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2018年10月1日月曜日

華:民族主義の原点、中華の「華」の語源と由来


漢字「華」の起源と由来
 「華」と「花」は同じではない。花」、「華」は機能が分かれ、「華」は多くは抽象的意味を受け持ち、中華民族の仮借を指している。一方、開花の華は即ち「花」と書く。

 一方現在、中国では小学校では、「華夏」という言葉の意味について教育が徹底されているという。この華夏というのは、「中華」の華であり、夏商周の三代の最古の王朝「夏」のことである。中国の子供たちには自分たちが世界最古の文明を維持して持つ、中華民族であり、これまた最古の王朝である夏王朝の末裔であることが徹底されているという。 実際の中身が分からないが、民族教育としても、「社会主義を目指す国」の民族教育としては、もう少し、現代的な、世界の中の中華民族ということに重きを置くべきと考えるが・・。


 さて、今回この「華」という字に焦点を当てる。この「華夏」ということについては、NHKが今年の10月18日の総合テレビで、中井貴一さんがレポート役とした、番組を組んでいた。中国では「二里頭村」というところで、「夏王朝」の宮殿が発掘され、今まで伝説上の話として伝えられていたものが、実在したことが確実になったと伝えている。

引用 「汉字密码」(P136, 唐汉,学林出版社)


 「華」は植物の有性繁殖器官であり、古代には華と書いていた。
华は「華」の簡体字である。図に示すが如く、甲骨文字の「華」の字は、まるで木の上の花が咲き誇っている様子である。華は象形文字である。金文と小篆は大きく変化しているが、その趣旨は変わっていない。上は花や葉が茂っている状態で、下は茎や幹枝が伸びているようである。
 古代、木の上の開いた華を称して「華」となし、地上の植物の花が開くことを「栄」とした。


 先に華があり、後で花が出来た。花はいつごろ出来たのだろうか。南北朝以前の書の中には見られないが、晋代の詩の中に、「一岁再三花」の句が見られ、花の字は晋朝に出現したと云われている。 「花」という字の出現后も、多くの成語の中に華の字を用いる習慣が残った。



 「花」、「華」は機能が分かれ、「華」は多くは抽象的意味を受け持ち、華彩、華麗の様に使われている、又
「華夏、華裔」など、中華民族の仮借を指している。一方、開花の華は即ち「花」と書く。
 花の字は草かんむりと化けると書く。これは会意形声字である。化けの字は甲骨文字中では一人が正立、一人は倒立した二人の人間を表現し、人の生と死の変化を示す。花は開いて落ちる、盛んなること敗れることがある。 花は化けるの音符を用い音と意味を表す。
 
「漢字の世界の起源と源流を探る」のホームページに戻ります。

2016年7月26日火曜日

鼎にまつわる故事

鼎とは三つの足と二つの耳を持つ金属製の釜のことで、古代中国では祭祀、料理、表彰の具、釜茹での刑に用いられた。通常は3本足であるが、方形の鼎は3本ではなく4本の足を持つ。




 左の写真はいずれも中国の殷墟跡博物館に陳列されていた円形、方形の鼎である。
これらの青銅の鼎は、大きさはそれほど大きなものではないが、同じ殷墟の正面には非常に大きな鼎が展示してあった。この殷墟のものは、殷や周の時代のものであり、紀元前1500年のものである。
 下の写真は中国安陽にある「殷墟王陵遺跡」の正門近くに安置されている超大型の方形鼎である。これそのものが遺跡から発掘されたものかはわからない。ただし遺跡内にはかなり大きな鋳型跡が残されていたので、殷の時代にはすでにかなり高度な鋳物技術が発展していたであろうと想像している。
 中国ではこの殷が周によって亡ぼされた後、数百年を経て春秋戦国時代に入り孔子などの諸子百家の活躍の後ようやく秦の始皇帝による天下統一が完成する。



