気ままな散歩

2012年6月30日土曜日

明日から7月、「七」の語源と由来は如何に

明日から7月

    七の語源と由来は、手まね語から来る象形文字


 7は6と8の間の整数である。甲骨文の7の字もまた手まね語から来るデッサン絵である。三つの指を曲げて、人差し指を前に伸ばし、親指を直角に伸ばした後拳を胸の前に抱える。即ち横長縦短の十の字である。  金文の七の字は甲骨文を受け継ぎ横に長く書き、人差し指と手の肘で直線を作る。縦は短く書き、或いは親指と手の背で縦線を形成する。小篆は美観の為丸く潤いを持たせ、十と区別する。縦の線画を曲げて伸ばし、楷書は隷書から変化する過程で七となった。

 日本では子供たちが戦争ごっこをする時手でピストルの格好をつけ、「バンバン」とやっていたが、ちょうどあのピストルの形がここで言う「七」である。数字の七は両手を使う。中国では10までは片手で表現できる。とすれば、日本でよく言う「いくらだ?」「片手だ」という表現はないことになる。

七の本義は

 七の本義は、『流血 七上八落(顔中血だらけで、七転八倒)などの様に数字の七である。また序数に使い第7番目を表す。白居易の如く「77日長生き、夜半人なく独り言」。

領収書などでは
 7の大書は「柒」または「漆」と書く、漆の字は異体字で、「柒」は漆の木をさす。または漆の木の汁を指す。「柒」は音の仮借で、七の大書の時にもっぱら用いる。


辞書で「七」と「八」の付く成語・慣用句

辞書で「七」と「八」の付く成語・慣用句を調べると、12個ほど見つかったが、不思議なことに全て後ろ向きの意味の言葉ばかりであった。思わず「何でやねん。」 民族性の違いか? 因みに一つの例として上げてみた。日本の「七転八起」の様な前向きの言葉はないのだろうか?しかし、ここはあまり難しく考えないで、言葉の雰囲気を楽しんで戴きたい。
  • 七病八痛  
  • 七长八短  
  • 七搭八搭  
  • 七颠八倒  
  • 七零八落  
  • 七扭八歪  
  • 七拼八凑  
  • 七七八八  
  • 七上八下  
  • 七折八扣  
  • 七嘴八舌  
  • 七死八活  

女の節目は七の倍数、男の節目は八の倍数


なんと中国の黄帝内台経という書き物に書いてあって、今でも通用するとこがあるというんじゃ。こりゃすごーい。このサイトにぴったりの話
http://www.yomeishu.co.jp/x7x8/baisu/index.html 

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2012年6月29日金曜日

漢字という呼称の由来について


 今日は甲骨文字から少し離れて、我々が普段漢字と呼んでいる文字が、どうして「漢字」と言われるようになったか、その呼称の由来について触れてみたい。
 中国のスーパーに行くと、売り出しの台の上に、まるでピーナッツでも売られているように、小さい小さい本が山と積まれている光景にぶつかる。今日はこうしてい売られていた豆本に面白いことが書かれていたので、紹介したい。因みにこの本の値段は3.9元であるから、60円ぐらいのものである。そして、この本の大きさは10cmX7.5cmX1.2cmである。値段は安いが内容はいい加減ではない。
 少し長いが以下が本の内容の趣旨である。



参考文献:「汉字」(刘永升主编,大众文艺出版社)より
 我々は、楔形文字はその形が楔形であるからその名前が付いたことは分かっている。ならどうして漢字と呼ばれるようになったのだろう。だが、「漢」という字からその真相が分かるに違いない。
 漢の左辺はサンズイである。早くから金文、小篆は楷書に至るまでずっと変化してきたが、漢という、形符は終始変化していない。明らかに、「漢」は水と密接な関係がある。確実に言えることは、漢の字と「漢水」と呼ばれる川と関係があるということである。「漢水」は長江の最長の支流の一つであり、漢江とも呼ばれる。それは、西南部に端を発し秦嶺と大巴山の間の漢中盆地を通り、しかる後湖北に入る。武漢付近で長江に流入する。漢水の全長3000km。
 戦国時代は、漢水流域は秦と楚の両国に分かれ、人々は通常この地区を「漢中」と呼んだ。

