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2025年5月18日日曜日

漢字「負」:漢字考古学の道|『負』の字源と文化 ― 古代から現代への多層的解説

漢字「負」:漢字考古学の道|『負』の字源と文化 ― 古代から現代への多層的解説


古代甲骨文字から儒・仏・道思想、さらには経済やSNSまで―『負』が示す歴史と現代の意義
 「負」の精神は、単に勝ち負けの問題ととらえてはいけない。これは「日本人の精神構造の背骨をなすものとなっている! 」


     

目次

  1. 漢字「負」の変遷の歴史
  2. 語義と用例
      漢字「負」の今
      現代中国語と日本語における使われ方の違い
      ポジティブな使われ方とネガティブな使われ方
  3. 文化的・哲学的側面
  4. 現代社会における「負」

  5. まとめ



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1. 漢字「負」の変遷の歴史

「負」の字源と歴史

  1. 甲骨文字・金文の形と古代の意味
    「負」は古代中国の甲骨文・金文に見られ、象形文字としての起源を持ちます。 甲骨文字では、「人が何かを背に負っている」形で描かれ、物を背負う行為を示していました。これは「背負う」「担ぐ」といった意味の原型となります。 金文では、甲骨文字よりも構造が明確になり、「貝」と「人」に分かれる形が確認できます。古代中国では「貝」は財貨を意味するため、「負」は財を背負う、つまり負担や責任を持つという意味へと発展しました。

  2. 戦国時代や漢代の辞書での説明
    『説文解字』(後漢・許慎) 許慎の『説文解字』では、「負」は「背也。从人、貝聲」と説明されています。つまり、「背負うことを意味し、人と貝を組み合わせた形」と解釈されています。 「貝」は財物や価値を象徴し、「人」はそれを担う存在として描かれたのです。 その他の辞書(戦国・漢代) 戦国時代の『爾雅』などでも、「負」は「責任を担う」「敗れる」といった意味が強調されていきます。これは社会的・道徳的な概念として「負担」「責務」という意味へと発展したことを示しています。

  3. 「負」の意味の発展
    古代では「負」は単に「背負う」ことを表していましたが、時代を経るにつれて以下のような意味が加わりました: 責任を持つ(責任を負う):「負担」「負荷」「負債」などの言葉にみられる社会的責任の概念。 敗北する(勝負の負):「勝負」の「負ける」に繋がり、競争や戦の文脈で用いられるようになった。 陰の意味(負のイメージ):「負の遺産」「負の感情」など、ネガティブな意味が派生。
  4. こうした意味の広がりは、漢字が単なる象形の記号から、思想や価値観を表すシンボルへと進化したことを示しています。

2. 語義と用例

  1. 現代中国語と日本語における使われ方の違い
    「負」は中国語と日本語の両方で広く使われていますが、ニュアンスや用法に違いがあります。 中国語では「负」の簡体字が一般的で、「负担 (fùdān)」「负责任 (fù zérèn, 責任を負う)」「失败 (shībài, 失敗)」などに使われます。また、「负面 (fùmiàn, ネガティブ)」のように「悪い・マイナスの要素」という意味も強調されます。 日本語では「負」の使い方は広く、物理的な「背負う」から精神的・社会的な「責任を負う」まで多様な意味を持ちます。また、「勝負」のように「勝ち・負け」の概念が強く出る点も特徴的です。 日本語では「負」は比較的ネガティブな意味合いが多く、中国語では「負」の使い方がより実務的・一般的な印象があります。
  2.  代表的な熟語「負」を含む熟語は、日常生活や専門分野で頻繁に使われます。 以下にいくつか例を挙げます。
    熟語  読み方    意味
    負担  ふたん    責任・義務・費用などを負うこと
    負荷  ふか      物理的・心理的な負担、エネルギーのかかり方
    勝負  しょうぶ    戦いや競争で勝敗を決めること
    負傷  ふしょう    傷を負うこと(けが)
    負債  ふさい    借金や財政上の負担
    自負  じふ      自分に自信を持つこと
    背負う せおう     責任を持つ、物を背に載せる


  3. ポジティブな使い方とネガティブな使い方「負」は一般的に「ネガティブな意味」が強いですが、ポジティブな使い方もあります。
    ポジティブな使い方
    自負(じふ):「自身の能力や誇りを持つ」という積極的な意味を含む。
    勝負(しょうぶ):「真剣に取り組み、挑戦する」という前向きな意識。
    負けるが勝ち:時に敗北が次の成功につながるという考え方。

    ネガティブな使い方
    負債(ふさい):「借金」の意味で、経済的に困難な状況を示す。
    負傷(ふしょう):「怪我をする」という否定的な状況。
    負担(ふたん):「重い責任」「苦労」というストレスのある表現。

    このように、「負」は状況によって肯定的にも否定的にも使われます。 特に「勝負」のように、ネガティブな「負け」が必ずしも悪いものではなく、「挑戦」「努力」という文脈で使われることも面白いですね。

漢字「負」の今

漢字「負」の成立ちの解明

漢字考古学「負」_楷書
負・楷書
漢字「負」の楷書で、常用漢字です。
 



漢字考古学「負」_金文
漢字考古学「負」_小篆
 金文では買いを背負うことになっている。
 小篆では上下が逆転し、貝の上に人が乗った形で、財の助けで人があるような構造になっている。  
負・金文
負・小篆



