では、世の中の殆どすべての動きは、この「私」が原動力となっているといえます。
 世の中私利私欲で動いていると嘆いていても、何も解決はしません。ではどうすればいいのか、。 その前に、この「私」とは一体何かを共に考えることから始めましょう。

 まずは手始めに、漢字「私」に刻まれた人間社会発展の歴史を跡付けることから始めたいと思います。


 日本では「私」は自分のことを指す代名詞であるが、中国では、このような使い方はせず、自分のことを指す代名詞は「我」です。中国で「私」というのは、所有や帰属を表す意味で「私的所有、私利私欲」という意味に使われています。



引用:「汉字密码」(P881、唐汉著,学林出版社)
「私」:狩猟のための縄で出来た輪状の罠
 「私」、禽獣を狩猟するための縄の輪から来ています。ハンターは、「縄のわな」を設置した後に立ち去ります。縄のわなに動物がかかると、その所有権は、わなを設置した氏族の人間に帰属します。華夏の人々が農業経済に入ったとき、人々は「縄のわな」に作物を示す旁を追加し、「所属」の意味をはっきりさせました。「私」の形の変化は、華夏の民族が狩猟経済から農業経済へと踏み込んだことを示しています。

 注] この説明では[禾」偏が加わった意味がもう一つはっきりしません。

 このあたりのいきさつを私なりに考えると、生産性の低い段階では、取得物は未だ氏族共有のものであったはずです。
 ところが、農耕が発達し、余剰物資が生まれるようになると生産物を私的に所有することが富の蓄積になり、氏族制度の中でも大きな生産単位である大家族が次第に裕福になり、力を持つようになりました。ここで始めて、富の私的所有が社会的に問題となったはずです。このようにして、富の私的所有の明確化が社会的に必要となり、漢字にも反映されるようになったと考えられます。この「所有」権の明確化が漢字の変化になり、[ム」に「禾」賀付け加えられ、「私」になったと思われます。


字統の解釈
 禾とムに従うと解釈している。会意文字で「禾」は耕作のもの、「ム」はスキの象形、即ちスキを用いて耕作する人をいう。白川氏は「私」は私属の耕作者で、隷農的身分のものをいうと解釈している。(この説明が正しいとすると、「私」の漢字に禾編がついたのは、農業生産が非常に高まる一方、農奴が大量に生まれた時代以降ということになり、中国であれば、春秋戦国時代以降ということになります。



ヨーロッパの原始蓄積
 ヨーロッパでは、資本主義が生まれる時代、未だ封建制が幅を利かせていた時代に、「囲い込み運動」という動きが活発に見られました。(これはロビンソンクルーソーという物語の中でも比喩的に取り上げられているといいます。)これは、私的所有の萌芽形態ということが出来ると思います 。




漢字源の解釈
 会意兼形声。「ム」自分だけのものを腕で抱え込むさま。「私」は、「禾(作物)+音符ム」で収穫物を細分して、自分のだけを抱え込むこと。



結び
 冒頭で提起した非常に乱暴な問題提起である「ビルゲーツの財産は彼の「『私』的な所有物か?」」は現代社会の最大の矛盾を提起したことになります。

 資本主義は「生産手段を私的に所有することを基礎とする社会のあり方」と定義されると思います。しかし、「生産手段を私的に所有する」ことは、このページ見てきたように、資本主義のはるかに以前から社会の成り立ちの基礎でありました。社会主義が、概念的に資本主義の次の時代を担うものであったとしても、この私的所有が新しいものに取って代わらなければ、新しい社会は生まれないと思います。

 では、現代はどういう時代でしょう。世界の富の82%をわずか1%の人々に集中している現実があります。
 マルクスは価値を生み出す源泉は労働力にあることを科学的に解明しました。そして今では、価値の再生産の結果として、富の集積は著しい偏在化を招いています。ここに誰もが陥っている著しい錯覚があります。つまり「価値」とは「富」そのものだという錯覚です。世界全体の価値はそれほど拡大再生産されていません。今は過去に蓄積された価値を、食い潰している(縮小再生産している)だけで、過去の蓄積を富の形で世の中に顕在化させているだけだと思います。

 では今何が求められているか? 今求められるのは、世界の富の82%を82%の人々で所有する仕組みを作ることです。これは分配ではないのです。世界の人々が本来持つべき量の私的所有を持つシステムにするだけのことです。

 その為には概念的には、富の占有が意味のないシステムに変えていく必要があります。いまや古典的な労働者のみが価値を生み出す源泉ではなくなっている気がします。
 マルクスは、資本主義の発展により生産力が途方もなく発展することで資本主義が存続する素地がなくなると考え、生産手段が私的所有から社会的所有になりうると考えました。しかし、今では、生産手段の新しい所有形態が生まれ、私的所有が解消されることになっていません。
  生産手段は社会的所有になったのですが、社会的所有を分割することで、結局個人的所有(私的所有)に逆戻りさせてしまいました。結果として、膨大な人々の生産物は、ごくひと握りの人々の所有物になってしまいました。