 鼎は中国の王朝においては、非常に大切にされていた。日本でいうとさしずめ「三種の神器」にあたり帝位の象徴とされてきた。
 中国に古くから伝えられている成語に「鼎の軽重を問う」というのがある。この意味は「帝位を狙う下心を持っている」という意味であり、これが転じて、「相手の内情や実力を見透かして、その弱みに付け入る」の意味にもなっている。  この成語が生まれたのは周時代の末期のBC600年ごろ楚の莊王が周王と洛陽郊外で対立していたころの逸話から生まれている。
 当時楚の荘王は春秋の五覇に数えられるほどの実力を持っていたし、天下に対する野心を持ち、周との一戦を構えようと虎視眈々と機会をうかがっていた。荘王はかねてから覇権のシンボルと言われ、周の王室に伝わるという「鼎」というものについて知りたかったので、使者にその軽重を尋ねた。使者は「鼎」について、それが夏の禹王が諸侯に命じて銅を供出させこれを用いて鋳させたものであり、朝廷が夏から殷にそして周に移ってからも700年余り周で受け継がれてきたことをとうとうと述べた後、「そもそも鼎の重さが問題になるものではない。要はそれを持つ者の徳が有るかないかが問題なるのである。鼎は常に徳のある所に移ってきており、周は衰えたといえども、鼎を伝えてきたことは天命の致すところであり、したがって鼎の軽重など尋ねられるいわれはない」と突っぱねた。荘王も力づくで奪うわけにいかず、兵を引き上げたという逸話が残っている。
 ところでこの鼎の行方は、周が滅びた後秦に運ばれる途中、泗水に沈んだといわれている。
    以上「中国故事物語」(後藤、駒田、常石著 河出書房新社)参照 

2012年6月19日火曜日

今日は夏至:「夏」の起源と由来


夏至

今日は夏至。一年中で一番昼間が長い日だ。これは地軸が黄道に対し23.5度傾いているために起こる現象。 

夏は字からは、たしかに暑くてたまらんという感じは伝わってくるが・・。


 春の後は夏である。甲骨文字の夏は、4肢を大きく張った人の首の形である。金文と小篆は甲骨を引き継いで、構造上は基本的によく似ている。「あたかも人が暑くて蒸していて、手足をあらわにしているのに似ている」という人もいる。しかしこれは主観の問題だからなんともいえない。


 真夏には手足を出して、かつ大きく広げた格好が随所にみれる。まるで人々は熱い手足を皆を伸ばす所がないようである。夏の字はこの意味を取って字を作った。夏の本義は暑い天候であるといえる。 


集韻の書には夏の字は古文では甲骨文字の是を受け継いだものである。つまり是の本義は夏の日の直射日光をさしている。これにより「是」は夏至の意味が引き出されてくる。どうもこのあたりの文脈がはっきりしない。しかしいずれにせよ、夏という字は暑い夏を表している。このことから更に拡張されて、夏は物が大きく育ち繁茂するというところから大きいという意味を派生した。

 漢族では自称華夏という。即ち夏商周の三代をいう。夏の日の夏と華夏の夏の字形は同じであるが、字の出来た初意ではない。「夏」は大きいという意味で、華夏は大いなる中華ということで後の世の人が付けくわえたものだ。

夏の時代


さて中国古代には伝説の時代ではあるが、「夏」という時代が存在したといわれている。

 「夏」 (BC2000年ごろ~BC1500年ごろ)という名称は夏王朝の自称ではなく、殷王朝が先代の王朝を称して夏王朝といったものである。因みにその殷王朝も自称ではなく、その後の商王朝がつけたものである。

 夏王朝自体は長い間、神話の世界として語り続けられてきたが近年の考古学の手法の進展からこれは神話の世界ではなく実在したものという説が、ほぼ確定的になっている。

 ウィキペディアによるとこの「夏」という呼称について、「漢字学者の藤堂明保は、「夏」の字を甲骨文字・金文からの形成の変遷を分析した上で、「大きい人(鎧をつけた大柄なひと)」という美称ではないかとの説を提出している。」この説については唐漢氏も同じように大きい人というところにその呼称の由来があるといっている。

 事実現在でも華北の人は一般的に背が高いといわれている。 また夏民族は父系制であったといわれている。そしてその祖先は遊牧民族で、鉄器を使用して、周りの部族を制圧していったという。この夏王朝の成立するまでは、母系制社会がこの辺りで支配的であったというが、どのようにして駆逐されたのか興味は尽きない。殷朝になると遺跡も多く、それなりの遺構も出土しているので、確定はされてきている。しかしながら、この夏王朝にしても殷王朝にしてもどこから来たのかについてはまだ定かではない。