 

「負」の漢字データ

漢字の読み
  • 音読み: フ   
  • 訓読み : ま(け)  

意味

同じ部首を持つ漢字     貝、貧、
漢字「負」を持つ熟語    負、負担、負荷、勝負、負傷


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漢字「負」成立ちと由来

引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)

漢字「負」の三款
漢字・負の3款

漢字の主たる説明
 「貝」は財貨を意味するため、「負」は財を背負う、つまり負担や責任を持つという意味を持つとされる。その後、社会の発展とともに責任を持つ(責任を負う)、敗北する(勝負の負)、「勝負」の「負ける」に繋がり、競争や戦の文脈で用いられるようになった。

唐漢氏の解釈


「負」は『説文』で「負」は頼るという意味で、人(人)が貝を守ることから、何かに所持する」と説明されています。つまり、「負」は「人」と「貝」という文字を組み合わせた象形文字であり、「負」は何かに頼ることを意味します。




漢字「負」の字統の解釈

会意文字: 人と貝とに従う。貝を負う形。古い字形がなく戦国期の字形が存するのみで、その初形が確かめがたいが、貝を負う形とみていい。




3. 文化的・哲学的側面

3.1 東洋思想における「負」の概念
「負」は単なる物理的な「背負う」という行為から、哲学的な概念へと発展し、儒教・仏教・道教において異なる解釈をされています。
  • 儒教(責任と義務) 儒教では「負う」という概念が、「責任を担う」ことと深く結びついています。孔子は「仁」を重んじ、人間関係における義務を強調しました。ここで「負」は、自らの役割を受け入れ、社会に貢献する姿勢を示すものとなります。 例: 「負責(責任を負う)」という言葉は、リーダーや親がその役割を果たす義務を持つことを示す。
  • 仏教(業と苦しみ) 仏教では、「負」は「業(カルマ)」や「苦しみ」と関連付けられます。人が背負う因果の重みは、過去の行動に由来し、輪廻の中で課された試練とも考えられます。 例: 「負業(ふごう)」という概念では、人が前世の行いによって苦しみを負うとされる。
  • 道教(自然な流れへの適応) 道教では、「負」の概念が少し異なります。道家思想では「無為自然」を重んじ、強く何かを背負うことよりも、流れに任せることを推奨します。「負」とは必ずしも悪いものではなく、時に受け入れることで道が開けると考えられています。 例: 「負陰抱陽(陰を負い陽を抱く)」は、バランスを取ることで調和が生まれることを示す。

3.2 日本文学と漢詩における「負」
  • 「負」は日本文学や漢詩において、さまざまな象徴的な意味を持っています。 日本文学(運命の重み) 日本文学では、「負」はしばしば「運命を背負う」「宿命としての試練」などの形で描かれます。 例: 『平家物語』では、武士が「敗北」を受け入れる姿勢が「負」の美学として表現されています。「驕れる者久しからず」とあり、勝者もいずれ敗者となることを示唆しています。 漢詩(英雄の悲哀)
  • 中国の漢詩では、「負」は敗北や責任を象徴しますが、詩的な美しさも伴います。 例: 李白の詩では、「人生如夢(人生は夢のようなもの)」とされ、「負うこと」への虚しさや運命の儚さが表現されています。

3.3 負けることの美学(日本の武士道)
  • 日本の武士道では、「負けること」が単なる敗北ではなく、美学へと昇華されました。 潔い敗北の精神 武士道では、「負けるが勝ち」という精神が存在し、戦いにおいて誇りを持ちつつも、時には潔く敗北を受け入れることが重要視されました。 例: 宮本武蔵の「五輪書」では、「時に退くことが最善の勝利につながる」と述べられています。これは、「負」の哲学的な側面を示しています。
  • 忠臣蔵の「負」 忠臣蔵の物語において、赤穂浪士たちは「主君の仇討ち」という使命を背負いながら、最後には切腹する運命を迎えます。この「負」は、単なる敗北ではなく、武士道の美学として高く評価されました。


4. 現代社会における「負」


 現代社会において「負」という概念は、さまざまな分野で異なる意味合いを帯びています。
 ここでは、経済、スポーツ、心理学の三つの視点から「負う」ことの意味を探り、さらに「負けるが勝ち」という考え方やSNS・ネット文化における「負」の捉え方について詳しく述べます。

4.1 経済・スポーツ・心理学で「負う」ことの意味
  • 経済 経済の分野では、「負」は主に「負債」や「負担」という形で現れます。企業や個人が資金調達や投資、ローンなどを通して財政的なリスクや責任を負うことは、安定性や成長のための大切な要素と同時に、失敗や倒産のリスクを伴います。たとえば、経営戦略においては、将来の利益を期待して一時的に大きな負債を負うケースや、国家が財政赤字という形で社会全体の負担を抱える状況が見られます。経済活動の中で「負う」という行為は、責任の所在やリスク管理として不可欠な側面を持ちながら、その継続性や持続可能性に対する鋭い検証を必要とするものです。