 2000年以上前、劉邦と項羽は群雄を率いて秦を倒した。当時項羽は西楚覇王と号して、実力は強大であり、劉邦はその敵ではなく、只項羽に封を分け与えられ、漢中地区で「漢中王」となった。深謀熟慮の劉邦はこの豊かに富んだ民と守り易く攻めるに難しいへき地を根拠地とした。

 項羽と天下を争ったことは、歴史上「楚漢相争」と称せられる。最後に劉邦は「明修桟道、暗渡陳倉」の策謀を用い、項羽を打ち破り、皇帝の宝座に上り詰めた。劉邦は帝と称する後、秦嶺、漢水の地を懐かしんだ。そして漢中の滋養を想い、自己の建立した新王朝を「漢」と命名した。


 漢朝は秦朝の後を引き継ぎ、中国史上空前の繁栄した強盛の封建王朝であった。それは、集権的な厳密な官僚体制を通して、中央統治を行い、当時の世界のローマ帝国と並ぶ列強国になった。漢朝時代、中国の政治経済、軍事、文化、外交は空前の繁栄と発達を遂げ、人の和はよく通じ、四海皆臣服し、天下帰心、対周辺夷邦に対し、当漢朝後も後世まで、深遠な影響を与えた。

 将に紀元前後から400年以上も王朝は繁栄し、中華民族のはるかなる源流、深く確固とした伝統・・孔子の学説は主導国家の意識形態を開始し、礼楽教化は統治の重要な手段となり、文官制度は初期の構築を完成・・を形成した。この文明冨強にあって、大きな国家国土で、大統一的国家観念は人々の間に深く入り、ついに不可逆的な中国歴史発展の主流をなした。

 正にこの時期、漢朝人と戦った匈奴人は漢軍の士兵のことを漢子と呼んだ。面白いことに漢子とは専ら漢軍の士兵のことを指し称していたものである。そしてこれは次第に豪勇、漢朝軍隊の英勇善戦の男子の敬称の敬称となった。こうして「漢」の字は男性に拡張され、漢子の中の優秀なものを「好漢」と呼び、中国国民の間でもずっと男性の高い評価となった。漢代及び漢代以降、一部の少数民族、例えば契丹人、蒙古人辺境地区のその他の民族は往々にして中原民族を「漢人」とよぶ。これが現代の漢族と言われるゆえんである。

 この事から、夏華神州の一切の事物は皆「漢」の烙印を押されることとなった。従って、「漢」の字を構成要素とする言葉は皆漢水流域と関係があり、漢朝、漢族と何らかの関係を持っている。今日に至っても、国際上中国の文化研究の学問は「漢学」と称されている。この事からして、中国の文字は「漢字」と称されるようになったのも理にあった事情である。
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2012年6月28日木曜日

殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり  

 殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり

殷という国は、紀元前1600年頃、今の中国の河南省の辺りで栄えた連合体国家であった。殷という国名は殷の人々自身がそう呼んでいたのではなく(むしろ彼ら自身は自分のことを「商」と呼んでいたようであるが)、これを滅ぼした周人がこの商邑という国家連合をさげすみの心で「殷」と呼んだということである。

 その心は「殷は国の腹全体に膿がたまった国」という意味だ。

  因みに殷の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。

殷という字の解析

  「殷」これは会意文字である。甲骨文字の「殷」の字は左辺はおなかが突出した人間の形である。右辺は今まさに手が鋭い針の形ものを持っている形である。両形の会意文字で、針を以て人の腹を指していることを表示している。疾病を治療する意味である。金文の「殷」の字は、甲骨文字を引き継ぎ、小篆もまた金文を引き継いでいる。文字が一歩一歩変化している中で、楷書の「殷」とかくようになった。


広大な王墓の門

殷の本義は手術用の石針で切り開き、血を放出する

「殷」の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。この種の篩治療手段は3つ効果:その一骨ばり、竹針、金属バリを用いて刺治療、その二は石片、角骨片を用いて急性のカタルを切ったり、放血治療したり、第3には外科手術の切開に用いたりした。

