2012年5月25日金曜日

孔子は野合の子というコンプレックスに苛まれていた?: 「野」の起源と由来

昔学生運動の渦中にあった時、セクト同士が自らの主義・主張を置き去りにして、当面の利害で結びつくような行動をとった時、「野合するな」と怒鳴ったものだ。その時は、何も考えずに使っていたが、今思うと随分下品なことを言っていたものだ。英語で言うと「Fuck you!」と変わりがないのだから。



「野」の原義は樹林の中で行われるセックス  
「野」は樹林の中で正式な儀式もなく行われる
性交為をさし、古代には下劣なものとみなされた
   「野」:甲骨文字の野の字は林の中に一個の「士」がある。会意文字である。士は成年男子の生殖器で林は野外の樹林を指す。この事から野の字の本義は野合である。即ち男子が荒れた林の中でセックスを敢行することである。 

殷商の時代は性行為は神聖なものであった
 殷商の時期、男女の間の性行為は一種の集団活動で、かならず祭祀をして、飲食など交歓が進行される。夜の帳が下りると氏族の成年男子は氏族の間の相互に固定的な伴侶を伴い関係する氏族の住居地に行き、その女性と同じ祭祀神祇や祖先に祈る。それから既に祭祀を通して祖先の神霊の酒肉お供え品を食べ、その中で伴侶と一緒に歌舞音曲を楽しみ最後に男女の性交で、次の交歓が可能になるのである。

 
「野」で行うセックス(野合)は下劣と思われていた。
 野は一人の男子が荒野の林の中で行う私的なセックスで、当時の先民の歯牙にもかけないものなのだ。だから野には卑劣とか下劣という意味がある。
 史書には孔子は父母の野合の末生れていていると書かれている。ここでの野合は荒れた樹林の中の性交のことであり、婚約のない関係のいい加減な行為あると思われた。 

生活様式の変化はセックスの形態にも変化を与える
古文の野の字は将に「士」の字は「土」に変化している。字を使って意味を明晰にし、また一個の「予」を加えている。「予」の字の上部は▽で下部は上矢印で、性行為を表す。小篆の野は即ち「里と予」を用いた会意で、セックスの場所が荒れた林から田んぼと土に変わっている。大体農耕文明が進行した後、村の周りの高粱畑が荒れた林に取って代わり、ついに自分の家の作物畑の中でセックスせざるを得なくなったことと関係をしている。

「野」という文字の使われ方
「野」は郊外を指す時はこの本義からの延長である。「牧」の字の本義が牛や羊の放牧あったのが拡張されたと同じである。《尔雅》は「村の外は郊という、郊外は牧という。牧の外は野という。しかしこれは等しく城邑の中心に源を発し、放牧と野合は地理的な位置関係を言っている。《乐府诗集》のなかで有名な歌は、天蒼、蒼、野茫々、風草を吹き牛や羊が見える。ここの「野」は広野を指す。 


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2012年5月22日火曜日

漢字の起源と由来:悠久の昔から受け継がれた姓「羌」


「中国・蜀と雲南のみち」を辿る
 このところ司馬遼太郎さんに嵌っている。その彼の「街道をゆく20」の「中国・蜀と雲南のみち」は彼が昭和56年に成都から雲南へと辿った道の少し古い紀行文である。
 私も先日北京から成都に入り、四川を遡り九賽溝をめぐった後、三峡を少し下って来た。もっとも私の場合は完全な観光旅行であり、司馬さんのいわば取材旅行とは趣をずいぶん異にするも、もう少し自分の足跡をトレースし直すのも悪くないと考えている。

「羌」と「姜」
 それはさておき、彼の「街道をゆく」の中で、少数民族のチャン族のことが触れられていた。そこでこのチャン族のチャンという漢字に焦点を当ててみたい。  このチャンという漢字はピンインでqiangと表現するが漢字では「羌」と書く。もう一つ「姜」という字があり、まったく同じ字形をしており、原義も殆ど同じである。ただ羌は男のチャン族であり、姜は女のチャン族を表しているという。 そしてこの姜という字は上古の氏姓制度の名残りとして今日の「姓」に受け継がれている。

チャン族の人々
 現代ではチャン族の人々は、人口30万人と言われ、青海、チベット、雲南の各地に分布し、少数民族としての文化大切に(頑固に)守りながら生活している。司馬氏は「街道をゆく」の中で、このチャン族は殷周帝国の祖先ではないかと推察している。周族の女性にこの姜を名乗る人も多かったというのも司馬氏の推察の根拠になっていたのかもしれない。


 羌、姜jiang共に羊に関係する特殊な字である。この2個の字は全て一つの古くて且つ多難な民族に関係している。彼らの世代は牧羊で、羊で自己のトーテム崇拝をしている。彼らの宗教はアミニズムをである。そしてそれは生活様式と融合し今日まで受け継がれている。

 羌は甲骨文字では羊と直立した人の合成字であらわされる。字形の構造からみると、十分人が羊の首を飾ったように見える。さらにこの事は牧畜の生活様式と密接に関係している。
殷商の甲骨卜辞中、非常にむごいことだが、多くの羌人を生き埋め、叩き切り、焼き払い、手足をバラバラにした後に祭祀品に当てたという記載がある。



羌人の彷徨
 羌人は元々古代の中国の西部(今の山西省、陕西省一帯)の遊牧生活をする部族を指していたが、北方の遊牧民族も含まれるようになった。羌人は祖先から遊牧業を守り抜いてきたし、漢族と結婚もし、混血して生きてきた。但し中原の漢族の不断の征伐と凌辱を受け、次第にはるか西北部に追いやられてきた。漢代の時人々は西羌と呼び、北宋時代には突厥と呼称し、或いは唐の時代にはトルファンと呼んだ。後日、青海とチベットの少数民族に融合している。


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