  • スポーツ スポーツの世界では、「負う」はしばしば競技や試合における敗北、つまり「負ける」という結果として捉えられます。しかし、単なる敗北としての「負」だけではなく、敗北から学ぶことやその経験を乗り越える成長の機会としても評価されます。敗北の経験を通じて選手やチームは次への戦略を練り、技術や精神面での向上を図るため、まさに「負う」ことが次なる成功へのステップとなります。たとえば、試合後の反省会やトレーニングプログラムでも、過去の敗北を見つめ、そこから得た教訓を今後に活かすという姿勢が重視されます。

  • 心理学 心理学においては、「負う」という表現は、ストレスや責任、感情的な重荷を指すことが多いです。個人が仕事や人間関係、生活の中で感じる精神的な「負担」は、時として内省や自己成長の契機となることもあります。たとえば、心理カウンセリングやメンタルトレーニングでは、自身の負の感情や過去の失敗と向き合い、それを乗り越えるためのプロセスが重要視されます。負の感情を認め、適切に対処することで、自己肯定感の向上や新たなチャレンジへの意欲が芽生えることが、心理学的な視点から評価されています。

4.2 「負けるが勝ち」の考え方
「負けるが勝ち」という言葉は、日本社会に根付いた哲学的な思考を象徴しています。これは、単に勝敗を競うのではなく、敗北によって得られる知見や経験が、後の成功への礎となるという考え方です。たとえば、ビジネスシーンでは、一時的な失敗を受け入れ、その失敗から学び、戦略を再構築することで、結果的に大きな成果を上げるケースが多々あります。また、スポーツや学業においても、敗北経験が個人の精神力を鍛え、「次の勝利」へのモチベーションとなることが強調されています。つまり、「負けるが勝ち」とは、形式上の敗北に終わらず、その後の成長や革新につながるポジティブな転換を示唆する理念なのです。


4.3 SNSやネット文化における「負」の捉え方
近年、SNSやネット文化の発展により、「負」という概念も新たな側面を持つようになりました。
インターネット上では、人々が自らの失敗談や悔しい経験を共有することで、共感や連帯感を生み出す動きが見られます。
  • 自虐ネタとしての採用 自らの「負け」や失敗をネタにすることで、ユーモアや共感を呼び、逆にポジティブなブランディングにつなげる事例が増えています。ハッシュタグやミーム(例:#負け犬)を通じて、自虐的な投稿がコミュニティ内で受け入れられ、自己表現の一形態として機能しています。
  • 批判と反省の風潮 一方で、SNS上では過剰な批判や炎上が起こり、個人が精神的に大きな負荷を「負う」ケースも存在します。匿名性が高い環境下では、建設的な批判だけでなく、感情的な非難が拡散しやすく、これがネット上のストレスや自己評価の低下に繋がることが指摘されています。
  • 失敗談の共有と学び しかし、失敗談や挫折経験の共有は、同じ境遇にある他者への励ましや、自己改善のヒントを提供するポジティブな側面も持っています。ネット上のコミュニティでは、失敗を正直に語ることが奨励され、そこから得られる「リアルな学び」が多くの人々に支持されています。


現代社会における「負」は、経済的・社会的な重荷としての側面と、個人の成長や共同体内の連帯感を生み出すポジティブな変容としての側面が共存しています。経済、スポーツ、心理学、そしてSNSという多様なフィールドで、私たちは「負う」という行動や感情と向き合い、その中から新たな価値や学びを見出す努力を続けています。さらに、こうした「負」の多面的な意味は、現代に生きる私たちそれぞれにとって、挑戦や再生の可能性を提示しているのです。


まとめ

  現代社会における「負」は、経済的・社会的な重荷としての側面と、個人の成長や共同体内の連帯感を生み出すポジティブな変容としての側面が共存しています。経済、スポーツ、心理学、そしてSNSという多様なフィールドで、私たちは「負う」という行動や感情と向き合い、その中から新たな価値や学びを見出す努力を続けています。さらに、こうした「負」の多面的な意味は、現代に生きる私たちそれぞれにとって、挑戦や再生の可能性を提示している。
 「負」の精神は、単に勝ち負けの問題ととらえてはいけない。これは今や「日本人の精神構造の背骨をなすものとなっている! 」

  


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2019年11月7日木曜日

年賀状に子年の漢字「子」の甲骨文字を使って見よう


来年の干支は「子」
年賀状に子年の漢字「子」の甲骨文字を使って見よう
 来年の干支は、ネズミですが、漢字では「子」と書きます。このネズミと「子」は何の関係もないのですが、何故ネズミが割り当てられたのでしょうか。

 昔から中国では年月や方角を表すのに、十二支を使っていましたが、一番身近な人間のライフサイクルを用いたものだと主張する人がいます。そして人間が母親の子宮から出てくる時を「子(ね)」で表したものでネズミとは関係がないのですが、一般庶民に理解させるの動物をもってきたのではといいます。


来年の干支は「子」

 甲骨、金文(青銅器・鋳物に彫り込められた文字)、小篆(秦時代に作られた字体)の「子」を提示しています。

 左のヒエログラフの中の左の3つが甲骨文字で、中4つは金文、その右2つは小篆です。

 漢字はほぼ完成した状態で、この世に現れますが、文字学からいって考えられないことで、完成までの間には必ずその前身となるべきものが存在しているはずですが、未だなぞに包まれています。これをひも解くのも、興味が尽きません。



参考文献:「漢字の社会史 東洋文明を支えた文字の三千年」(阿辻哲次著、2013年、吉川弘文館)