 冒頭から、漢字「私」に刻まれた人間社会発展の歴史を跡付けることを追及してきましたが、ここにいたって、漢字の「私」が単なる漢字の問題ではなく、人類の性ともいえる問題として私たちに解決を迫ってきているように思います。その意味で、「人間社会発展の歴史を跡付けること」の重要性が明らかになってきているように思います。




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2012年4月24日火曜日

漢字の世界では、家の中に酒があることが「富」ということ

  最近日本では貧富の差が拡大しているといわれている。これは米国が先行し、最近では中国もまた同様という。貧富の差は「資本主義国」の専売特許であったが、近年未だ社会主義を標ぼうしている中国でもこの傾向が出ている。ということは中国は既に社会主義を標ぼうできる状態ではなくなって、資本主義に嵌っていると言わねばならないのではなかろうか。
 最も私から言わせれば、中国のそれは資本主義というより、金本主義という言葉がぴったりなのではと考えている。つまり土地の私的所有は認められていない、資本家がまだそれほど育っていない。賃金労働者の権利つまり「自分の労働力を売る」場所(市場)が成熟していない等などの状況では資本主義というには・・・。
 私の見解はともかく、「富」という漢字のルーツに当たって見た。当って見て驚いた。何と「富」という字は酒に関係しているということだ。それなら我が家では酒を切らしたことはない。しかし貧乏だ。やっぱり世の中間違っている?いや狂っているのは俺の頭?


  甲骨文字の富の字は家の中に一瓶のおいしい酒があるという意味だ。江統《酒諾》曰く「飯が尽きず、暇にまかせて、鬱々と味を為し、気を長く蓄え芳し」。酒を醸成するための前提条件は、まず腹いっぱい食べることだ。併せて飯が尽きないほどあること。
 上古時代、日々皆腹を満たすことはたやすいことではない。あまった食物を酒に発酵できれば当然相当豊かになれる。ここでは屋内の酒は豊かな生活の源である。金文の「富」と甲骨の文字とはよく似ている。小篆の「富」の字は将に屋内に酒瓶の形をしている小篆では字を分解して象形の面白みがなくなっている。 

  「富」の本義は富んで充足していること。常に財物が多いことを表し、「貧」に相対している。論語「学而」の中にあるように「貧しいこと語ることなく、富んでいること驕ることなく」という格言がある。《漢書・食貨志》には更に「富める者田を連ね道を連ね、貧しいもの立錐の余地なく」の社会描写。ここでの富は皆財物が多いという意味である。しかしここまで来ると中国の上古の話ではなく、日本の現代の話そのものではないか。

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2010年5月26日水曜日

「義」の起源と由来 この言葉は今の世の中に必要ないのだろうか

 一昨年のヒットした中国映画は「赤壁」。蜀は漢王室の再興という「義」を掲げ魏と戦った。また昨年のNHKの大河ドラマの「天地人」の基本テーマは景勝の「義」と直江兼継の「愛」であった。ドラマはこの二人の武将の掲げる旗印を軸に展開した。

 このように中国でも日本でも「義」というのは、共通の思想というべきものかもしれない。「義」に対する態度で自己中心型と自己滅却型の違いはあるにせよ、両民族に共通して流れる思想が「義」であったことにはあまり異存はないであろう。最近では日本でも中国でもこの言葉はいささか古臭い響きから、少し敬遠されてくるようになったようだ。

 中国では古くからつい先日まで、「忠、孝、節、義」という言葉が、「仁」という言葉ともに人間の行動・生き方の規範として語られてきた。日本でも同じようにこれらの言葉が人々の生活に深く根ざしていた。しかし日本では、明治維新以降、この言葉は重きを失い、中国では文化大革命によって、孔子と共に葬り去られた。

 一方、日本では最近起こるさまざまな事件を眺めていると、それに関係する人々の間にその人なりの「大儀」があるようには思われない。もちろん犯罪における「大儀」は第3者から見た時、「言い訳」に過ぎない場合が多い。

 しかし少し前は、それでも良いか悪いかは別にして、誰でも「言い訳」をしていたように思う。しかし最近その「言い訳」が聞かれなくなって、やたら弁護士の「心神喪失」という第3者的な言い訳ばかりが目立つようになった。

 要は世の中が余り深く考えなくなった、つめて考えなくなった風潮の結果かもしれない。悲しいことだ。

 だがその中国を歩いてみて、まだこの旧思想と批判された言葉が言葉としてだけでなく、具体的な行動の指針として人々の間に息づいていることが分かり、人間は捨てたものではないと改めて感じている。

 日本と違うのは、中国は日本ほど資本主義に毒されていないのかもしれない。

 さて、今日は「義」という文字の由来・語源に焦点を当ててみたい。

 ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、




甲骨文字「義」
 「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。
金文「義」

 ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。

 そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。

 このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。

  このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。

 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。


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