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2025年9月20日土曜日

孔子の出自の謎:漢字考古学で読み解く司馬遷のカミングアウト「野合」の謎

孔子の出自の謎:漢字考古学で読み解く司馬遷のカミングアウト「野合」の謎


孔子を心から敬愛する司馬遷が何ゆえに孔子の出自の秘密を暴露したのか?
司馬遷は、孔子の出生が当時の社会規範から見て特殊であったこと、そしてこの特殊な出自が、後に孔子が「礼」の復興を生涯の目標としたことの思想的源泉となったからだと指摘したのではないだろうか。

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導入

このページから分かること
このページは「漢字考古学の道」の「孔子は野合の子というコンプレックスに苛まれていた?: 「野」の起源と由来」を全面的に加筆修正したものです。
 前作をもう一度深く自省した結果、孔子という大思想家に対しあまりに失礼な捉え方をしていたと深く反省し、前作は全面的に撤回をさせて頂くものです。その上で改めて今回の作品を提示させていただくものとします。

前書き

孔子像
孔子像
 「孔子は野合の子というコンプレックスに苛まれていた?」という視点は、孔子の生涯と思想の核心に迫ろうとするものでした。孔子の出生という個人的な背景が、彼の壮大な思想体系とどのように結びついているのかを問うこのテーマは、多くの読者の知的好奇心を刺激するでしょう。

 しかし、その論調は「民俗的」な解釈に傾きがちであり、より厳密な「歴史学的な」根拠に基づいた再構築が求められるべきだという反省の上に立って、点検を行うものとした。

 本レポートでは、自らの反省にてらして、単なる表面的なSEO対策に留まらず、歴史学、文献学、そして漢字学という複数の専門分野からかなり深い洞察を試みた。既存の俗説や民俗的な解釈を検証し、古代中国の文献と社会制度に立ち返り、さらに当時の社会的混乱を考慮に入れることで、「野合」という言葉が持つ真の歴史的意味を明らかにします。これにより、孔子の出自を「コンプレックス」という現代的な視点からではなく、彼自身が置かれた宿命を彼の思想形成にとって不可欠な「原体験」として捉え直す新たな論考を構築します。

 本稿の目的は、論理的かつ説得力のある知の道筋を提示することにあります。まず第1部では、当時の国家的混乱を細かく見直すと同時に、古代史料の精密な読解を通じて「野合」の歴史的意味を再定義します。次に第2部では、「野」という漢字が持つ文化的・思想的意味の変遷を辿り、「漢字考古学」のテーマに深く踏み込みます。最後に第3部では、彼の生い立ちと立ち位置が、彼の思想的哲学的体系の形成にどのように影響を与えたかを探ります。





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漢字「野」の今

漢字「野」の成立ちの解明


漢字「野」の楷書で、常用漢字です。
 右の字は漢字「野」の古文です。この字の上辺の真ん中の記号は、一説では、セックスを表すといいますが、これは俗説で、単なる音符で「予」を表すというのが漢字学の定説のようです
野・楷書野・古文




 

「野」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み:ヤ  
  • 訓読み :の  

意味
  • 野原(耕作なしていない手付かずの土地)
  •  

  •  
  • 民間

同じ部首を持つ漢字     埜、埋、里、厘、狸狸
漢字「野」を持つ熟語    野、野合、野球、野原、


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第1章 漢字「野」成立ちと由来

引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)

漢字・野の5款
漢字・野の5款

漢字の主たる説明(漢字「野」の字統の解釈)

 形声 声符は予。〔説文〕一三下に「郊外なり」とあり、重文として埜に予を加えた字形を録する。〔玉篇〕に埜に作る字である。

 ト文に埜の字がみえるが、用義例に明らかでないところがある。〔大克鼎〕に地名として埜の字がある。里を田と土(社) に従うて田社の義の字とすれば、埜は叢林の社の義となる。これに対して野は予声の形声字である。都城に対して田野といい、野鄙・樸野の義がある。

 豺狼の子は、山野の心を忘れず、これを飼養してもその本性たる野心を失うことがないので、人の非望を抱くものを野心という。
 朝廷貴紳に対して、民間にあるものを在野、官を辞して民間に帰ることを下野という。
野にまた土をつけての字に用いるのは、以後のことで、そのころから山荘の経営が行なわれた。


唐漢氏の解釈

殷商の時代は性行為は神聖なものであった。
 殷商の時期、男女の間の性行為は一種の集団活動で、かならず祭祀をして、飲食など交歓が進行される。

 夜の帳が下りると氏族の成年男子は氏族の間の相互に固定的な伴侶を伴い関係する氏族の住居地に行き、その女性と同じ祭祀神祇や祖先に祈る。それから既に祭祀を通して祖先の神霊の酒肉お供え品を食べ、その中で伴侶と一緒に歌舞音曲を楽しみ最後に男女の性交で、次の交歓が可能になるのである。