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2019年4月1日月曜日

漢字学から『新元号「令和」が本当に意味するもの』を考える

新元号「令和」の由来と起源
 新元号が今日(2019年4月1日)の閣議で決定発表された。
   出展は万葉集ということだそうで、これでの元号は基本的に漢籍から取られたものだそうだが、そういう意味からもこの新しい元号は、これまでとは一線を画するものかも知れない。
 しかし、この新元号の解釈を如何にしようとも、漢字の解釈から引き出される意味は、「命令に和すること」以外はないようである。


漢字「令」の成り立ち
 漢字「令」の甲骨文字の上部の三角形は、許慎は上古の時代青銅楽器の外形の輪郭と考えた。即ち、鈴、鏡、の一種。下部は左を向いて跪いている男の人である。両形の会意で命令を発することを表示する。古典の典籍では、「古きもの将に新令あるときは木鋒を奮い上げ大衆に警告をする。木鋒は木の舌であり、文事には木鋒、武事には金鋒を奮う。
   「金文は基本的には甲骨文の形態を受け継いでいる。小篆の下の部の人の形はいくらか変化し、楷書の形態は即ち根本的には鈴の字の人の形は見られない。其の実、令の字は別の角度からの解釈が合理的なのかも知れない。
 大腿のマタを広げ佇立する男性の眼前に一人の跪いた人がある様がまさに「令」の源である。
 この意味からまた拡張して「~させる」という意味が出る。

 因みに、藤堂明保編「漢字源」による解釈では以下のようである。


「△印(おおいの下に集めることを示す)+人のひざまづく姿」で、人々を集めて、神や君主の宣告を伝えるさまを表す。

漢字「和」の成り立ち
 次に「和」の解釈であるが、「説文解字」や「字統」「漢字源」などで、様々解釈をされている。何はともあれ、甲骨文字と小篆、楷書をそのまま提示しておきたい。ただ「和」という漢字は古代は異なる別々の由来を持っているという解釈が優勢なようだ。

左の図の上段の解釈
 中国語の解説書には、「禾」は「もともと甲骨文字では「」という文字であった。この意味するものは、楽器であったようだ。
 ところが、金文、小篆、隷書と変化するうちに「」の左の旁が「口」に変化し、更に旁と偏が左右位置が変わり、現在使用している「和」となった。
「説文解字」では「龢」は調べなりとしている。

上図の下段の解釈
 そして "说文解字•口部"咊"の意味は「相応する」という意味。偏「口」と発音は禾声。"指と口は対応して、本来の意味は、音楽のハーモニーを意味する。音と声が一致して、歌手または伴奏が調和していることを指す。発音はHeと読む。


関連記事 1.「漢字「令」の成立ちを「甲骨文字」に探る

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2018年12月24日月曜日

漢字の起源の簡単クイズ 発想を飛ばして想像力を鍛えよう!!


現在の漢字は何でしょう?
 下の漢字は甲骨文字といって、今から3500年前頃、中国の黄河流域で使われていた文字で、漢字の起源といわれているものです。そしてこれは形を変えながらも今に受け継がれています。このような文字は他にはありません。

 頭を柔らかくし、昔の人がどのように考えていたか、一緒に考えて見ましょう。

 あまり難しく考えないで、ご自分の頭の柔らかさを簡単にテストするつもりで、挑戦されてはいかかでしょう。



今日のクイズ
ヒント
何か屋根のようなものが見えますね。そして、その中には動物がいるように見えます。ここから想像を飛ばしてください。

ヒント
今年は、振り回されました。落ち着けばいいんですけどね。いつまでも反目している時ではないでしょう

 

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2014年11月24日月曜日

干支十二支の起源と成り立ち


 2011年2月10日のブログですでにふれた通り、殷商の時代すなわち甲骨文字が生まれた時代に早くも十二支は天干と共に日にちを表すのに用いられている。干支は十干と十二支の二つの概念で構成されている。十干とは天干ともいい、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10種類からなる。十二支は子丑虎卯辰己馬未申酉戌亥は地支といい、天干と地支と相交えて日にちを表していた。 「上古の先民は何のためにこの漢字を作ったのだろう。彼らはまたどんな事実の証拠になるのか。こういう漢字を作るようになってきたのか。 個体発生学と人類発生学の相似の一面が科学的に証明される。殷商民族は商代の甲骨文字に刻まれている、干支年表の緑子の時期に酷似している。人類の発生の時期、全てのものは現象を持ってそのよりどころとした。文字もその例外ではない。

引用 「汉字密码」(P866、唐汉,学林出版社)

 安陽の殷墟の小さな村で発見された、甲骨文字が刻まれた「甲子年表」はほぼ中国で最も早くカレンダーが順序どおり並べられていたことが知られている。出土した商代の甲骨文は多数干支で日にちが記され、商代すでに干支で日にちを記す方法が行き渡っていた。しかし、地支「十二支」の形と意味は今日に至るまで、諸説紛々としており。いまだ共通認識にいたっていない。
 またウィキペディアによると、「また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。」とあり、いま一つはっきりしない。