殷は針または放血のことで、放出した血は往々にして赤黒いものである。この為殷には黒紅色の意味もある。《左伝・成公二年》にある如く、「左輪朱殷」は即ち左の車輪は血で染まって赤黒かったという意味である。針石で、化膿部を破った時に声が出た。だから「殷」は声の様な言葉にも見える。「Yin」と読む。《诗·召南·殷其雷》の殷其雷は雷の音殷殷としてのという意味である。 



殷朝の国王の墓に埋葬されていた戦車と人馬
周から見れば
殷は国の腹全体に膿がたまった国

 「殷」も周人が商を滅ぼした後、周人が商王朝に付けた蔑視的なあだ名である。意味は「商王朝の統治者は飲んだくれで色に溺れ。王国全体が腹に膿がたまった病人のようだ。周人はイシバリを手に取った医者で、彼らに最初の手術をした。だから周人は敵を恨み商を殷とよんだ。


周人が殷を滅ぼした後、商王国が数百年架かって作り上げ、蓄積してきた大量の財宝を掠め取った。だから、「殷」は膿の溜まった凸部,腫れという意味から拡張して盛大なとか多いという意味が出てくる。現代中国語の中で「殷」は財物について、充足していることを指す。また感情については「深く厚く」を指す。殷切、殷憂のとおりである。また更に拡張して、熱情、周到の意味もある。殷勤の言葉の様なもの。

 

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2012年6月26日火曜日

漢字「信」の起源と由来を甲骨文字に探る:人と言う字と口からなる会意文字

信の言葉の成り立ち

 信は会意文字である。金文は人と言う字と口から出来ている。小篆は強調を明確にした字になっている。口の上に舌を加え、人と言の会意文字になっている。楷書はこの関係から「信」となった。
 白川博士はこれは「口」ではなく、「サイ」という神のお告げを入れる箱だと解釈する。



信の本義

  信の本義は二つある。一つは使者のことで、《字捕》は古くは使者のことを「信」という。二つに曰く「消息」のことである。


論語の中での「信」

  信の字が道徳の領域に入るに当たり、「論語・公冶長」の如く「その言を聞く而してその行いを信ず。」信而有征(確実である上に証拠もある)、信史(信用できる史実)、守信(約束を守る)、威信(威信・信望)の言葉では皆真に為すの意味を持つ。また拡張されて、信仰、信奉の意味も持つ。「信教、信仏」等である。《广雅》は信は敬ことと解釈する。述べてなさざれば、信而して古くなる。

   儒家の道徳の範疇内では、信は誠実の意味はない。さらに「西洋人が「モーゼの十戒」の道徳標準にみるような「真実を話せ」の様な意味も含んでいない。為に実用主義的道徳の範疇の、「忠、孝」は「真実の」と敢て言うことはできない。

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2012年6月22日金曜日

中国人と儒教の根幹「仁」の起源と由来


中国人の儒教意識 

司馬遼太郎氏とドナルド・キーン氏の対談本「日本人と日本文化」の中で、「日本人のモラル」について語り合った個所で、司馬氏は中国人の儒教意識について、「中国人の場合は、・・・非常に感心するのは、彼らは日本のいかなる儒者よりも儒教的である。そう思うのは、つまり信というものをひじょうに尊びますね。裏切らないです。」と述べている。

現実の受け止め

 しかし、私の感想は少し異なる。私の短い中国滞在と旅行の期間、実に残念だが、正直言って裏切られ通しであった。司馬氏は「彼ら(中国人)は、頼むのは同胞だとか・・・友人だとか横の関係である。」と言っている。司馬氏がこの経験をしてから、既に20年も経っていることもあり、司馬氏は著名な作家ということもあり、司馬氏の様に重く受け止められていないのかも知れないが、私には残念な結果である。
それに儒教は基本的に君子論である、君子の庶民支配の方法論を述べたものであり、解放後の中国で生き続けられるはずがないと思う。しかも中国人はこの20年の間に高度成長を経験し、改革開放路線の下で市場経済論理がまかり通っている中では、司馬氏の言うように儒教的な思考が今なお生き続いているのか少し疑問である。