「漢字の起源と由来ホームページ」に戻ります。

2012年3月26日月曜日

「酒」よもやま話と漢字「酒」の起源と由来

 ここでは、少し趣向を変えて「「酒」のよもやま話と漢字「酒」の起源と由来」について触れたいと思うので、酒で一献傾けるつもりでお付き合い願えたら幸いです。

中国の酒
 中国の酒は地域ごとに製造機法と独特の味,香りを持っていてその種類と名前が多様で、約5,000種以上に上ると云われている。 中国酒は製造方法により大きく分けて白酒,薬味酒,黄酒に分類される。

白酒
 白酒は一般蒸留式透明な色の酒でよく白干だと呼ぶ。酒の主原料は高粱であり、とうもろこし、小麦、エンドウなども原料で使われる。 蒸留式技法で製造される白酒のアルコール度数は38-60%間で、透明な色を持っている。 代表的な酒としては古井貢酒,五粮液,茅台酒,孔宝家酒などがある。一般的に香りがきつく最初は腰が引けてしまうが、慣れるとこの「くせ」に嵌ってしまう。

 薬味酒は白酒に色々な漢方薬などを添加して、糖分を含む酒で製品の類型はリキュール酒に属する。 代表的な酒としては五加皮酒、竹葉青酒などがある。 


黄酒
 黄酒は米を原料とした醸造酒で、揚子江南部が主要生産地で紹興酒が有名である。この為中国南部では紹興酒が好まれ、北部では白酒が多く呑まれているようだが、最近では、ビールの需要が大きくなってきている。

ビール

 ビールは青島ビールが有名だが、ハルピンビール等地産のビールが結構販路を伸ばしている。近年は宴会では白酒が結構呑まれるが、日常生活ではビールがシェアが伝統的な酒より需要は大きくなていると思う。

 私も元来酒が嫌いな方ではなかったので、中国ではいろいろの酒を飲んだ。押し並べての感想は、

中国の酒の特徴

  1. 中国酒は一般的に製造過程に独特の香りを持っている。
  2. また、どの酒もそこそこの品質を保っているように思える。つまり中国人は酒であまり嘘をつかないのでは?(酒の上でという意味ではなく)酒そのものは真面目に取り扱っているように思えるという意味だ。
  3. 千差万別とは思うが、そこそこの酒を安く飲めるということだ。びっくりしたのは天津の地酒(白酒)を500cc2元で替えたということものあった。日本円で30円である。

漢字の「酒」
さて漢字の「酒」について立ち返って見よう。

    
「酒」これは会意文字であり、形声文字でもある。甲骨の字の酒の字は「酉」の字である。即ち酒瓶の象形文字である。両側の曲線は酒が溢れ出している様を表し、また酒の香りが四散しているとも理解できる。金文の酒の字は水の字を用いて、酒が大きな酒瓶に入った液体であることを強調している。

   小篆の酒は左側に水の字を加え、液体であることが強調されている。右辺の「酉」は盛器を表示している。楷書は小篆を引き継いでいる。


酒の文化の浸透
 酒を飲むこと及び酒文化が盛んになると強く人の精神を恍惚とせしめようになる。上古先民の意識の中では、酒は人々の虚ろで幻想の世界に入るのを助け、一種の人と神の関係を橋渡しする霊的なものを備えていると考えるようになった。その為に祝い事、神霊の祭祀から兵士の出征等すべてに酒を離れることが出来なくなった。酒ある方に祭りあり、酒ある方に宴ありの状態に達するまでに至った。

 しかし上古の時代には先民たちは未だ酒を十分飲むことはなく、酒は医療や病気に用いていた。これは□(医の旧字)の字には酉がつく理由である。
  殷商時期、酒は人々が大変好んだもので、祖先祭祀、出征の時、愛を交歓する全て時に時酒から離れることはできなかった。アルコールは殷商民族のプライドを実際以上に誇大にしたため(一種のアルコール中毒)、征伐は頻頻で残酷であった。アルコール中毒の為出産率が低下た。「醜聞天にも聞こえた為天は降りて来て殷を滅ぼし周に取って代わった」と言い伝えられている。つまり殷は酒で滅んだということだろうか。殷の紂王の淫乱から生まれた諺(成語)に「酒池肉林」がある。
酒にかかわる故事・成語がより詳しく展開されています



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