このように中国でも日本でも「義」というのは、共通の思想というべきものかもしれない。「義」に対する態度で自己中心型と自己滅却型の違いはあるにせよ、両民族に共通して流れる思想が「義」であったことにはあまり異存はないであろう。最近では日本でも中国でもこの言葉はいささか古臭い響きから、少し敬遠されてくるようになったようだ。
中国では古くからつい先日まで、「忠、孝、節、義」という言葉が、「仁」という言葉ともに人間の行動・生き方の規範として語られてきた。日本でも同じようにこれらの言葉が人々の生活に深く根ざしていた。しかし日本では、明治維新以降、この言葉は重きを失い、中国では文化大革命によって、孔子と共に葬り去られた。
一方、日本では最近起こるさまざまな事件を眺めていると、それに関係する人々の間にその人なりの「大儀」があるようには思われない。もちろん犯罪における「大儀」は第3者から見た時、「言い訳」に過ぎない場合が多い。
しかし少し前は、それでも良いか悪いかは別にして、誰でも「言い訳」をしていたように思う。しかし最近その「言い訳」が聞かれなくなって、やたら弁護士の「心神喪失」という第3者的な言い訳ばかりが目立つようになった。
要は世の中が余り深く考えなくなった、つめて考えなくなった風潮の結果かもしれない。悲しいことだ。
だがその中国を歩いてみて、まだこの旧思想と批判された言葉が言葉としてだけでなく、具体的な行動の指針として人々の間に息づいていることが分かり、人間は捨てたものではないと改めて感じている。
日本と違うのは、中国は日本ほど資本主義に毒されていないのかもしれない。
さて、今日は「義」という文字の由来・語源に焦点を当ててみたい。
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
甲骨文字「義」 |
金文「義」 |
ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。
そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。
このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。
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