日本における愛の認識(Yahoo 知恵袋参照)

日本における愛の認識(Yahoo 知恵袋参照)
1149887923さん 2021/10/20 15:15 2回答
日本文学における愛とはどういったものでしょうか? また、イタリアをはじめとするヨーロッパの文学との相違点も教えていただきたいです。
…続きを読む 文学、古典 | 芸術、文学、哲学・333閲覧 共感した 知恵コレ
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ジャック・アマノ001さん
2021/10/20 22:06
日本文学における愛とはどういったものでしょうか?

大学で少しは日本文学を勉強してきた者としては、「日本文学における愛とは?」という疑問を解明するのは至難の業だと申し上げざるを得ません。
なぜなら、日本語の「愛」という語は、もともと漢語(=古代外来語、中国語)でしかなく、しかも漢訳された仏典等を介して日本に普及した、僧侶、知識階級しか使用することのなかった、一種の学術用語、専門用語でしかななかった、つまり、一般の庶民には全く無縁な語だったからです。
しかも、「愛」は「愛執、愛着、愛染、愛欲、愛網、愛鬼、愛惑、等々」の否定的な意味合いの熟語が多い(肯定的な熟語としては「慈愛」くらいしか存在しない)事実から明らかなように、古来、日本では「愛=煩悩」としか理解されてこなかったわけです。
ところが、明治維新以降、欧化政策のもと、キリスト教の禁令が解かれ、西洋文学が流入するにつれ、たとえば英語のLOVEをどう訳すべきか?をめぐり、明治初期の洋学者(語学者)、宗教家、西洋文学者たちは大いに頭を悩まされたわけです。
その結果、散々悩んだ挙句、半ば妥協の産物としてGODに「神(かみ)」という訳語(漢語&和語)を宛がったように、LOVEには、やはり仕方なく「愛」という仏教語(漢語&和語なし)を訳語として宛がうしかなかったようです。
なお、本当の意味での「愛」とは?となると、私が考えるに、人と人が、あるいは男と女が【GIVE&TAKE】ではなく、【GIVE=TAKE】の関係で結ばれること以外の何ものでもないと説明するしかありません。
なお、【GIVE&TAKE】はあくまでも人と人(他人)との間の最も無難な利害調整システム以上でも以下でもないとすれば、【GIVE=TAKE】とは、相手に与えること即ち自分の得ることであり、自分が得ることすなわち相手に与えることであるという点で、これこそ真の「愛」であると考えられます。
が、こういう「愛」を本当に実践できる人なんて聖人君子以外には存在しませんよね?

でも、ご安心ください、われわれ煩悩にまみれた欲深い凡人でも、心身に充実感、慰藉感をもたらすセックスにおいてのみ、奇蹟的にこの至純の「愛」を実現することができますから。
なぜなら、男女が淫らな性欲の虜となり、互いに性的快楽を貪り合うセックスによって双方の心身が有機的に一体化し得たとき、男女はまさに【GIVE=TAKE】を体現しており、こういうセックス以上に、もともとアカの他人同士でしかなかった男女を深い愛情、固い絆で結び付ける営為はほかに何一つないからです。
その点、日本の伝統文化にも、日本文学にも、それを支える日本人にも、以上のような意味での真の「愛」に該当する観念?がなかったわけではなく、単純に「愛」という語がなくとも「好き(好く)」や「恋(恋ふ)」という語だけで何ら不便も不都合も感じなかっただけと考えられます。
ちなみに、明治にLOVEの訳語として宛がわれた「愛」は動詞としては機能せず、これを動詞化するには、サ変動詞「する」を付け加え、人為的に「愛する」という形に無理やり加工する必要がある点で、「好き(好く)」や「恋(恋ふ)」に比べれば日本人の身体感覚、皮膚感覚にピタリと合わない、どこか翻訳臭い、人工語的な不自然さをぬぐえないところがあると言えます。
以上により、「日本文学における愛とは」という課題と本気で取り組もうとするなら、まずは日本語の「愛」が明治以降に普及した翻訳語でしかなく、伝統的な古典文学には「愛」という語が使用されていないという事実と向き合うことからスタートなさる必要があるとご理解ください。


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