 しかし後世のこじ付けともいえる命名のことはともあれ、なんと今から大方4000年前、中国では夏、殷、商という高度な文明を持った王朝が栄え、干支年表というカレンダーを作っていた。そしてそのカレンダーの中身は、子丑寅卯辰己馬未申酉戌亥という漢字を用いていた。
 わが唐漢氏は、「子丑寅卯辰己午未申酉戌亥」という漢字が、大きく二つに分けられ、前半の「子丑寅卯辰己午」は人間の胎児の時代から、産道を通って出産してくる現実の出産過程を表し、後半の「未申酉戌亥」は未だ未然のことではあるが、嬰児が夭折なく、無事育つよう、希望と期待をあらわしていると解釈する。
一方天干も実は生命消長の循環過程を分説したものであるといわれている。以下の意味合いを持っているとの説が有力である。


甲 こう きのえ 木の兄    草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意
乙 おつ きのと 木の弟   陽気のまだ伸びない、かがまっているところ
丙 へい ひのえ 火の兄   陽気の発揚
丁 てい ひのと 火の弟   陽気の充溢
戊 ぼ つちのえ 土の兄  “茂”に通じ、陽気による分化繁栄
己 き つちのと 土の弟   紀に通じ、分散を防ぐ統制作用
庚 こう かのえ 金の兄   結実、形成、陰化の段階
辛 しん かのと 金の弟   陰による統制の強化
壬 じん みずのえ 水の兄 “妊”に通じ、陽気を下に姙む意
癸 き みずのと 水の弟 “揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態

  こうしてみると唐漢氏が十二支は人の出産・成長過程を表したもので、古代人が時を表すのに、身近に起こる出来事で象徴的に表したものだという説をとったことは合理的だという気がする。

2012年6月22日金曜日

中国人と儒教の根幹「仁」の起源と由来


中国人の儒教意識 

司馬遼太郎氏とドナルド・キーン氏の対談本「日本人と日本文化」の中で、「日本人のモラル」について語り合った個所で、司馬氏は中国人の儒教意識について、「中国人の場合は、・・・非常に感心するのは、彼らは日本のいかなる儒者よりも儒教的である。そう思うのは、つまり信というものをひじょうに尊びますね。裏切らないです。」と述べている。

現実の受け止め

 しかし、私の感想は少し異なる。私の短い中国滞在と旅行の期間、実に残念だが、正直言って裏切られ通しであった。司馬氏は「彼ら(中国人)は、頼むのは同胞だとか・・・友人だとか横の関係である。」と言っている。司馬氏がこの経験をしてから、既に20年も経っていることもあり、司馬氏は著名な作家ということもあり、司馬氏の様に重く受け止められていないのかも知れないが、私には残念な結果である。
それに儒教は基本的に君子論である、君子の庶民支配の方法論を述べたものであり、解放後の中国で生き続けられるはずがないと思う。しかも中国人はこの20年の間に高度成長を経験し、改革開放路線の下で市場経済論理がまかり通っている中では、司馬氏の言うように儒教的な思考が今なお生き続いているのか少し疑問である。

儒教の根幹「仁」

 さてその儒教の根底をなす思想に「仁」という言葉がある。儒教が生まれたのは、BC6世紀ごろで、甲骨文字が生まれたのはBC15世紀ごろなので、両者の間には千年の開きがあるので、甲骨文字で、儒教の思想を語ることは論理的に無理がある。しかし、当時の社会の中で、人と人の関係をどうとらえていたかの一面を知る上では一つの材料となる。

「仁」の由来

 両形は会意文字である。仁は他でもなく、千個の心眼を持っている或いは千種の考えの聡明な人を表している。「仁」の本義はそれだけ心眼の多く、考えること密で、因みに心を砕くもの人を治む優れた人を示している。それだけ小人、下等な人に対して、上人、大人を示している。古人はこれを称して君子という。孔子は仁者と呼ぶ。
 「上流社会の出身の人で権力があり、権勢のあるものは下人を指揮することが出来るものの、すべてが「仁者」というわけではない。」彼らはまだ須らく一種の品徳を備えている。即ち「仁者人を愛す」の品行は「成仁」となりうる。冷酷で薄情で恩が少ない人、巧みな話しぶりと人当たりの良さでへつらう輩は心を砕いても「仁者」ではない。 

仁者とは

 儒家の論述に照らして、「仁者」は「敬服させる位置にいて、愛を喜捨し、進退程よく、応対程よく、物腰もよく、事を処理するのにきちんとしており、徳行が様になっており、声や雰囲気が気持ちよく、動作が穏やかで、言葉に条理がある」これらが一連の品行である。これが孔子の心の中にある封建社会の中の「上人(古代帝王)」達が備えていたいわば徳行である。明らかに車引き、酒売りの輩、田を耕し、野ら仕事の連中、及び荒っぽい虐待狂者のごときものはこれら徳行を少しも備えることが出来ないものである。
これでは私は仁者にはとてもなれそうにもない。 


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2012年5月14日月曜日

白川文字学と唐漢説の分かれる所

唐漢氏と白川博士
 私がここで紹介している唐漢さんの甲骨文字に関する説は、おそらく中国の中でも亜流の説であり、本流とは認められていないようだ。事実彼の著書の表紙には「奇説」という言葉すら記載されている。

 一方白川博士はわが国を代表する推しも推されぬ漢字学の権威の一人である。

白川静さんの漢字学の中心をなす文字
 白川静さんの漢字学の大きな中心をなす概念(サイ)に関連した文字だ。白川文字学の大きな功績のまず第一に挙げられるのが、「口」が「くち」ではなく、神への祝祷の祝詞を入れる器「サイという名の器」であることを体系的に明らかにしたことだということだ。(小山鉄郎著 「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」より)


