2012年6月30日土曜日

明日から7月、「七」の語源と由来は如何に

明日から7月

    七の語源と由来は、手まね語から来る象形文字


 7は6と8の間の整数である。甲骨文の7の字もまた手まね語から来るデッサン絵である。三つの指を曲げて、人差し指を前に伸ばし、親指を直角に伸ばした後拳を胸の前に抱える。即ち横長縦短の十の字である。  金文の七の字は甲骨文を受け継ぎ横に長く書き、人差し指と手の肘で直線を作る。縦は短く書き、或いは親指と手の背で縦線を形成する。小篆は美観の為丸く潤いを持たせ、十と区別する。縦の線画を曲げて伸ばし、楷書は隷書から変化する過程で七となった。

 日本では子供たちが戦争ごっこをする時手でピストルの格好をつけ、「バンバン」とやっていたが、ちょうどあのピストルの形がここで言う「七」である。数字の七は両手を使う。中国では10までは片手で表現できる。とすれば、日本でよく言う「いくらだ?」「片手だ」という表現はないことになる。

七の本義は

 七の本義は、『流血 七上八落(顔中血だらけで、七転八倒)などの様に数字の七である。また序数に使い第7番目を表す。白居易の如く「77日長生き、夜半人なく独り言」。

領収書などでは
 7の大書は「柒」または「漆」と書く、漆の字は異体字で、「柒」は漆の木をさす。または漆の木の汁を指す。「柒」は音の仮借で、七の大書の時にもっぱら用いる。


辞書で「七」と「八」の付く成語・慣用句

辞書で「七」と「八」の付く成語・慣用句を調べると、12個ほど見つかったが、不思議なことに全て後ろ向きの意味の言葉ばかりであった。思わず「何でやねん。」 民族性の違いか? 因みに一つの例として上げてみた。日本の「七転八起」の様な前向きの言葉はないのだろうか?しかし、ここはあまり難しく考えないで、言葉の雰囲気を楽しんで戴きたい。
  • 七病八痛  
  • 七长八短  
  • 七搭八搭  
  • 七颠八倒  
  • 七零八落  
  • 七扭八歪  
  • 七拼八凑  
  • 七七八八  
  • 七上八下  
  • 七折八扣  
  • 七嘴八舌  
  • 七死八活  

女の節目は七の倍数、男の節目は八の倍数


なんと中国の黄帝内台経という書き物に書いてあって、今でも通用するとこがあるというんじゃ。こりゃすごーい。このサイトにぴったりの話
http://www.yomeishu.co.jp/x7x8/baisu/index.html 

「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。

2012年6月29日金曜日

漢字という呼称の由来について


 今日は甲骨文字から少し離れて、我々が普段漢字と呼んでいる文字が、どうして「漢字」と言われるようになったか、その呼称の由来について触れてみたい。
 中国のスーパーに行くと、売り出しの台の上に、まるでピーナッツでも売られているように、小さい小さい本が山と積まれている光景にぶつかる。今日はこうしてい売られていた豆本に面白いことが書かれていたので、紹介したい。因みにこの本の値段は3.9元であるから、60円ぐらいのものである。そして、この本の大きさは10cmX7.5cmX1.2cmである。値段は安いが内容はいい加減ではない。
 少し長いが以下が本の内容の趣旨である。



参考文献:「汉字」(刘永升主编,大众文艺出版社)より
 我々は、楔形文字はその形が楔形であるからその名前が付いたことは分かっている。ならどうして漢字と呼ばれるようになったのだろう。だが、「漢」という字からその真相が分かるに違いない。
 漢の左辺はサンズイである。早くから金文、小篆は楷書に至るまでずっと変化してきたが、漢という、形符は終始変化していない。明らかに、「漢」は水と密接な関係がある。確実に言えることは、漢の字と「漢水」と呼ばれる川と関係があるということである。「漢水」は長江の最長の支流の一つであり、漢江とも呼ばれる。それは、西南部に端を発し秦嶺と大巴山の間の漢中盆地を通り、しかる後湖北に入る。武漢付近で長江に流入する。漢水の全長3000km。
 戦国時代は、漢水流域は秦と楚の両国に分かれ、人々は通常この地区を「漢中」と呼んだ。

 2000年以上前、劉邦と項羽は群雄を率いて秦を倒した。当時項羽は西楚覇王と号して、実力は強大であり、劉邦はその敵ではなく、只項羽に封を分け与えられ、漢中地区で「漢中王」となった。深謀熟慮の劉邦はこの豊かに富んだ民と守り易く攻めるに難しいへき地を根拠地とした。

 項羽と天下を争ったことは、歴史上「楚漢相争」と称せられる。最後に劉邦は「明修桟道、暗渡陳倉」の策謀を用い、項羽を打ち破り、皇帝の宝座に上り詰めた。劉邦は帝と称する後、秦嶺、漢水の地を懐かしんだ。そして漢中の滋養を想い、自己の建立した新王朝を「漢」と命名した。


 漢朝は秦朝の後を引き継ぎ、中国史上空前の繁栄した強盛の封建王朝であった。それは、集権的な厳密な官僚体制を通して、中央統治を行い、当時の世界のローマ帝国と並ぶ列強国になった。漢朝時代、中国の政治経済、軍事、文化、外交は空前の繁栄と発達を遂げ、人の和はよく通じ、四海皆臣服し、天下帰心、対周辺夷邦に対し、当漢朝後も後世まで、深遠な影響を与えた。

 将に紀元前後から400年以上も王朝は繁栄し、中華民族のはるかなる源流、深く確固とした伝統・・孔子の学説は主導国家の意識形態を開始し、礼楽教化は統治の重要な手段となり、文官制度は初期の構築を完成・・を形成した。この文明冨強にあって、大きな国家国土で、大統一的国家観念は人々の間に深く入り、ついに不可逆的な中国歴史発展の主流をなした。

 正にこの時期、漢朝人と戦った匈奴人は漢軍の士兵のことを漢子と呼んだ。面白いことに漢子とは専ら漢軍の士兵のことを指し称していたものである。そしてこれは次第に豪勇、漢朝軍隊の英勇善戦の男子の敬称の敬称となった。こうして「漢」の字は男性に拡張され、漢子の中の優秀なものを「好漢」と呼び、中国国民の間でもずっと男性の高い評価となった。漢代及び漢代以降、一部の少数民族、例えば契丹人、蒙古人辺境地区のその他の民族は往々にして中原民族を「漢人」とよぶ。これが現代の漢族と言われるゆえんである。

 この事から、夏華神州の一切の事物は皆「漢」の烙印を押されることとなった。従って、「漢」の字を構成要素とする言葉は皆漢水流域と関係があり、漢朝、漢族と何らかの関係を持っている。今日に至っても、国際上中国の文化研究の学問は「漢学」と称されている。この事からして、中国の文字は「漢字」と称されるようになったのも理にあった事情である。
「漢字考古学の道」に戻ります。