2023年11月5日日曜日

漢字・倭の読みの由来は? どうしてヤマトと呼ぶの? 


大和誕生秘話・・・日本は「倭」と呼ばれていたが、倭と同音の「和」に「大」を冠して「大和」(やまと)と呼ぶように決められた。

 以前の記事「和」に関連して、日本の呼称「ヤマト」の謂れと由来に想いを馳せる。

 古代において、日本は中国から「倭」と呼ばれていた。倭は、中国の文献に日本に関する記述は魏志倭人伝(247年)、後漢書(3世紀)、晋書(4世紀)などの文献にその名(倭)が登場する。元々は奈良盆地の東南地域は、大和(ヤマト)と呼称されていた。このヤマト地方に本拠地を置く政権(王権)のことを中国では倭と呼んだことは当然の成り行きである。このことから倭は、日本列島や国家を指す呼称であり、その範囲は、当時の日本列島の大部分を指していたと考えられている。

 初めは大和朝廷も自らのことを「倭」と書いたが、元明天皇(第43代天皇 在位:707年- 715年〉の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。これで、倭-ヤマト-大和が明確に結びついたことになる。

導入

前書き

 日本が外界に初めて紹介されるのは「漢書」(BC1世紀)の中でわずかに、倭人あり、100余国に分かれていることが紹介されている。それから約300年後「魏志倭人伝」で、AD247年のことである。この時邪馬台国・女王卑弥呼は魏の国に使者を送ったことが紹介されている。
 これらの記述から、日本は国家統合の過程にあったのではなかろうか。いずれにせよ後のヤマト朝廷のような強大な権力を持つ政権はこの当時は存在していない。
 それにしてもそこそこの権力を束ねるために、文字もない状態で、ひたすら口述による伝達に頼っていたとしたらそれはそれなりに、大変な苦労があったであろうと推察される。

目次




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漢字「倭」の今

漢字「倭」の解体新書


 
漢字「倭」の楷書で、常用漢字である。
 漢字「倭」の甲骨文字、金文は見当たらなかった。漢書・地理誌の中に「倭」についての記述、「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」が見られる。なお漢書・地理は班固の纏めた、紀元前1世紀の日本に関する正確な記録である。
倭・楷書倭・小篆


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「倭」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み   ワ、イ
  • 訓読み   やまと、したがう

意味
  • 大和
  •  
  • 大和政権
  •  
  • 日本の国

同じ部首を持つ漢字     倭、委、
漢字「倭」を持つ熟語    倭、倭国、倭人


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漢字「倭」成立ちと由来

漢字「委から倭」の発達の軌跡

 参考に倭の原字と考えられる「委」を列挙してみた。こうして並べてみると、「倭」の字がいかに生まれてきたかが良くわかる。「委」は最初は禾と女が構造的にも分かれていて、やがて「委」という字に統一される。しかる後それに人偏をつけ「倭」が生まれた。


漢字「倭」の字統の解釈

 形声 声符は委。委は稲魂を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう。

 委はもと田舞の状をいう字で、男が 稲魂を被って舞うのは年、女を委といい、委声の字はその声義を承ける。わが国の古名として古く中国の史書にみえ、〔漢書、地理志、下〕に「樂浪海中 に倭人あり。 分れて百餘國となる」、「魏略」に「倭は帶方東南の大海中に在り。山島に依りて風を爲す」「その舊語を聞くに、自ら太伯の後なりと謂ふ」などの語がある。[後漢書、光武紀]にみえる倭奴国も、その古名であろう。




漢字「倭」の漢字源の解釈

 意味 昔、中国で、日本および日本人をさしたことば。
 背が曲がってたけの低い小人の意。

「倭夷」「倭人、在 帯方、東南大海之中」「魏志倭人]「倭移」とは、なよなよしたさま。訓やまと
 会意兼形声。禾々は、しなやかに穂をたれた低い粟の姿。 委は、それに女を添え女性のなよなよした姿を示す。
倭は「人+音符委」で、しなやかでたけが低く背の曲がった小人をあらわす。


漢字「倭」から「和」への変遷の史観

文字学上の解釈

 古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。

 次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。

 奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
 奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(8月18日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
(以上 AI 「Bard]参照)

まとめ

 以上を纏めると、古墳時代に大和朝廷が権力を築くときには、すでに難波から奈良にかけて多くの人々が住み着きそれなりの都市が発展していたことは想像に難くない 。この地方を「ヤマト」と呼んでいたということである。文字がまだ使われていない時代に、「ヤマト」という発話され、それが当時の人々にどう認識されていたかというのは、大いに興味湧くところである。

補足説明

 AIによると、ヤマトの語源にはさまざまな説がある。それは下記のようなものである。

「やまと」の語源は諸説ある。

  • 山のふもと。 
  • 山に囲まれた地域であるからという説。 
  • この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説。
  •  「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説。
  •  「やまと」は元は「山跡」とする説。 
  • 邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説。
 これらの諸説はいずれも文字があることを前提とした議論であり、まだ音韻的な認識の議論に及んでいない。音が記録に残らないものである以上この議論に入り込むのは非常にむつかしいという感があるが、将来AIの技術がこの突破口を開くかもしれない。

  


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2023年11月1日水曜日

漢字「聖」の成立ちと意味するもの:人は只聞こえるレベルから聖人の話を拝聴するレベルに到達したのか?