 そして、「口」の字形が含まれる漢字は非常にたくさんあるが、古代文字には、「耳口」の意味で構成される文字は一つもないという。


 しかし、ここで疑問がでてくる。「耳」、「鼻」、「目」、「首」、「手」、「脚」等身体の部位を示す字形が含まれる漢字は古代文字には沢山あるにもかかわらず、なぜ「口」の意味で構成される記号「口」が一つもないのだろうか。

 また白川先生によると基本的に甲骨文字は時の王が自らの宣旨や命令を記録するために生まれたのであり、王の宣旨は卜辞や占いの形をとって為されることが多いため、必然的に甲骨文字は宗教色や卜辞の色彩が色濃く反映されたものだとのことである。

 話は変わるが、つい先日司馬遼太郎氏と陳舜臣氏の対談の文庫本を読んだが、その中に面白い話を見つけた。それは「跪」という漢字に話が及んだとき、当時はまだ褌というものがなく、男もすその割れるような服を着ていたので、跪く時には一物がもろに見えて大変「危険である」ことから足偏に「危ない」と書いて「跪く」としたのではないかということで、少し話が盛り上がっていた。跪くのは別に男に限らないし、多少は話を面白おかしくしているところもあるかも知れないが、この両大作家の解釈はまさしく唐漢氏と発想は同じくするものであり、独断ではないのだと意を強くした。ちなみに唐漢さんの本の中には、「跪」という漢字に関する記述はない。というのは、この漢字は甲骨、金文の時代にはまだこの世にはなかったからである。

 漢字というものは、漢字の構成および構造だけからは捉えられない奥深いものを持っているとを痛感させられた話である。


 白川氏自身が漢字学から入った学者ではなく、考古学から入った学者だと誰かが少し難癖のようなのものをつけていた人もいたが、入り口は何処であろうと、彼は大学者である。しかし問題はそんなところにあるのではなく、その人が科学の立場に立っているか、観念論かどうかが分かれ目のような感じがする。すこし大上段(大冗談??)過ぎるかなあ。

 私のような人間がこのような口幅ったいことを言うのはあまりにあつかましいと非難が聞こえてきそうであるし、私自身もそんな感じを持っている。浅学のそしりは、甘んじて受けねばならないだろう。


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2012年3月21日水曜日

漢字の成り立ちと生い立ち


  漢字は象形文字の代表のように云われてきた。しかし古代文字の中でも漢字の中でいわゆる象形といえるものはわずかに10%に過ぎないと云われている。それ以外の90%のものは会意文字といわれるものであったり、形声文字と言われるものであったりする。いずれにせよ体系だった象形文字が突如としてこの世の中に出現したなどとは考えがたく、その原型のようなものがあったはずと考えられている。
  象形文字として動物の骨や亀の甲に刻みこまれた甲骨文字の中でも最も基本的なものは300文字とのことであり、その300文字が組み合わされたりして出来た文字は精々1500文字程度である。
 さらに時代を下って、青銅器などに刻印されたり碑文として残された金文文字の種類は3700種になった。この金文文字は基本的に青銅器などに鋳込められる文字であった為に、甲骨文字に比べ線は太く、いくらか角ばっていた。
 さらに秦の時代になると国家統一の事業の為いろいろのものが統一された。その中には度量衡や貨幣等は勿論のこと、戦国時代に群雄割拠し各地でいろいろな金文文字や亜流が使われていたものがこの時代には強制的に小篆と云う文字体系に取って代わられた。そして漢の時代には使われた小篆文字は8700字になったとのことである。
 更に秦、漢王朝の中の宮廷において、膨大な文書管理を任されていた奴隷の小官吏が編み出した小篆より便利な書体である隷書が生まれ、やがて広く使われるようになった。そこから更に早く筆記する必要から、草書が生まれやがて楷書が作られ今日に繋がっていく。
  そして今までに歴史的に出現したことのある漢字の総数は8万以上に上るといわれている。

  
  そしてこれらの文字はその時々の社会や風俗、習慣、思想を表したものであり、文字を研究することは、その時々の歴史の研究そのものである。
  これらの文字の研究は遥か昔から今日まで無数の学者や歴史家、好事家などによってなされている。中国では、紀元58年から147年まで生きたとされる許慎が漢字研究を行い一応それまでの漢字学を集大成している。しかしその当時はまだ甲骨文字は発見されておらず、時代的制約から多くの誤りを含んでいたが、しかしながらその功績は消すことは出来ないほど偉大なものであろう。
  また漢字は累々と3千数百年もの間、生き続け今なお使い続けられていることは世界でも例を見ないことである。なぜこのように永らえることが出来たのか、その生命力の神秘は驚嘆に値する。私は漢字の生命力もさることながら、それを支えた民族の生命力にも驚嘆を感じざるを得ない。
  ここでは唐漢という方の本をベースにしているが、日本の白川博士や藤堂博士の考え方、方法論と趣をことにする部分があり、それはそれで面白いのかもしれない。というか今の段階で二人の大学者にどうのこうのという論評はおこがましいので、ただ承ることとしたい。


