2023年12月7日木曜日

漢字「馬」の成立ちと由来:馬と人間の係わりを漢字の中から探る


漢字「馬」:馬と人間は長い歴史の中で如何に係わってきたか、そしてそれは漢字にどう反映されたか?

 馬は昔から、人間の生活になくてはならないものであった。というわけで馬にまつわる話にはことを欠かない。馬は起源は北米だという説もあり、またウクライナ地方で5000年前だという説もあり、また紀元前2000年ごろバビロニアの遊牧民が最初に飼い始めたという説もある。このバビロニアの馬は足が速く、今のアラブ馬の祖先だという説もある。

 人間と馬の関わりは、歴史的に非常に深いものである。馬は古代から現代まで、人類の移動手段や農耕、戦争、交流などさまざまな面で重要な役割を果たしてきた。  最初の馬の家畜化は、紀元前4000年ごろの中央アジアで始まったと考えられている。この時期、野生の馬は狩猟の対象であり、人々は馬の肉や皮を利用していた。しかし、やがて人々は馬を乗り物や荷物の運搬手段として使うようになり、農耕や交易の発展に貢献した。



 本ページは、以前にアップした「漢字の成り立ち:「馬」の歴史は、人の歴史そのものだった」を全面的に加筆修正したものである。


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「馬」と人間のかかわり

歴史の中での人間と馬の係わり(特に戦場における馬との係わり)

古代ギリシアでは歩兵による密集戦術が主流で、馬は指揮官が使う補助的な役割でしかなかった。近年の研究では既に地中海世界では大型の鞍が発明されており、旧説で言われているほどには騎乗は困難でなかったとは言われるが、鐙(あぶみ)が発明されるまでは馬上で武器を扱うのは困難であり、幼い頃からの鍛練が必要な特殊技能であった。中国やイラク、シリア、ギリシャなどの農耕地域では馬を育てる事に費用が嵩むため、所有出来るのは金持ちや有力者に限られていたようである。

   アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。


 

騎馬遊牧民の出現

匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

事実紀元前2000年ー1500年ごろに栄えた殷王朝の安陽の遺跡からは、騎馬戦車が数多く発掘されている。 そして、漢民族が戦車ではなく、馬に跨り戦場を疾走するようになるのは、時代が1000年ほど下った戦国時代に起こった戦術上の大変換になるまで待たなければならない。(下記のページを参照ください)


中国に起こった騎馬がかかわる戦術上の大変換

 戦国時代は、中国の歴史上の時代のひとつで、紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけて続いた。この時代には、多くの国家が争い、統一を目指して戦った。

 初期の戦国時代では、戦闘は主に歩兵中心で行われていた。しかし、騎馬戦術の重要性が次第に認識されるようになり、騎馬兵の使用が増えるようになった。騎馬兵は、偵察や奇襲、迅速な移動などに優れた能力を持ち、戦闘の効果を高めることができました。
 また、戦国時代の中盤から後半にかけて、騎馬戦術は進化した。その中でも特に有名なのが、騎射戦術(きしゃせんじゅつ)です。これは、馬上から弓を射ることによって戦う戦術で、強力な騎馬アーチャーが敵に対して威力を発揮しました。
 さらに、騎馬戦術の発展に伴い、騎兵隊の組織化も進んだ。騎兵隊は独自の指揮系統を持ち、連携して戦うことができた。また、騎兵隊は槍や剣を使用することもあり、接近戦においても優位に立つことができた。

 ただし、戦国時代の騎馬戦術は、あくまで限定的な存在でした。地形や戦場の条件によっては、騎馬兵の運用が制約されることもあった。また、他の戦術や兵種との組み合わせも重要であり、騎馬戦術の単独の優位性だけで戦局を決めることは難しかったようだ。

