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2012年6月18日月曜日

「ますらおぶり」と「たおやめぶり」の起源


日本人と日本文化

 最近、司馬遼太郎に嵌っていることは書いたが、今読んでいるドナルド・キーンさんと司馬遼太郎の対談本「日本人と日本文化」(中公文庫)は実に面白い。その中で二人が日本人の「ますらおぶり」と「たおやめぶり」について語っている。


たおやめぶり

 司馬さんは、日本人の気質のベースには「たおやめぶり」があると主張している。このたおやめぶりを漢字で書くと手弱女振りということになるらしいが、字面から言うといかにも軟弱な感じが伝わってくる。そのまま、言い換えると軟弱、優柔不断、内省的などとなるが、彼がいわんとしていることは、決して卑下して言っているのではなく、むしろ優れた気質であるといっている。 一方、「ますらおぶり」とは、剛直、合理的、決断が早い、男性的となると思うが、何か正しいことを守りぬくという点で、「ますらおぶり」の人はくるっとどこかに転換してしまっているのに、「たおやめぶり」の人は頑固であるといっている。いい悪いはべつとして、これは民族の方向を決定する上できわめて重要である。

民族の言語、気質と気候

 わたしもかつて中国に居る友人と討論したことがあったが、日本語そのものが実に女性的ではないかと感じている。そしてその言語、民族の気質を作り上げたものこそ「気候」だろうということで、意見が一致した。日本の気候は実に女性的だ。細やかで、繊細でしかもしたたかである。気候がしたたかというと変に聞こえるかもしれないが、要はしぶといのである。変化するにもなかなか変化しない。その点中国の気候は大陸性気候で実に男性的つまり「ますらお的」である。実に単純で、はっきりしている。これはシンガポールでも、南太平洋でもそうであった。シンガポールや南太平洋の初頭の気候は海洋性気候で穏やかであり、中国のそれとは異にするが、それでも、なお男性的である。雨の降り方でも日照のあり方でも、降るとなると土砂降り、わずか2、30分も降ればぴたりとやんで、ぎらつく太陽が顔を出す。最近では日本でもゲリラ豪雨と呼ばれる現象がでているが、日本の場合そう簡単には降ったり止んだりしてくれない。

 因みに中国語には「ますらおぶり」とか「たおやめぶり」という語彙も当然の如く存在しない。ますらおで辞書を引くと「男子漢」「大丈夫」「好漢」という約が見つかった。また「たおやか」に対しては「優美」「閑雅」という言葉が見つかったが、いずれにしても日本語のこの語彙とはかなりの開きがある。 

日本の男性作家と女性作家

 日本の文学史上、基本的にはたおやめぶりで、万葉集、芭蕉、明治初期など時代・時代の変わり目の時に「ますらおぶり」の文学が現れるが、すぐにもとの「たおやめぶり」に戻ってしまう。

 したがって、日本の文学には「私小説」的なものが多いのである。私の勝手な心証であるが、この私小説的なものを書く作家に、意外と男性が多く、逆に女性作家の方に、ますらお的なスケールの作品を書く人が多いのではないかと感じている。長い間虐げられてきた女性は自ずと目線が下からの、社会の仕組みそのものに向けるようになっているが、男性の場合、甘やかされて育っているのか、どうしても自分中心の目線つまり「俺が俺が」の目線になってしまっているのではないだろうか。この議論少し乱暴かもしれない。

 私の尊敬する作家は、山崎豊子さんである。


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2010年7月3日土曜日

幸と不幸のはざ間で Part II


不幸の象徴を表す「幸」は本当に「幸」なのか

 前回、甲骨文字の解釈では、幸の本義は「手枷、足枷を示している。いわば古代社会で捕虜や奴隷をつなぎ止める一種の刑具であった」と説明した。そして、不幸の象徴を表す「幸」が、「殺されずに幸いにも命を取り留めて生きていることは実際一種の幸運なことである」を表しているという解釈を聞いて、一種の感動すら覚えた。

 これは老子が「禍兮福之所倚、福兮禍之所伏」(禍、福の寄る所、福、禍の伏するところ)という言葉に受け継ぎ発展させた思想ではないのか。老子は春秋時代の人といわれている。紀元前500年前後の人である。そしてそれとほぼ同様の時期にギリシャでヘラクレイトスが「万物は流転する」という弁証法的思想を説いている。

 甲骨文字ができたのは、老子やヘラクレイトスより1000年も前のことである。東洋哲学恐るべし。

 中国人はこのような太古の昔から、このような考え方をしていたのかと改めて感心をしている。この思想はどこか現状を達観した、ある意味では突き放した物事の捉え方、そのくせ決して現状を肯定しない考え方をしているように思う。

 日本人ならどのように捉えるだろうか。果たして「手かせ足かせを幸い」と認識できるだろうか。日本人は諦観の上に立った「現状肯定」に早々と行ってしまうような気がする。

 この考え方の違いは一体どこから出てくるのだろう。これを探ることは永遠のテーマのような気がする。


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