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2011年11月4日金曜日

漢字「魚」の起源と由来:象形文字、魚そのもの

秋は何と言っても秋刀魚の季節。秋刀魚の塩焼きは素朴ながらも絶品だ。日本の落語でも、「サンマは目黒」という御題でおなじみである。

 さてサンマは中国語で秋刀鱼と書く。因みに我々におなじみの魚は下のようになる。日本語のように一字でその名前を表すものは少ないようで、大体が鯛、竹荚、金枪のような修飾語が付き、全体で魚の名前を表すようである。その点獣の名前には牛、猪など一字でその動物を表すものが多いようで、その点からいっても中国では魚文化は日本ほど発達していない証拠かも知れない。

秋刀魚    秋刀鱼
鯛        鱼
鯵       竹荚鱼
鮪       金枪鱼

さて魚の漢字はどのようにしてできたのか。その由来を探ってみよう。


「魚」の変遷
甲骨文字の魚はちょうど絵の中の大きな魚である。頭と尾と背部にひれを持っている。小篆の尾鰭のわきの二つの点は水滴を表す。よく魚の形を表している。楷書は完全に4つの点になっている。簡体字ではこの4点は横棒一になっている。 

金文中の魚を表す味のある文字    "魚”の字は部首で漢字の中では「魚」と組み合わせて、全て魚と関係を持っている物を表す。



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2011年10月20日木曜日

秋は収穫の季節 「米」と「糠」の漢字の由来と起源

秋は収穫の季節。稲の穂がたわわに実り、田畑が黄金の絨毯の様を呈する時、古人(今も)神に感謝し、収穫の喜びを感じる。

  稲作が日本に伝わってから日本の文化は大きく変わり、縄文式文化から弥生式文化へと変貌を遂げる。今から約2千年前の出来事である。そして米を作り続けて、今日本社会は大きな問題に直面している。

今「米」作りを根本から見直す時期に来ているのかもしれない。

甲骨文字の下半分は
横棒一と3つの点で「雨」を表す
「米」の字は象形文字である。甲骨文字は上下6つの点は米の顆粒を表し、中の横線は風が吹きすぎたさまを表し、米と米ガラの分離を示している。

 また水の組成の(雨)をいう記号を用いることにより、区別する符号を当てている。小篆の米の字はまさに中間が上下に貫通し楷書の米の字に似たものに代わっている。

 糠の字は会意文字である。古文字の中で康と書く。康の字は借用されて、安康、健康の康に用いられる。

(本来殻の付いた穀物は腐りにくく、比較的保存しやすい所から来ている)

 
糠の漢字の由来は「康」
甲骨文字の康という字は中間部分は篩の類の工具である。上部の「子」は上に上げる意味を持つ。下の4つの点は扇ぎ出された米糠を表す。金文は大体甲骨の形に似ている。ただ篩の形に少し変形している。小篆の字形は篩が二分割され、上に上げた両手に代わっている。中の糠は米に代わっている。隷書を経て、楷書は只一つの字形を留保している。


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2011年2月10日木曜日

十二支の始まり

子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥は地支、十二文字は殷商時代すでに天干と相交えて日にちを表していた。
安陽殷墟の小さな村で発見された、甲骨文字が刻まれた「甲子年表」はほぼ中国で最も早くカレンダーが順序どおり並べられていたことが知られている。出土した商代の甲骨文は多数のすべて、干支で日にちが記され商代には、すでに干支で日にちを記す方法が行き渡っていた。しかし、地支「十二支」の形と意味は今日に至るまで、諸説紛々としており、いまだ共通認識にいたっていない。

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2010年5月31日月曜日

「女」という字の起源、由来 太古の昔の女性の立ち居振る舞いを反映した象形文字

男と女と社会
 漢字ができたころの社会は既に男性優位の社会になっていたと考えられる。母系制社会から男性優位の社会になり、人間の重労働からの解放の社会に突入しつつある現代社会では、男性の優位性が失われつつある社会に突入しているといえるだろう。そして近未来は、人間の筋肉労働が労働の主要な側面でなくなる時代では、男女間の性差は逆転することになるかも知れない。
 ここで触れるのはあくまで漢字ができるころの話であるので、今とはずいぶん異なっていることをお含み頂いたうえで、話を進めたい。
 漢字は社会の発展やありようを忠実に反映したものである。

「女」という字の起源、由来 太古の昔の女性の立ち居振る舞いを反映した象形文字
前回から女や男すなわち性にまつわる漢字をレビューして行こう。ここで参照するのは中国の唐漢さんという方の著作であるが、彼は民俗学的な立場を取っておられる人であり、私は氏の漢字学のもっとも大きなアイデンティティーはこの部分にあるのではないかと考えている。

 ますは女という漢字のルーツに迫る。氏は以下のように解析する。


「漢字の暗号」より転写
太古の昔の漢字の上での「女」の描かれ方
 女という字はそのままの象形文字である。甲骨文字の女の字は左を向いて膝を折って跪き、状態をまっすぐ立ってて、上部の女性の胸をわざわざ描いて、女性のバスト、ウエスト、ヒップなどが余すところなく特徴的に表現されている。