 「野」:甲骨文字の野の字は林の中に一個の「士」がある。会意文字である。士は成年男子の生殖器で林は野外の樹林を指す。この事から野の字の本義は野合である。即ち男子が荒れた林の中でセックスを敢行することである。  殷商の時代は性行為は神聖なものであった  殷商の時期、男女の間の性行為は一種の集団活動で、かならず祭祀をして、飲食など交歓が進行される。夜の帳が下りると氏族の成年男子は氏族の間の相互に固定的な伴侶を伴い関係する氏族の住居地に行き、その女性と同じ祭祀神祇や祖先に祈る。それから既に祭祀を通して祖先の神霊の酒肉お供え品を食べ、その中で伴侶と一緒に歌舞音曲を楽しみ最後に男女の性交で、次の交歓が可能になるのである。



「野」で行うセックス(野合)は下劣と思われていた。 「孔子は野合の子」というコンプレックスに生涯さいなまれていた?  野は一人の男子が荒野の林の中で行う私的なセックスで、当時の先民の歯牙にもかけないものなのだ。だから野には卑劣とか下劣という意味がある。  史書には孔子は父母の野合の末生れていていると書かれている。ここでの野合は荒れた樹林の中の性交のことであり、婚約のない関係のいい加減な行為あると思われた。  生活様式の変化はセックスの形態にも変化を与える 古文の野の字は将に「士」の字は「土」に変化している。字を使って意味を明晰にし、また一個の「予」を加えている。「予」の字の上部は▽で下部は上矢印で、性行為を表す。小篆の野は即ち「里と予」を用いた会意で、セックスの場所が荒れた林から田んぼと土に変わっている。大体農耕文明が進行した後、村の周りの高粱畑が荒れた林に取って代わり、ついに自分の家の作物畑の中でセックスせざるを得なくなったことと関係をしている。 「野」という文字の使われ方 「野」は郊外を指す時はこの本義からの延長である。「牧」の字の本義が牛や羊の放牧あったのが拡張されたと同じである。《尔雅》は「村の外は郊という、郊外は牧という。牧の外は野という。しかしこれは等しく城邑の中心に源を発し、放牧と野合は地理的な位置関係を言っている。《乐府诗集》のなかで有名な歌は、天蒼、蒼、野茫々、風草を吹き牛や羊が見える。ここの「野」は広野を指す。 


漢字「野」の漢字源の解釈

 会意兼形声。 予は□印のものを横に引きずらした様を示し、伸びる意を含む。野は「里+音符予」で、横に伸びた広い田畑、野原のこと。

 これらの字源研究は、漢字「野」が、単に村の郊外という地理的な意味を持つだけでなく、より広大な、未開の、人里離れた空間を指す言葉であったことを示しています。この原義が、その後の意味の変遷の土台となりました。


「野」が持つ多義的な広がり

 「野」の原義は「郊外・田野」という物理的空間でした 。しかし、古代中国において、都市(都)は「礼」や「秩序」といった社会規範の中心であり、その外部にある「野」は、次第に異なる意味を帯びるようになります。

  • 社会的意味: 「朝廷に仕えない」「民間にあること」を意味する「在野」という言葉にその意味が凝縮されています 。これは、公式な社会秩序の枠外にある状態、すなわち官僚機構に属さない立場を指します。

  • 文化的・思想的意味: さらに「野」は「礼儀を知らない」「洗練されていない」「粗野」といった文化的な意味を持つようになりました 。孔子の言葉を収めた『論語』にも「質勝文則野」(質朴さが外面的な飾りを凌駕すると粗野になる)という言葉が記されています 。これは、単なる地理的空間ではなく、精神的な未開性や、周の「礼」に則らない非礼な状態を指す典型的な用例です。

     「野合」という言葉は、上記の複数の意味が重層的に絡み合って形成されたと考えられます。すなわち、それは単に「野外で行う婚姻」という字義通りの意味だけでなく、「周の礼という社会規範の枠外で行われる婚姻」、そして「非礼で秩序を欠いた婚姻」という、より深い文化的・倫理的な意味合いを内包しているのです。この深い文化的文脈こそが、孔子の「野合」を巡る議論の核心に他なりません。

