古代人は主食は五穀を食べていた。即ち黄河流域の北部の乾燥地帯では、稷(きび)、粟、長江流域では早くから水田が開かれ、大規模な灌漑工事が施され、主食は米であった。この外五穀には小麦、豆等があげられる。豆はどこでも栽培されていたようだが、小麦はむしろ西域から伝わったようだ。
以下は「汉字密码」 (唐汉、学林出版社)より引用
稷は穀物の長
「禾」が穀類の作物をおおよそ指す一方、粟は穀物が成熟後の種子を指すのに用いられる。粟が「谷子」の専用名称になったために、穀物の種子を表すには、今日に至るまでずっと「稷」が用いられている。甲骨文字ではまるで人が穀物の苗をもてあそんでいるような字形である。金文と小篆の「稷」の字は人の形が一つ一つ変わって、採集は一個の形声字に変わっている。説文では「稷」は五穀の長で禾偏と形声からなる。
稷は中国東北地方では最も良く栽培された
「稷」は乾燥にも十分耐え、北方の干からびた天候に適しており、産量も比較的安定する。脱穀後粟飯粥または炊飯は少しさわやかな香りがする。だから、稷は古代先民からは穀物の神のように見られ、五穀の長とみなされた。古人の稷に対する評価は「天下はこれで安定だ。危なくなるはずはない」古代では稷は農耕文明の中心的存在
中国は元々農業大国を誇り、土地と菱食は立国の本と見立てていた。古人は社で以て土神とし、黍は穀物の神と見ていた。社稷(土地の神と五穀の神)併せて国家の代称の言葉とされた。(社稷は国家という意味がある)漢代の大学者班固は解説して、「人は土地に立つにあらず、穀を食うにあらず、土地広くても、教えるに偏ること出来ず、五穀多くとも、いちいち祭りもできず、故に土地に封じて役所を作れば、土地があること示す。 稷は五穀の長である。故に稷を立て、これを祭る。」この事から稷は農耕文明の中心的な重要な位置を占めている。農業の発展につれ、「稷」の農作物の中での比重は減少
今日農業の発展、進歩するにつれ、稷の農作物の中で占める比重は次第に小さくなった。しかし社稷が国家の代称ということも、長期に下火になった。北京公園内で明清の両代皇帝が使用してきた社稷坛はよくよく整備され欠けたところがない。
以上引用終わり
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