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2012年8月10日金曜日

臭ーい話 :「厠」 漢字の起源と由来


  これまで中国古代の家に関する漢字の変遷について調べてきたが、ここで少し息抜きに「厠」について考えてみよう。厠と言えば云わずと知れた便所のことである。古代で実際に厠というものが作られたのは、随分時代が下ってからのことではないだろうか。
引用 「漢字源」(主編者 藤堂明保,学研)

 「厠」 漢字源:鼎の傍にナイフをくっつけたさま。厠は「ガンダレ(家を表す部首)+音符(則)」で屋敷の片隅に寄せて作った便所のこと



  トイレと言えば、筆者もお粗末トイレに遭遇したことがある。中国の蘇州のホテルの便所である。ホテルはたしか「如○」という名の大衆ホテルだったと思う。ホテル自体は安宿ながら、新しく清潔だったのだが、そのトイレがどうにも首をひねらざるを得ないものだった。 写真でも分かるようにトイレとシャワー室が一緒になっているタイプであるが、このシャワー室のドアは外開きになっているので便器につかえてシャワー室に入れないのだ。これはどう考えてもドアをつけ間違いの様に思う。外開きとしてもドアが手前に開けばまだしも向こう側に開くようになっているため、入るのには非常に苦労が伴う。自分はそれほどメタボではないが、それでもシャワーを浴びるのに体を捩って、中身が出ないように気をつけて、漸く中に入れたことを記憶している。
  
またインターネットを見ていたら、抱腹悶絶もののトイレをアップしていたサイトを見つけたので、ついでに紹介したい。
  URLは次のリンク 貼貼。 興味のある方はどうぞ。但し中国語サイトなので、お含みおきを。


 そのなかで2,3面白そうなものをピックアップしたい。  私はここに上げた画像のばかばかしさを笑うというより、こんなことを大真面目に手を尽くして頑張る中国人に拍手を送りたい。これぞ文化なのだ。ばかばかしいが将に文化のきわものと言うべきだろう。










私はこの画像を見て、少しショックだった。というのは、どうすればこのようなものを作り出すという発想がでてくるのだろう。

中国人と日本人これは私の永遠のテーマではあるが、日本人には決してこのような発想は出てこないような気がする。

すくなくとも中国人は日本人に比べ、開放的であるし、大らかだ。

ここにはあまり多くの画像はアップしていないが、中国人は日本人の様にあまりいろいろ隠そうとしない。すくなくとも庶民の生活レベルではである。この河の縁の3つの便器に3人の「おっさん」が並んでたれている場面を想像して見ただけで・・。「おぞましい」とみるか?

「漢字の世界の起源と源流を探る」のホームページに戻ります。

2012年7月5日木曜日

漢字「左」の起源と由来:「左」には助けるという意味あり。「佐」は助ける人

左は「工具」を持つ手の象形文字

 「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る。また針を通して作るとも見れる。但し全て労働して作るの意味である。両形の会意で工作の左手を表示している。
この解釈は白川博士も、藤堂博士の「漢字源」でも同じ解釈をとっている。
 
左の本義は左手である。左右の両字が連用される時、『左右圣上』のように補助の意味を表す。即ち皇帝を補助するの意味である。「佐」は左の字から出来た。それは前の文の「佑」と同じである。だから、左の字はもともと補佐の意味を有する。補助は「佐」から受け継がれている。


中国では東向きを左という。これは皇居は南向きに作られており、皇帝から見て東は「左」に当たる

中国の伝統的地理の観念中、常に西向きを右と言う。東向きは左という。江西は江右といい、山西は山右といい、江東は江左である。このような方位の概念は、元々皇宮が北にあって南に面して、君主は南に向いて座るのは確定的である。


左は太古では低く見られていた。戦車が使われるようになると左が高く見られるようになる

 「左右」の字は尊卑、上下の気配を濃厚にもっている。「右」は本来勝ち進む、出来るの意味を持っている。しかし戦車の文化の中では、却って「けなし言葉」になってしまった。


古代の戦車での戦闘方法 

 古代は戦車には3人一組で乗り込む。御者は前方の真ん中に座り、射手は矢を以て車の左に座り「車左」、長い矛を持つものは車の右辺に立って陣取る。また、車右とも呼ぶ。敵味方双方の戦車が殺し合う時、相向かって駆け、先ず射手が更新中に連続して矢を射かけ、戦車が近くなって迫撃の時、両者は同時に左に旋回し、右側の長矛を持った兵士に攻撃をさせる。古人は所謂「左に回り右に引き出す」という。これは所謂「一回のわたり合い」だ。両者は相向かって駆け抜け、左に転じて攻撃し、もしこれが右に転じた時は、戦車の攻撃の規則に合わず、戦うのを嫌って逃げたことになる。左は攻撃、右は逃げる。

左が低く見られたのは、何も中国に限らず、インドでもそうだったと聞いている。昔はトイレでは紙を使わず、尻は手で拭いたが、その際、右手は使わず、左手で拭いた習慣があった。従って、今でも左手は「不浄の手」と言われている。握手する時も左手で握手を求めるのは大変失礼なことだそうだが、どうであろう。


左は革新、右は反動

 近代社会に至っても、左は革命、右は反動、左は妄動、右は機会主義となったことが、定着したが、これは、昔の戦車の戦法が人々の意識に染み付いてしまったためであると唐漢氏はいう。
 しかしこのことは、フランス革命のときのフランスの議会で、革新側は議場の左に陣取ったことから来ていると昔習ったように思うのだが・・。

「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。