Chap2 第2章:春秋戦国時代とはどの様な時代だったのか

中華 春秋時代中原地図
 中華 春秋時代中原地図
新石器時代が終わるころ、中国の黄河の流域に伝説の夏王朝が出現、それを引き継いだ殷王朝を滅ぼして紀元前1000年ごろ成立した周王朝の初期の時代(紀元前1046年頃~紀元前771年頃)です。武王によって建国され、鎬京(こうけい)を都としたこの王朝では、親族などを諸侯に封じる「封建制」が敷かれ、宗法が重んじられました。しかし、紀元前771年に犬戎の侵攻により都が陥落し、幽王が殺されたことで西周は滅亡し、王室は東へ都を移して東周時代に入ります。
春秋時代はBC770年からBC453年を指す: 春秋時代に140余りの国が割拠して、なぜ覇を争ったかがよく分かる。周の封建制のお陰で、農民は土地に定着し、農業技術が進歩すると、人々の暮らしが豊かになり、国力も増大する。君主は、より多くの農地と農民を求めて、戦いを繰り返す。

戦国時代はBC453年からBC221年の秦の始皇帝による国家統一までをいう。BC453年には韓・魏・趙(三晋)が晋を三分した三家分晋したことにより、一気に群雄割拠の時代に突入すると同時に、この時代に達成された製鉄技術の進歩は、武器の長足の進歩と共に、農業技術や農器具にも目覚しい発展を促し、農業生産も大きく発展をした。これはこの時代では産業革命と呼ぶべきものかもしれない。

 このように周王朝の安定した治世のおかげで、農業は急速に発展し、人口も急速に増加しました。漢民族という民族集団が力を増し、中原地方で大きな力をふるいましたが、同時に文化は地方に波及し、漢民族に抑圧された多くの民族や部族が中国の地方に押し出されていきました。それと同時に、その間隙を縫うように北方から遊牧民族や、犬戎族が豊かな土地を求めてなだれ込んできました。結果として中国は闘争の坩堝のを呈するようになり、秦の始皇帝が統一国家を作り上げるまで続きました。このようにこの時代は価値観のぶつかり合い状態で、それなりの理論構築が大きく進んだ時代だったとも言えます。


 中国百科歴史ノート「第6章 古代~唐代:春秋戦国時代」☚を参照願います。

Chap3 第3章: 古代史料から読み解く孔子の出自

3.1. 『史記・孔子世家』の原文と精密な読解

中国・山東省 曲阜にある孔子廟むしろ孔子城
山東省曲阜にある「孔子廟」
 孔子の出生に関する最も重要な史料は、司馬遷が紀元前1世紀に著した『史記』にあります。この歴史書は、孔子の生涯について「紇與顏氏女野合而生孔子。」(父の叔梁紇と顏氏の娘が野合して孔子を生んだ)と記しています 。この一文が、全ての議論の出発点となります。
 この記述を深く理解するためには、まず司馬遷の執筆意図を考察する必要があります。司馬遷は、歴史上の人物を本紀、列伝、表、書、そして世家の五つのカテゴリに分類しました。『世家』は本来、斉の桓公や晋の文公といった、爵位を持つ諸侯の家系のために設けられたカテゴリでした 。爵位を持たず、晩年は魯国での政治改革に失敗した孔子をここに含めたことは、司馬遷がいかに孔子を高く評価し、彼を単なる平民ではなく、思想的な意味での「王」と見なしていたかの証左です 。
 司馬遷が、これほどまでに孔子を尊崇していたにもかかわらず、その出生をあえて「野合」という言葉で表現したのはなぜでしょうか。この選択は、孔子を貶める意図があったのではなく、むしろ歴史家として事実を客観的に記述しようとした結果であると考えられます。孔子の出生が当時の社会規範から見て特殊であったこと、そしてこの特殊な出自が、後に彼が「礼」の復興を生涯の目標としたことと対比され、彼の思想の源泉を客観的に記述するために必要不可欠な言葉であったと解釈することが可能です。
 そして何よりも、孔子自身が自ら「孔子 貧賤 多能鄙事」と語っていることから見て、司馬遷の見立てがやはり確かなものであったと納得できるのではないだろうか。

3.2. 「野合」の多義性と春秋時代の婚姻制度


「野合」という言葉は、現代日本語では「妥協的な連合」や「不倫」といった俗なイメージで捉えられがちです 。しかし、古代中国の文献に立ち返ると、その意味は遥かに多層的であることがわかります。
  周代には、婚姻には「六礼」と呼ばれる厳格な手続きが定められていました 。これは、納采(求婚の申入れ)から親迎(花婿が花嫁を迎えに行く)に至るまで、六つのステップを経て初めて正式な夫婦関係が成立するというもので、周の「礼」の秩序を象徴する重要な制度でした 。この礼儀が、孔子の父母の婚姻に適用されなかったことが、「野合」の主な解釈につながっています。