人は如何に「きこえる」レベルから神に近いレベルの発話者の話を傾聴する「聖」にまで到達したのか

 前回、漢字「聖」が聞や聴と同じ一つの系統に属することを知り、目からうろこの感じがしたのだが、今回はその「聖」に焦点を当て、聖の成り立ちや由来に迫ってみよう。


 話変わって、11月11日はキリスト教徒では特別の日で、【万聖節】というのだそうで、そのことが毎日新聞のコラムに掲載されていたので、引用する。

 第826回 「毎日ことば」 解説

きょうが特別な日
 ばんせいせつ【万聖節】 キリスト教 で聖人たちを記念する祝祭。この場合の万 は「全ての」、節は「特別な日」との意味 です。「諸聖人の祝日」などともいい、カトリックでは11月1日。
 ハロウィーンはその前夜祭ですが、日本ではそちらが有名に。
https://salon.mainichi-kotoba.jp




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漢字「聖」の今

漢字「聖」の解体新書


漢字「聖」の楷書で、常用漢字です。
 
聖・楷書


 
 「きく」ことを表す漢字であるが、只きこえることを表す漢字「聞」から出発し、拝聴するの「聴」を経由し、神に近いレベルにまで達した人間の話にききいる「聖」までの変化をよく見ていただきたい。 
聞・甲骨文字
聴・金文
聖・小篆


 

「聖」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み   セイ、ショウ
  • 訓読み   ひじり

意味
  • 物事の筋道を立てて、偏ってなく、高潔である状態
  •  
  • 清らかな。汚(けが)れがない。美しい。濁った所がない。透き通っている (聖域)
  •  
  • 天子(国を治める最も地位の高い人)。また、天子に関する物事の上に付ける語」(例:聖断)。
  • 詩人・杜甫のことを詩聖と呼びます

異体字     琞、垩
同じ部首を持つ漢字     聞、聡、聲、職
漢字「聖」を持つ熟語    聖、聖断、聖域、聖人


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漢字「聖」成立ちと由来

引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)

唐漢氏の解釈

 甲骨文の形は、人が耳を立てて人の教えを注意深く聞いているようなもので(耳の下に「口」があります)、聞いたことをはっきりと話す、つまり「聞く」という意味とも取れます。わかりやすく、わかりやすく説明すること。 金文は甲骨文から引き継がれていますが、「耳」の下の人型がわずかに変更されています。
小篆書の形は、「耳から嘉文へ」という意味に進化しました。小篆書の全文。楷書の口は壬の音から来ています。「壬」はここでは口と耳の間を「通過する」という意味です。 そのため、楷書は「聖」と書かれ、現在は「圣」となっています。


漢字「聖」の字統の解釈

 会意 旧字は耳と王と口とに従う。耳と王とは耳 を強調した人の形。壬は呈(呈)・逞・望(望)の字の従うところで、人のつま先立ちする形。口は、サイ、祝禱を収める器である。
聖は祝稿して祈り、耳をすませて神の応答するところ、啓示するところを聴くこ とを示す字で、聽(聴)の従うところも聖と同じ。 聞の卜文も、人の上に耳をかく形である。祝祷し 神の啓示するところを聞く者はその神意にかなうものとされた。

漢字「聖」の漢字源の解釈

 会意兼形声。壬は、人が足をまっすぐのばしたさま。呈 は、それに口をそえて、まっすぐ述べる、まっすぐさし出すの意を示す。聖は「耳+音符呈」で、耳がまっすぐに通ること。わかりがよい、さといなどの意となる。



漢字「聖」の変遷の史観

文字学上の解釈

  字統の説明《聖は西周期の金文にみえ、〔班段〕「文王王の聖孫」、〔師望鼎〕「王、聖人の後を忘れず」、〔師詢段〕「乃の聖なる祖考」のように、その家系を尊んで特に聖の字を加えている。 また〔史牆盤〕「憲聖なる成王」と、その徳を讃して聖武・哲聖のようにもいう。本来は聖職者をいう 語であったものが、ひろくその徳性をいう語となり、 西周後期にはすでに多くの人に用いられる語であったらしい。(紀元前1100年頃 - 紀元前771年:筆者)
 〔詩、小雅、正月〕に「具予をば聖なりと謂ふも誰か鳥の雌雄を知らんや」の句がある。 人はみな、自ら聖と称してはばからなかったのであろう。》

 といっても始皇帝の中国統一に先立つこと500年まさに戦国時代の真っただ中、群雄が覇を争っていた時代である。群雄の覇者は自らのアイデンティティーを求めて苦労していたが、その一つに軍事的な力以外に拠り所の一つとなった概念であったのかもしれない。

 そしてついにこの概念を哲学的な体系の中に組み込んだのが孔子であった。ここまで考えると漢字「聖」という言葉一つにしても、それなりの歴史的背景を担っていたのだという感慨を受ける。


まとめ

 ただきこえることを表す漢字「聞」から出発し、拝聴するの「聴」を経由し、神に近いレベルにまで達した人間の話にききいる「聖」まで後付けてきた。聞くという行為だけでも、発話者の権威を高めることの背景に社会の階級分化が事が伺える。この間、約1000年の時間的経過を経ている。文字の変化が歴史的時間経過に必ずしも同期するものではないが、おおざっぱな歴史的経過をたどるには役に立つのかも知れない。
  


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