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2012年7月28日土曜日

古人の主食:粟、米、麦、稷、豆 総称の「禾」の起源、由来


中国は東アジアの文明の中心である。

  世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。
 中国は東アジアの文明の中心である。また世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。この歴史的遺物は、有史以前に農耕文明が燦然と輝いている存在であることを示している。

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
 その頃は主食は北方の地域では、稷(きび)や粟であったろう。これらの作物は乾燥に強く、干上がることの多かった黄河流域の比較的北方の地域ではよく作付されていたであろう。ところが南方即ち長江流域では既に米の栽培がなされており、水田も多く広がっていたと考えられる。それぞれが植えられ始めた時期はそれほど違ってはいないだろうと考えられている。


古代人の主食は「禾」

 禾という字の甲骨文字、金文は皆熟した穀物の様である。下部は根、中部は葉、上部は一方に垂れた穀物の穂である。古文の字を作った意味は見て分かるように、穀物で、まさに完全な形状をなしていて、本義は穀物を表す。 説文によると、禾を解釈して、よく実った穀物のこと。二月に生え始め、8月に熟し、時を得るうち、これ禾というなりとある。


「禾」は五穀の総称


 ここで禾は実際は粟のことを言い、粟を脱穀したものをいい、これが北方地方では古代では主食であった。これは猫じゃらしが穀物として成功したものだ。中国東北地方の旱作農業地域では主要な糧食であった。

 こうして何千年のうちに、農耕技術も発達し、貧富の差が生まれ、村が邑となり、大きな邑連合が形成され、都市国家を形成するようになり、殷商の時代に突入して行く。 
殷商の時代には広くいきわたり、産量が最大の糧食作物になっていた。秦の時代には禾は穀物を指し、もっぱら粟のことを指していた。

  漢字が甲骨文から金文に至るまで一つの例外もなく、歴史的証左で、一字一字農耕文明の残した暗号が数多くあり、農業技術の一歩一歩の推進を示している。また、同時に華夏民族の農業の文明の歴史過程を反映したものであることが分かる。 

「漢字の世界の起源と源流を探る」のホームページに戻ります。

2012年7月12日木曜日

「黍」酒の原料:漢字の起源と由来 稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を表す


「黍」と「稷}

おなじキビでも漢字に書くと「黍」と「稷」。 「漢字源」によると、
  • 「黍」:穀物の名。実は赤、白、黄、黒など数種類ある。北中国では主食にし、飯、粥を作り、酒を醸すのに用いられた。香りと粘りがある。

  • 「稷」:イネ科の一年草。弥生時代に中国から伝来した。茎の高さは1m内外。葉は長く広線形。糯と粳の2種類ある。穀物の長と言われる。

黄酒と白酒

  この黍を原料とした酒に「黄酒」があり、一方高粱を原料とした酒に「白酒」がある。この白酒はアルコール度50、60%というのが一般的だ。飲み方は日本の焼酎の様にお湯割り、水わりと言うのはなく、原酒でかぱかぱ飲むのが常識である。日本流に考えて、「お湯割り頂戴!」なんて言うものなら、馬鹿にされるので、言わない方がいい。自信なければ、初めから「飲めません」と断るのがいい。中途半端な飲み方は、人間も中途半端と思われるのがおちだ。

  日本語では同じ読みの「きび」でも、甲骨文字では全く異なった形をしている。このことは、中国古代では両者は異なる使い方をされていたのではなかったろうか。

引用 「汉字密码」(P212, 唐汉,学林出版社)

漢字「黍」の起源と成り立ち:上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態


 漢字の成り立ち:甲骨文字の「黍」は上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を言う。下部は根で右辺は水を表す。
 「黍」は季子ともいう。皮を取り去った後は、大黄米ともいう。現在では陕西、山西省の北部、内蒙古の少数の旱魃、高地、寒冷地を除きこの種の糧食作物を植えることは少なくなっている。

しかし、黍は上古の時代は十分その地位は顕著であった。黍米は粟と比べ粒が大きくその色は黄色で、成熟した後一筋の香りもある。貴族だけが常食してた。平民は粟飯を食べていた。