 以上が、中国の戦国時代における騎馬戦術の変遷についての概要である。この時代の戦争は非常に複雑であり、各国が様々な戦術を駆使して争った。



漢字に反映された馬

漢字「騎」には戦国時代の戦術の大変換の痕跡が反映されている

漢字「馬」の解体新書

漢字「馬」の楷書で、常用漢字です。
 
馬・楷書


「馬」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み   バ、マ
  • 訓読み   うま、ま

意味
  • うま。
  •  
  • 将棋の駒の種類、
  •  
  • 競馬

同じ部首を持つ漢字     馬、騎、馭、馴、慿
漢字「馬」を持つ熟語    馬、馬車、馬力、馬鈴薯


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漢字「馬」の由来と成り立ち

 馬は人間の生活と関係が深く、 〔説文〕がその部に録する字は115字、康熙字典には異体字を含めると481字に及ぶ。  
馬・甲骨文字
馬・金文
馬・小篆


漢字「馬」の甲骨文字から金文への変化

  • 早期の金文の「馬」の字は甲骨文字の持つ象形の特徴は小篆にいたるころには却って似て非なるものとなっている。
  • 図の示すところ小篆の馬の字は下部は5画で今の4本の足と尾を表し、二本の足と尾っぽの変化したものだ。上部の3本の横棒は馬の首の上の鬣毛が変化したものだ。
  • 楷書の繁体字の「馬」は9画あり、書くのには十分不便で、このため漢字の簡略化の案は行書を参照にされ、今日の中国で使用されている簡体字「马」が創造された。  人類が飼育している家畜の中の体型は最も大きいもので、このために古人は大きいものの修飾語として「馬」を専ら使うようになった。同類のかつ大きいものの比較で、馬蜂(スズメバチ)、马勺(杓子)、马明、马蚁(蟻)などである。また山東人の習慣で大きな棗を称して「馬棗」という。広東人は大豆のことを馬豆と称している。




引用 「汉字密码」(P50,唐汉,学林出版社)

漢字「馬」の民俗学的解釈

  馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。


漢字の変遷 甲骨文字から金文、楷書へ

 馬は典型的な象形文字である。甲骨の字の馬は一匹の頭足身体尾っぽ全部そろったものを横から見た馬の形をしている。上古の先民は天才画家に称号にも耐えうる。彼らは馬の形体に対し、眼と耳際の毛はの正確な描写はまさに分析が深く、大きく扁平で長い眼、長く突出した頭部の両側、上に直立して立った鬣、遠くみても一目で、馬とその他の動物間の特性と差別するのにできる。



漢字「馬」の字統の解釈

 馬の「鬣」のある形。中国では古くから車馬を用い、馬はその生活と関係が深く、 〔説文〕がその部に録する字は115字、康熙字典には異体字を含めると481字に及ぶ。車馬 は古くより最も重要な交通及び戦闘の方法であった から、中国の古代においては、車馬具の発達が極めて著しかった。殷周以来の大墓には多く車馬坑を 伴うており、その遺品が多い。


漢字「馬」の漢字源の解釈

 象形。馬を描いたもの。古代中国で馬の最も大切な用途は戦車を引くことであった。馬にまたがって乗ることは、北方の遊牧民族、匈奴などから伝わった習慣で、古代中国では直接馬に乗ることはしなかった。


漢字「馬」の変遷の史観

文字学上の解釈

 馬の起源は、5500万年前北米に生息した種にあるそうだが、現代の馬の起源としては、冒頭にも触れたように、ユーラシアステップ地帯西部(ボルガ・ドン地方)で、約5000年前に放牧されていた馬が急速に各地に拡散したものだといわれている。 その流れは当然のこととして、中国西域、モンゴルにも到達し、最初は農耕用、あるいは荷役用として飼われていたであろう。

 古代、中国の華北平原と内蒙古の地区では、野馬が生息していた。この種の野馬の頭の高さは高くなく、長くて頭をつけ、鬣と耳は立っており、短い足と長い尾っぽは下向きに垂れていた。専門家はまさにこの種の野馬は新石器時代にアジアの土着の居住民によって、われわれの祖先たちが養育に成功し6畜のひとつになったという。

 そして春秋戦国時代には、革命的な戦争戦略の変換があり、戦車を引くためだけに使われていたものが、騎乗、騎馬用として用いられるようになってきた。そうした長い歴史のおかげで、漢字の上でも実に数百款に及ぶ「馬」が存在している。

 


まとめ

  ここに掲げた漢字の「馬」の甲骨、金文や小篆の文字はほんの一部であるが、これらのいずれも、一見して馬だとわかる特徴を備えている。いまさらながら、古代人の描写の巧みさに感心すると同時に、漢字の持つ視的面の効用に感心せざるを得ない。
  


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2023年12月5日火曜日

漢字「御」の成立ちと由来:古代に怨念を払い、子孫の繁栄のための祭祀に由来する


漢字「御」の成立ちと由来:「御室」を「みむろ」と読むルーツをは中国にあった??

