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2023年10月30日月曜日

日本人のDNAまでなった「和」の精神! 漢字「和」の成立ちと由来は如何に


漢字「和」の成立ちと由来は? 漢字「和」の地政学に迫る!





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漢字「和」の今

漢字「和」の解体新書


漢字「和」の楷書で、常用漢字です。
 「和を以て貴しとなす」は聖徳太子が十七条の憲法に書き込んだものですが、元々の原典は「礼記―儒行」であるということです。
 この言葉は、良くも悪くも日本人の精神的を背骨なすものとなっているといえましょう。
 今や「和の精神」は日本人のDNAとなったといっても決して言い過ぎではないでしょう。

 その理由は地政学的に言っても、日本の立ち位置がこの言葉で最もよく言い表されていると考えるからです。

 しかし、ここでは「和」という言葉の起源について、その大本から迫りたいと思います。
和・楷書


  
 甲骨文字に「和」は見当たりません。あるのは「禾」と「口」(口もしくはサイ)だけです。すなわち甲骨文字の時代にはこの二つの文字はまだ「会意」をしていなかった。白川博士の説によると、「禾」は軍門に立てる標識で、和議を行い、サイに誓いの文書を入れることからこの二つの文字が、生まれたということである。  
和・金文
和・小篆



 

「和」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み  サイ
  • 訓読み  やわらぐ、なごむ

意味
  • やわらいだ様
  •  
  • なごやか
  •  
  • 分けないで、個々のものを取り立てる

同じ部首を持つ漢字     和、私、秀、秤
漢字「和」を持つ熟語    和、和解、和議、平和


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漢字「和」成立ちと由来

  金文と小篆を提示する。金文と小篆はほ変化はない。ということは、この二つの文字は並行して用いられたか、極めて近接した時間に用いられたかの推察される。あくまで筆者の独断と偏見で偏見かも知れないが・・・。  





漢字「和」の字統の解釈

 会意 禾と口とに従う。 禾は軍門に立てる標識で、 左右両禾は軍門の象。 口はサイ、祝禱を収める器で、 この字においては軍門で盟誓し、和議を行なう意である。
 和の訓義は甚だ多く、字書に三十数義を列するが、みな軍門和議の義からの引伸の義である。
 [中庸]に 「發して節に中る、これを和といふ。和なるものは、 天下の達道なり」とあって、和は最高の徳行を示す語とされている。


ここで、このブログの筆者から字統に対して「禾」がなぜ軍門に立てる標識となり得たのかという疑問が湧いてくる。

漢字「和」の漢字源の解釈

     会意兼形声。禾は栗の穂のまるくしなやかにたれたさ まを描いた象形 文字。窩 (まるい穴)とも縁が近く、かどだたない意を含む。和は 音符。



漢字「和」の変遷の史観

漢字「和」の地政学

漢字「和」の地政学
 「和」という概念は、中国で生まれ、中国と日本で育まれてきた。とりわけ日本では、日本人の精神的構造の基幹をなしているものと考えられている。このことだけで日本の精神構造を云々することはできないが、日本人を考えるときに避けて通ることはできない。

 「和」の精神が日本人の精神構造の基幹を成すに至った要因に日本の地政学的な考察が加えられるべきと考える。

  1.  まず中国にしろ日本にしろ極東にあるということである。中国の方はかなり大きくむしろアジアのかなり大きな部分を占めているので、極東ということに関して言えば日本が該当する。極東という言葉は、当然のことながら地理的な面で、中心にいないということと同義語である。 
  2. 地理の中心にいないということは別の面から言えば、文化の中心にいることが難しくなるということにもつながる。このことは別の面から言えば、他からの干渉をそれほど大きく受け難いということでもある。 
  3. 第三に日本は島国である。しかもイギリスなどと違って大陸との間は泳いで渡れるような距離にはない。大陸から日本にわたるには、それなりに大きな船と航海術が必要である。かの蒙古が日本に大艦隊を率いて侵入を試みたにもかかわらず失敗に終わった。 
  4. 第四に小国といえども日本はそれなりに大きな面積を擁しており、そこそこの人口を養うだけのキャパシティを持っている。 
  5. さらに日本は気候が比較的温暖で、食料を求めて外部に進出しなければならないほどではなかった。


  6. 以上のことから日本は他国からあるいは多民族が食指を動かすほどの存在にはならなかった。日本とほぼ同等の面積を有する朝鮮半島は陸続きであるために、中国から恩恵はうけることができると同時に、絶えず中国の脅威に晒され続けできた。
      また中東で言えばトルコは西洋と東洋の間に位置し、文化的交流の中心になったと共に、他民族の攻撃の的となったことも多い。その反面、オスマントルコとして一時は世界地図を塗り替えるほどの勢力を持った事もある。

     これから考えると日本は他の民族のあるいは他の国の侵略を受けることもさほどなく、外部に出て行って食料を確保するしなければならない状態でもなかった。外に出て行くには目の前に横たわる海を越えるだけの大きな困難を克服しなければならなかった。
     以上のことから考えて、日本人は必然的に外部に向かうよりも、内部に向かう思考に偏っていったのではなかろうか。このことは良い悪いの問題ではなく、日本人の精神構造の背骨をなすものと考える。ここで聖徳太子の唱えた「和を以て貴しとなす」という概念は大きな意味を持つ。
     中で内部で、互いに喧嘩することなく仲良く和やかにいることを大切にするという思想は、日本人のあり方にぴったりと嵌ったのではないだろうか。
     このことは日本人が自己主張をしないという性癖も善悪ではなしに日本人というものはそのようなものだと受け入れられたであろう。  聖徳太子以来、江戸末期の黒船に至るまで、日本に居住する民族はこの地位に甘んじることができた。

     しかし黒船以来、他国との交流が活発となり、人々は世界中を行き来するようになって、日本人も日本の小さな国土の中に甘んじることはできなくなった。日本人の精神的構造と日本人自身の在り方の矛盾に晒されているのが現在の日本であると考える。

    まとめ

      近年、世界で起こった出来事に対し、とかく日本人の対応が云々されることが多くなった。これは今日のように国境が低く、人びとや経済の流れが活発になった点からいえば、ごく自然な成り行きである。
     この流れに追い打ちをかけるように、インターネットなどに代表される情報の大洪水が押し寄せてきて、日本もご多分に漏れず吞み込まれつつあるように思う。
     現代は昔と違って国境がなくなり、他の国で起こったことはたちどころに日本にも激震となって及んでくる時代だ。前のように海を隔てた遠いく国で起こったことと泰然と構えておられる時代ではない。ウクライナの問題も、ヨルダンの問題も我々の問題として響いてくる。
     この状況の中で、日本人というより、人間として自分のアイデンティティーをどう保つことができるのか一人一人が問われている
      

     こういった時代にあってもなお、「和を以て貴しとなす」とすべきか、あるいは「我を以って貴しとなす」とすべきか、最後は結局、国民一人一人の旗幟を鮮明にすることが求められている。
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