黍
 甲骨文字の「黍」は上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を言う。下部は根で右辺は水を表す。小篆の黍の字形が変化し、禾と雨の。説文は「黍」を解釈して、禾に属する粒もの也。 黍は酒にもなり、水の入った穀物。また黍の字の構成中水があり、黍が水をよく吸収することを示している。右の画像は黍の穂である。(ウィキペディアより)


黍と酒


  酒の重要性は食物にも似ていた。古人は飲む酒も酒粕も正に一切食用であった。甲骨卜辞の中に常に出現する一種の酒即ち鬯(古代の酒、黒キビを原料とし鬱金草を混ぜてかもした匂い酒)は香草と黍を合わせて醸した匂い酒である。古人は黍で匂い酒を造った。黍を脱穀後一旦蒸して色が済んだ色になると一種の心や臓腑にしみる香気をもつ。黍を用いて造った酒は広軌が黍飯に比べ、濃厚で人を酔わせる。この為この種の酒は常々個人が祖先の神霊にお供えするために作るものだった。




黍と香り

  黍は無論飯も作りまた酒も作る。皆香りと味はよく、個人は香りという字を作る時黍と甘いという字を組み合わせた。


「黍」は「香」の字の原字

  以降黍の音を簡略化し禾とし、ついに「香」という現在の字が出来た。  黍を蒸す時一種の粘りがある。北方の農村ではいつも正月にはこの大黄米を使って、餅や粽を作り親戚や友人を接待した。この為、「胶」と「黏」の字を表示して、「占」の音で、麦飯の粘りの意味を表す。

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2012年7月9日月曜日

古人は稷を主食としていた:漢字の「稷」の起源と由来

古代人は何を食べていたのだろうか。その主食はなんであろうか?それを解くカギは甲骨文字にあった。これから文字から古代人の生活を蘇らせることに努めていこうと思う。

 古代人は主食は五穀を食べていた。即ち黄河流域の北部の乾燥地帯では、稷(きび)、粟、長江流域では早くから水田が開かれ、大規模な灌漑工事が施され、主食は米であった。この外五穀には小麦、豆等があげられる。豆はどこでも栽培されていたようだが、小麦はむしろ西域から伝わったようだ。



以下は「汉字密码」 (唐汉、学林出版社)より引用

稷は穀物の長

「禾」が穀類の作物をおおよそ指す一方、粟は穀物が成熟後の種子を指すのに用いられる。粟が「谷子」の専用名称になったために、穀物の種子を表すには、今日に至るまでずっと「稷」が用いられている。甲骨文字ではまるで人が穀物の苗をもてあそんでいるような字形である。金文と小篆の「稷」の字は人の形が一つ一つ変わって、採集は一個の形声字に変わっている。説文では「稷」は五穀の長で禾偏と形声からなる。



稷は中国東北地方では最も良く栽培された

「稷」は乾燥にも十分耐え、北方の干からびた天候に適しており、産量も比較的安定する。脱穀後粟飯粥または炊飯は少しさわやかな香りがする。だから、稷は古代先民からは穀物の神のように見られ、五穀の長とみなされた。古人の稷に対する評価は「天下はこれで安定だ。危なくなるはずはない」


古代では稷は農耕文明の中心的存在

中国は元々農業大国を誇り、土地と菱食は立国の本と見立てていた。古人は社で以て土神とし、黍は穀物の神と見ていた。社稷(土地の神と五穀の神)併せて国家の代称の言葉とされた。(社稷は国家という意味がある)漢代の大学者班固は解説して、「人は土地に立つにあらず、穀を食うにあらず、土地広くても、教えるに偏ること出来ず、五穀多くとも、いちいち祭りもできず、故に土地に封じて役所を作れば、土地があること示す。 稷は五穀の長である。故に稷を立て、これを祭る。」この事から稷は農耕文明の中心的な重要な位置を占めている。


農業の発展につれ、「稷」の農作物の中での比重は減少


今日農業の発展、進歩するにつれ、稷の農作物の中で占める比重は次第に小さくなった。しかし社稷が国家の代称ということも、長期に下火になった。北京公園内で明清の両代皇帝が使用してきた社稷坛はよくよく整備され欠けたところがない。

以上引用終わり



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