儒教の根幹「仁」

 さてその儒教の根底をなす思想に「仁」という言葉がある。儒教が生まれたのは、BC6世紀ごろで、甲骨文字が生まれたのはBC15世紀ごろなので、両者の間には千年の開きがあるので、甲骨文字で、儒教の思想を語ることは論理的に無理がある。しかし、当時の社会の中で、人と人の関係をどうとらえていたかの一面を知る上では一つの材料となる。

「仁」の由来

 両形は会意文字である。仁は他でもなく、千個の心眼を持っている或いは千種の考えの聡明な人を表している。「仁」の本義はそれだけ心眼の多く、考えること密で、因みに心を砕くもの人を治む優れた人を示している。それだけ小人、下等な人に対して、上人、大人を示している。古人はこれを称して君子という。孔子は仁者と呼ぶ。
 「上流社会の出身の人で権力があり、権勢のあるものは下人を指揮することが出来るものの、すべてが「仁者」というわけではない。」彼らはまだ須らく一種の品徳を備えている。即ち「仁者人を愛す」の品行は「成仁」となりうる。冷酷で薄情で恩が少ない人、巧みな話しぶりと人当たりの良さでへつらう輩は心を砕いても「仁者」ではない。 

仁者とは

 儒家の論述に照らして、「仁者」は「敬服させる位置にいて、愛を喜捨し、進退程よく、応対程よく、物腰もよく、事を処理するのにきちんとしており、徳行が様になっており、声や雰囲気が気持ちよく、動作が穏やかで、言葉に条理がある」これらが一連の品行である。これが孔子の心の中にある封建社会の中の「上人(古代帝王)」達が備えていたいわば徳行である。明らかに車引き、酒売りの輩、田を耕し、野ら仕事の連中、及び荒っぽい虐待狂者のごときものはこれら徳行を少しも備えることが出来ないものである。
これでは私は仁者にはとてもなれそうにもない。 


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2012年6月19日火曜日

今日は夏至:「夏」の起源と由来


夏至

今日は夏至。一年中で一番昼間が長い日だ。これは地軸が黄道に対し23.5度傾いているために起こる現象。 

夏は字からは、たしかに暑くてたまらんという感じは伝わってくるが・・。


 春の後は夏である。甲骨文字の夏は、4肢を大きく張った人の首の形である。金文と小篆は甲骨を引き継いで、構造上は基本的によく似ている。「あたかも人が暑くて蒸していて、手足をあらわにしているのに似ている」という人もいる。しかしこれは主観の問題だからなんともいえない。


 真夏には手足を出して、かつ大きく広げた格好が随所にみれる。まるで人々は熱い手足を皆を伸ばす所がないようである。夏の字はこの意味を取って字を作った。夏の本義は暑い天候であるといえる。 


集韻の書には夏の字は古文では甲骨文字の是を受け継いだものである。つまり是の本義は夏の日の直射日光をさしている。これにより「是」は夏至の意味が引き出されてくる。どうもこのあたりの文脈がはっきりしない。しかしいずれにせよ、夏という字は暑い夏を表している。このことから更に拡張されて、夏は物が大きく育ち繁茂するというところから大きいという意味を派生した。

 漢族では自称華夏という。即ち夏商周の三代をいう。夏の日の夏と華夏の夏の字形は同じであるが、字の出来た初意ではない。「夏」は大きいという意味で、華夏は大いなる中華ということで後の世の人が付けくわえたものだ。

夏の時代


さて中国古代には伝説の時代ではあるが、「夏」という時代が存在したといわれている。

 「夏」 (BC2000年ごろ~BC1500年ごろ)という名称は夏王朝の自称ではなく、殷王朝が先代の王朝を称して夏王朝といったものである。因みにその殷王朝も自称ではなく、その後の商王朝がつけたものである。

