盾は実用もさることながら、その表面に美しい図案を施したビジュアル的要素の多い兵器になっている。
中国や西洋ではこの盾が兵器の中で重要な位置づけを占めているにもかかわらず、日本では私の見る限り盾という兵器があまり表立ったものにはなっていないように思う。なぜだろうか。
そこには日本と中国や西洋とでは戦闘のあり方が異なっているのではないだろうかと思う。何か決定的違いがそこにはあるような気がする。この違いを明らかにすると、日本と諸外国の気質の違いが見えてくるのではないだろうか。これは、後日の検討課題である。
引用 「汉字密码」(P585, 唐汉,学林出版社)
盾は本来象形文字である。甲骨文字の盾の字は上古の盾牌のデッサンである。金文中の第1款の盾の字は甲骨文字の延長である。第2款の盾の字はもう一度改めて焼きなおしたものだ。上下の構造の会意文字で上辺は人形、下辺は台の形の盾牌を表し、盾牌を持って対人体的防護を表している。
小篆はその過程の中で生じた変化で、盾牌の形象は目で表した。《説文釈疑》曰く、目は盾の用途を示し、形と意味が兼ね備わって文字になったものだ。
三千年来、兵器の中の「矛」の進攻性と同じく、盾はビジュアル系防護器具の代表的な標本であった。最も原始的盾牌は干(盾の意味)から生まれ出て、藤木の類の材料が多用された。蒙古の周辺では獣の皮に、漆を塗ったあと凶悪なトラの絵を描いている。
青銅時代の皮の盾にはすでに青銅の鋳造の泡釘をはめ込みあるいは獣の面の盾飾りを嵌め込んでいる。両周(東周、西周)の時期には盾と矛は兵士の作戦的な兵器になった。暫時戈は取って代わり、大量の装備の兵器になった。ただし盾と干の間には形成上の承継性がある。戈と矛の間の承継性はわずかだが受け継いでいる。よって青銅器の銘文中には片手には戈を持ち、もう一方には盾を持っているデッサンがある。矛盾が一緒に書かれた図もある。
商周の時期の埋葬墓にまた、常に戈と盾は同時に埋葬している現象がある。
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