2012年5月14日月曜日

白川文字学と唐漢説の分かれる所

唐漢氏と白川博士
 私がここで紹介している唐漢さんの甲骨文字に関する説は、おそらく中国の中でも亜流の説であり、本流とは認められていないようだ。事実彼の著書の表紙には「奇説」という言葉すら記載されている。

 一方白川博士はわが国を代表する推しも推されぬ漢字学の権威の一人である。

白川静さんの漢字学の中心をなす文字
 白川静さんの漢字学の大きな中心をなす概念(サイ)に関連した文字だ。白川文字学の大きな功績のまず第一に挙げられるのが、「口」が「くち」ではなく、神への祝祷の祝詞を入れる器「サイという名の器」であることを体系的に明らかにしたことだということだ。(小山鉄郎著 「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」より)


 そして、「口」の字形が含まれる漢字は非常にたくさんあるが、古代文字には、「耳口」の意味で構成される文字は一つもないという。


 しかし、ここで疑問がでてくる。「耳」、「鼻」、「目」、「首」、「手」、「脚」等身体の部位を示す字形が含まれる漢字は古代文字には沢山あるにもかかわらず、なぜ「口」の意味で構成される記号「口」が一つもないのだろうか。

 また白川先生によると基本的に甲骨文字は時の王が自らの宣旨や命令を記録するために生まれたのであり、王の宣旨は卜辞や占いの形をとって為されることが多いため、必然的に甲骨文字は宗教色や卜辞の色彩が色濃く反映されたものだとのことである。

 話は変わるが、つい先日司馬遼太郎氏と陳舜臣氏の対談の文庫本を読んだが、その中に面白い話を見つけた。それは「跪」という漢字に話が及んだとき、当時はまだ褌というものがなく、男もすその割れるような服を着ていたので、跪く時には一物がもろに見えて大変「危険である」ことから足偏に「危ない」と書いて「跪く」としたのではないかということで、少し話が盛り上がっていた。跪くのは別に男に限らないし、多少は話を面白おかしくしているところもあるかも知れないが、この両大作家の解釈はまさしく唐漢氏と発想は同じくするものであり、独断ではないのだと意を強くした。ちなみに唐漢さんの本の中には、「跪」という漢字に関する記述はない。というのは、この漢字は甲骨、金文の時代にはまだこの世にはなかったからである。

 漢字というものは、漢字の構成および構造だけからは捉えられない奥深いものを持っているとを痛感させられた話である。


 白川氏自身が漢字学から入った学者ではなく、考古学から入った学者だと誰かが少し難癖のようなのものをつけていた人もいたが、入り口は何処であろうと、彼は大学者である。しかし問題はそんなところにあるのではなく、その人が科学の立場に立っているか、観念論かどうかが分かれ目のような感じがする。すこし大上段(大冗談??)過ぎるかなあ。

 私のような人間がこのような口幅ったいことを言うのはあまりにあつかましいと非難が聞こえてきそうであるし、私自身もそんな感じを持っている。浅学のそしりは、甘んじて受けねばならないだろう。


「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。

2012年5月10日木曜日

漢字の成り立ちの意味するもの:漢字「乳」の起源:実に微笑ましい 子供に乳を与える様そのまんま!

漢字の成り立ちの意味するもの:子供に乳を与える様そのまんま!古代人の発想の豊かさと見た儘を表現する素直さ

 この甲骨文字を見て思わず笑ってしまった。「こりゃ、まんまじゃ!」。象形文字ではないか。あえて言えば、情景文字とでも言えようか。たしかに厳密には象形文字とは言えないかも知れない。

 しかしよくできた漢字だなとつくづく感心する。「孕」もすばらしかったがこれも素晴らしい。

乳房を出して子供に母乳を与える。
誰も異存のない描写ではかなろうか
  「乳」これは会意文字である。甲骨文字の「乳」は一人の母親が胸の前に乳頭を出し、両腕で子供におっぱいを吸わせている情景の様である。この為「乳」の本義は乳を与えることである。即ちおっぱいで子供を養うことである。
  小篆の「乳」は字形が調整され、両腕が手に変化している。母親の形状は乳房を表す形になっている。但し乳を与えるという本義に変化はない。楷書の「乳」は小篆の隷書化から来ている。

 「乳」字は哺乳の意味から引き出され乳汁と乳房の両方の意味が出てきた。母乳、練乳は共に乳汁を指す。「胸をはだけて乳を出す」の「乳」は乳房の意味である。又この拡張は乳汁も乳房と同じようなものを指すのに用いられる。乳濁液、鍾乳石などである。また哺乳の対象から引き出され、生れたて、幼少のものを指すこともある。 乳鶏(ひよこ)などという。


「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。