 夏王朝自体は長い間、神話の世界として語り続けられてきたが近年の考古学の手法の進展からこれは神話の世界ではなく実在したものという説が、ほぼ確定的になっている。

 ウィキペディアによるとこの「夏」という呼称について、「漢字学者の藤堂明保は、「夏」の字を甲骨文字・金文からの形成の変遷を分析した上で、「大きい人(鎧をつけた大柄なひと)」という美称ではないかとの説を提出している。」この説については唐漢氏も同じように大きい人というところにその呼称の由来があるといっている。

 事実現在でも華北の人は一般的に背が高いといわれている。 また夏民族は父系制であったといわれている。そしてその祖先は遊牧民族で、鉄器を使用して、周りの部族を制圧していったという。この夏王朝の成立するまでは、母系制社会がこの辺りで支配的であったというが、どのようにして駆逐されたのか興味は尽きない。殷朝になると遺跡も多く、それなりの遺構も出土しているので、確定はされてきている。しかしながら、この夏王朝にしても殷王朝にしてもどこから来たのかについてはまだ定かではない。


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2012年6月18日月曜日

「ますらおぶり」と「たおやめぶり」の起源


日本人と日本文化

 最近、司馬遼太郎に嵌っていることは書いたが、今読んでいるドナルド・キーンさんと司馬遼太郎の対談本「日本人と日本文化」(中公文庫)は実に面白い。その中で二人が日本人の「ますらおぶり」と「たおやめぶり」について語っている。


たおやめぶり

 司馬さんは、日本人の気質のベースには「たおやめぶり」があると主張している。このたおやめぶりを漢字で書くと手弱女振りということになるらしいが、字面から言うといかにも軟弱な感じが伝わってくる。そのまま、言い換えると軟弱、優柔不断、内省的などとなるが、彼がいわんとしていることは、決して卑下して言っているのではなく、むしろ優れた気質であるといっている。 一方、「ますらおぶり」とは、剛直、合理的、決断が早い、男性的となると思うが、何か正しいことを守りぬくという点で、「ますらおぶり」の人はくるっとどこかに転換してしまっているのに、「たおやめぶり」の人は頑固であるといっている。いい悪いはべつとして、これは民族の方向を決定する上できわめて重要である。

民族の言語、気質と気候

 わたしもかつて中国に居る友人と討論したことがあったが、日本語そのものが実に女性的ではないかと感じている。そしてその言語、民族の気質を作り上げたものこそ「気候」だろうということで、意見が一致した。日本の気候は実に女性的だ。細やかで、繊細でしかもしたたかである。気候がしたたかというと変に聞こえるかもしれないが、要はしぶといのである。変化するにもなかなか変化しない。その点中国の気候は大陸性気候で実に男性的つまり「ますらお的」である。実に単純で、はっきりしている。これはシンガポールでも、南太平洋でもそうであった。シンガポールや南太平洋の初頭の気候は海洋性気候で穏やかであり、中国のそれとは異にするが、それでも、なお男性的である。雨の降り方でも日照のあり方でも、降るとなると土砂降り、わずか2、30分も降ればぴたりとやんで、ぎらつく太陽が顔を出す。最近では日本でもゲリラ豪雨と呼ばれる現象がでているが、日本の場合そう簡単には降ったり止んだりしてくれない。

 因みに中国語には「ますらおぶり」とか「たおやめぶり」という語彙も当然の如く存在しない。ますらおで辞書を引くと「男子漢」「大丈夫」「好漢」という約が見つかった。また「たおやか」に対しては「優美」「閑雅」という言葉が見つかったが、いずれにしても日本語のこの語彙とはかなりの開きがある。 

日本の男性作家と女性作家

 日本の文学史上、基本的にはたおやめぶりで、万葉集、芭蕉、明治初期など時代・時代の変わり目の時に「ますらおぶり」の文学が現れるが、すぐにもとの「たおやめぶり」に戻ってしまう。

 したがって、日本の文学には「私小説」的なものが多いのである。私の勝手な心証であるが、この私小説的なものを書く作家に、意外と男性が多く、逆に女性作家の方に、ますらお的なスケールの作品を書く人が多いのではないかと感じている。長い間虐げられてきた女性は自ずと目線が下からの、社会の仕組みそのものに向けるようになっているが、男性の場合、甘やかされて育っているのか、どうしても自分中心の目線つまり「俺が俺が」の目線になってしまっているのではないだろうか。この議論少し乱暴かもしれない。

 私の尊敬する作家は、山崎豊子さんである。


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2012年6月16日土曜日

「危」の本義は危険


日本の危機は国民の危機?