 且て、江蘇省・揚州を旅した時、清の乾隆帝が建立し、舟遊びを楽しんだという船着き場に立ち寄ったことがある。その船着き場に碑が建てられており、「御馬頭」と書かれてあった。現地の人にこれは何と読むのだと聞いたところ、「みまとう」だと聞こえた。自分の耳を疑った。百人一首の「御室の山のもみじ葉は・・」という歌が頭に浮かんだ。全く同じ読みをする漢字に出会おうとは夢にも浮かばなかった。非常に感激をしたことを思い出した。よく聞くと、「みまとう」ではなく「うぃまとう」と発音したようだが、はるか昔鑑真和尚が日本に来た頃、この地で「御馬頭」の発音を聞いて、「みまとう」と聞き、それから「御室の山」を「みむろのやま」と読むようになったのではないかと密かに考えたものだ。



 この記事は「漢字『御』に込められた祖先の切なる想いとは何? 漢字の成り立ちと由来を見れば謎が解ける!」を加筆Reviseしたものである。




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漢字「御」の今

漢字「御」の解体新書


 
漢字「御」の楷書で、常用漢字である。
 
御・楷書


  
御・甲骨文字
御・金文
御・小篆


 

「御」の漢字データ

漢字の読み
  • 訓読み  おん 例)御中   お 例)御前   み 例)お御籤  
  • 音読み  ぎょ 例)御意   ご 例)御飯
  • 使い方 ①敬意やていねいさを表す語。「御挨拶」「御覧」
        ②皇室に対する敬語 「御物」
        ③あやつる。「御者(馭者)」「制御」
        ④おさめる。支配する。つかさどる。 「統御」
        ⑤ふせぐ。まもる。 「防御」


同じ部首を持つ漢字     御、禦
漢字「御」を持つ熟語    御、御中、御前、御者


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漢字「御」成立ちと由来

引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)
「御」この字には上古先民の子孫繁栄の切なる願いが込められている

唐漢氏の解釈

 "御"の本の字は"禦"である。これは会意文字だ。甲骨文字の「禦」の字は右側には跪いている男の人が見える。左辺は「示」の献卓がある。真ん中には臍の緒を示す記号があります。会意文字で子供を授かることを願う祭祀を指している。金文の「禦」の字の形象は特にはっきりしている。小篆は禦の字の形態は整合がとれていて、併せてギョウニンベンの旁が滑らかに表示されている。楷書はこの縁で禦とかく。簡体化で御の字が禦の簡体字となった。

 "禦"は《説文》では「祀なり」としている。上古時代は高出生率、高死亡率で、極端に低い生育率が基本的特性であった。統計に基づけば有史以前は、嬰児の死亡率は高く、0.5以上にも達した。旧石器時代の世界人口の増加率は100年で1.5%を超えなかった。新石器時代でも4%を超えなかった。この為氏族と部落の生存は出生率と成活率にかかっていた。その意義はことのほか尋常ではなかった。人類の有史以前の生殖崇拝と育産祭祀は非常に旺盛であった。

 漢字「御」の由来と成り立ち:子宝を願う神へ強いの祈りを体現

 "御"はこの歴史の産物である。春秋以降は人口の数量は大きく増加し、血族群団は地域社会に取って代わられ、人口の多寡は、再び氏族の存否の主要な要件になることはなかった。このために人口の繁衍を希求する禦祭は消滅することになった。

漢字「御」の字統(P185)の解釈

 声符は卸。形声文字。卸は御の初文。
 氏は御は祖先の霊を払うときの祭祀であったという。漢字「御」は「禦」の初文という。

 ここで字統から少し離れて考えてみると唐漢氏とは全く逆の解釈となる。たしかに「禦」をよく見てみると、金文までは字形の下に祭卓を表す「示」が出ていない。ということは金文までは「御」も「禦」も全く同じ字形であったとなるか、そもそも禦という語は金文の時代までは存在せず、「御」という言葉しかなかったといえるのかも知れない。



漢字「御」の漢字源の解釈

 会意兼形声。原字は「午(きね)+卩(ひと)」の会意文字で、堅いものを杵でついて柔らかくするさま。御は「馬を穏やかにならして行かせることを示す。



漢字「御」の変遷の史観

文字学上の解釈

「御」の文字の変遷 左民安《細説漢字》(漢典より)


「禦」の文字の変遷 左民安《細説漢字》(漢典より)


中国・清朝皇帝乾隆帝が自分の舟遊びために造営した船着き場皇帝の船着き場に立つ石碑「御馬頭」
「御」の使い方は日本と全く同じ

まとめ

  

 字統では「御」は形声文字と説明をしているが、会意文字ではないかという説もある。唐漢氏も視点は異なるが、やはり「祭祀」であるとしている。

  


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