  学説①:年齢差による「不合礼儀」説
『史記』の主要な注釈書である『史記正義』や『史記索隠』は、この説を支持しています 。当時の礼では、男性は64歳、女性は49歳で生殖能力が尽きると考えられていました。孔子の父・叔梁紇は孔子誕生時に72歳であり、母の顔徴在は若かったとされます 。この年齢規定を超えての婚姻は「礼に合わない」とされたため、「野合」と記されたという解釈です。この説は、「野合」が単なる性的な密通ではなく、あくまで儀礼上の不備を指すことを明確にします。

学説②:正規の「六礼」を欠いた婚姻説
 春秋戦国時代には、周の「礼」の秩序が崩壊しつつあり、特に庶民の間では六礼を全て踏むことは稀でした 。孔子の父は没落貴族であり、孔子自身も幼少期は貧しく、身分が低かったとされます 。このような状況下では、正式な手続きを行うことが経済的にも社会的にも困難であった可能性があります。この説は、「野合」を**社会的身分や経済状況に起因する「不合礼儀」**として捉えます 。

 これらの学説は、「野合」という言葉が「周の礼」の秩序の枠外にある婚姻形態を指していたことを示唆します。この解釈は、現代の読者が持つ「野合=野外の性交」というイメージを覆す、最も重要な歴史的知見です。
 この複雑な解釈を、分かりやすく伝えるため、以下の表形式に整理しました。
学説の名称主要な根拠文献・注釈解釈の要点現代的評価
年齢差による礼儀不備説『史記索隠』『史記正義』父・叔梁紇の年齢が64歳を超えていたため、儀礼上の規定に反した婚姻とされた。最も有力な学説であり、古代の注釈家が支持している。
六礼省略説春秋時代の婚姻礼儀に関する史料身分や経済的理由から、周の「六礼」を完全に踏まなかった婚姻。史実として明記されたものではないが、当時の社会状況から見て合理的な解釈。


3.3. 「コンプレックス」は史実か、後世の解釈か?

 「孔子は出自にコンプレックスを抱いていたのではないか」という問いは、非常に興味深い視点ですが、歴史学的なアプローチでは慎重な検討が必要です。「コンプレックス」は20世紀にユングやアドラーによって提唱された心理学用語であり、これを2500年以上前の人物の心情に安易に適用することは、歴史学的方法論として妥当性を欠く恐れがあります。

 孔子自身の言葉に立ち返ることが、彼の出自に対する態度を理解する上で最も確実な方法です。『史記』には、孔子が「少也賤、故多能鄙事。」(若き頃は身分が低かったので、多くの取るに足りないことをこなすことができた)と自ら語ったという記述があります 。この言葉は、彼の貧しく不遇な幼少期(3歳で父を亡くし、農作業に従事したとされる )を否定的に捉えているわけではありません。むしろ、自身の境遇を「多才さ」の根拠として肯定的に捉え、自らの能力を卑下することなく、むしろ誇りをもって語っていると解釈できます。

 したがって、孔子の出自を「コンプレックス」という現代的な概念で解釈するのではなく、彼の出自を**「礼」や「秩序」を志向する彼の思想形成に不可欠な原体験**として捉え直すことが、より本質的なアプローチであると考えられます。自身の出生(周の「礼」の欠如)と、その後の思想(周の「礼」の復興)は、単なる偶然ではなく、深い因果関係で結びついていたと論じることは、ユーザーのブログ記事に強固な骨格を与えるでしょう。


まとめ

   本レポートの分析を通じて、「孔子は野合の子」という言葉が持つ意味は、単なる男女関係の俗説や個人的なコンプレックスとは一線を画する、遥かに深い歴史的・文化的文脈に根差していることが明らかになりました。

「野合」は、周王朝の厳格な婚姻礼儀「六礼」に則らない婚姻形態を指す言葉であり、それは父・叔梁紇の年齢や、孔子家の経済的・社会的な立場に起因する、一種の「不合礼儀」であったと考えられます。そして「野」という漢字は、元来の地理的な意味から、「礼」や「秩序」の枠外にある状態を指す、文化的・思想的な意味へと変遷を遂げました。

 孔子の出生は、彼が終生かけて復興しようとした「礼」の秩序の欠如を、彼自身の存在をもって体現していたと言えるかもしれません。しかし、彼はその出自を負い目に感じるのではなく、それを「多才さ」の根拠として前向きに捉えました。彼の生涯は、失われた「礼」を再構築するための旅であり、その思想の原動力は、自身の出生という「礼の欠如」という原体験にこそあったと結論づけることができます。
  


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