   古代人はなぜ女という字をこのように作ったのだろうか。実際上、この種の姿勢は本来古代人が服を着て、家にいる形である。

 華夏民族は早くから服を着ていたかあるいは体の前に布をぶら下げていた。後になって「前後」を覆う布になり、そして更に変化して全身を布で覆った衣服になった。

 殷商の時代に至って、大多数の民衆は、日常は裸足で、脚を包むような短いスカートで、中は今の人のようにいわゆるパンツはつけず、何もはかない。明らかにこのような服装をして、唯一つの草の寝床以外は何もない居室で、ただ跪く姿では、陰部を隠すのがやっとであろう。しかし跪くのは小休止するのには非常に便利である。「女」という字にこの跪く姿勢を当てたのは、これが上古の生活の真実の姿であっただろう。

   金文の字の女では基本部分は甲骨文字と同じであるが、ただ女の頭の上部分に一本の横線が増えている。実際には簪を飾りにいくらかの装飾品がつき、女の子の年頃の実際の姿を示したものだ。

 小篆は金文を引き継ぎ、しかし形象は次第になくなり、更に隷書化の過程で書くための便利さへの要求がいっそう高まり、形を変え楷書の時代になって現代の女という字になった。

この右の絵は岩の上に描かれた男と女の絵であるが、男女夫々の特徴をそれぞれ捉えていて大変興味深い。  女の乳房、男の睾丸がリアルに描かれている。  甲骨文字の「女」という字は、見ただけで女と分かる字となっており、一種のなまめかしい雰囲気を漂わせているのも又面白い。

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2010年5月27日木曜日

「羊」の起源と由来 基本的な象形造字法

「羔」や「義」という字が「羊」を構成要素として作られていることを見たが、ここでは羊そのものの字のつくり、その由来について触れてみよう。

 羊という字を作る方法は、象形と呼ばれる。たとえ甲骨文字と金文文字の形は同じではないが、しかし皆、羊の頭の簡略化である。湾曲した角、二つの耳、特に突出し湾曲した角は人が一見して別の動物に見間違えようのないような図を示している。

 羊の字の手本として書くのは羊全体の形ではないが、羊の局部の特徴を持っている。典型的な特徴で事物の全体を現す一種の造字方法であり、漢字の象形の主要な方式の一つである。

 一説のよると孔子はこの象形文字を見た後、「牛と羊の字はよく形を現している」と驚嘆したといわれている。 

 実際上、現在我々の前の甲骨文字の羊という字はアイディア法から言うと形で局部的な特徴を捉えているばかりでなく、現代の思考方法である「抽象化」を具現したものである。

 無論一種の芸術的思考、更にシンボル化の成果で、まさに21世紀の新しいコンピュータインターフェイスを啓発するものでもある。羊の字は一つの部首の字でもある。たとえば漢字の中では、祥、養、庠(古代の学校の意),烊(溶けるという意味)、氧(酸素)、漾(ゆらゆらたゆとう)、佯(偽る)、详、痒、翔など皆羊がその主体となる字であるか、或いはその発声としている。

  羊の性格は温順でおとなしく、食に群がり人と争わず、さらに人を傷つけることも出来ない。羊はまた肉として食に貢献し、皮は衣になり、腹がふくれ、暖にもなる。よって古人はその実用性と功利から羊を大吉、大利のいいことの兆しとみなした。


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2010年5月11日火曜日

「羔」と書いてなんと読む

 先日「徹子の部屋」に宮崎美子さんが招待されて、彼女の漢字一級の知識を披露されていた。

    彼女がクイズ番組などで活躍して知るのを見て、その明るいキャラクターもさることながら地道な努力が垣間見え、好感度の高いタレントだなと常々感心している。

 さて今日は彼女がその番組の中で披露していた、「羔」という字について少し補充してみたい。

 「羔」と書いてなんと読む? 実に難しい。「こひつじ」と読むらしい。これは当て字ではないかと思うほどである。しかし、「漢字の暗号」によると、どうもそうではないらしい。

子羊_甲骨

 これは甲骨文字、金文文字、小篆、楷書体をしめしたものであるが、唐漢氏の説明によると、羊を火に掛けてあぶっている状態を表しているということで、実に今から3500年前にすでにこの字は発明されている。しかしこれだけで子羊のことを言うようになったのはもう少し後世になってからの話だそうである。

  

子羊_金文
 羔は羊、すなわち子羊のことである。甲骨文字も小篆も少し違った形はしているが、いずれも下部には火の記号が付け加えられている。甲骨文字の下部は象形の形をしているが、楷書になると火の形は変わって4つの点に変化している。

 楚辞の中にもこの食べ方を体現した記述がある。子羊をあぶり焼きにするのは古代人にとって独特の方法であっただけでなく十分重要な位置を占めていたために、古代人は羊の下に火を加えて「子羊」という字にしたのであろう。

子羊_小篆
もっとも、字が作られた最初のころは、古代人も決して「羔」をすべて子羊をさしていたわけではなく、この表示は羊を火の上であぶったことだけに用いたのだろう。しかし実際上焼肉をするのに子羊を食材として用いたことは容易に考えられる。そして次第に「羔」が子羊のことをさすようになったものと考えられる。

 これは中国での食文化の上での話である。羊を丸焼きにする習慣などない日本で、この漢字をそのまま「こひつじ」と読ませるのはいささか難があるような気がするのだが・・。日本では「こひつじ」という読みは辞書にはないらしい。どの辞書(私の持っている)を引いても出てこない。




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