 日本がいろいろな面から考えて、まさに危機的状況に直面しているといわれて久しい。状況が危機的なこともよく分かるが、それよりももっと危険なのは、日本の支配層(日本を実質的に支配している層)が、この期にいたっても、未だに我田引水的な議論を繰り返しているように見えることである。
 日本の財政危機が叫ばれているが、建前論ばかり横行し、自ら身を削ってことを進めようという気配が見えないばかりか、そのリスクは国民に転化しようとしているように思える。しかも「リスクヘッジ」というような科学的装いをこらしながら。われわれは、今一度「危」機的なる状況を見つめなおし、どう進むべきか考え直す時期に来ている。

 「危」というのは、英語で言うと「リスク」という。ところが、これを反対に読むと「クスリ」となる。話はまったく関係がないが、この「危」という字は、唐漢氏の分類から言うと、医薬に関係する語彙と考えられている。


「危」の原義は高いところから飛び降りるの意

「危」の本義は危険のこと
「危」は会意文字である。古文の危の字の上部は上から下までの意味を表したもの。基部は即ち高台の台の形である。両方の形の会意文字で、高いところから飛び降りる或いは落下するの意味である。小篆の危の字は新規巻き返しの意味で、上部は人であり、真ん中はひっくり返り符号で、下部は人の形を現す。



「危」の本義は危険

 三つの形の会意は高いところから飛び降りるの意味で、楷書は隷書化の変化を経て「危」となった。危の本義は危険、不安全。庄子・則陽のとおり、安全危険はあいやさしく(隣り合わせ)、禍福は相性がいい(同居する)。成語の中で、「危険なこと累卵の如し(きわめて危険)」(累というのは積み重なったという意味)、危険を転じて安となすなど。
 危険から意味から拡張され、危害は損害などの意味のある。危害が生命に及ぶなど。
 危の字は高いところから飛び降りるということから高いの意味も含んでいる。危冠即ち高い帽子のことである。古文では又危坐という言葉もある。古人は座るとき普通は腰の部分をわずかに曲げまさに重心を足と尻の上におく。しかしかしこまった時必ず腰をまっすぐに伸ばし上体の高さは当然高くなる。ゆえに危坐(正座)と呼ばれる。



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2012年6月13日水曜日

梅雨は中国にはない?しかし雨の語彙は実に豊富


 沖縄は梅雨入り宣言が出そうな感じである。梅雨は日本特有の言葉?
 ただ梅雨(つゆ)という概念が中国にはないように思う。中国の気候というのは日本のそれに比べ男性的であるし、移り変わりももっとはっきりしている。
 「梅」そのものは古代から中国人に愛され、詩歌にも歌われてきたことは確かだ。しかし、雨と結びつかないように思う。

 ここでは、雨という漢字に焦点を当ててみたい。



雨は中国上古の文献にも頻繁に出現した

甲骨文字の雨はそのまんまという感じ
 雨は上古文献中最も頻繁に出現した文字の一つである。雨の字は甲骨文字中では、いろいろ書かれる。このいくつかの字を観察して見ると、単に雨が降るということだけではなく、雨の多い少ない、雨のリズム、雨が降るときのざあざあという音まで感じられる。

 雨の上の横棒は天である。あるものは天上の雲という。天から降ってくる雨の点、確かに根拠のあることである。金文中の雨の字は雨の点は袋に包まれている。両辺の雨の点と横棒一はお互い連なりあって『巾』になっている。 小篆中の雨の字は点と雲は分けて書かれるようになって、このように又横一ができた。字形は整えられたが、雨の趣は却ってなくなった。雨の本義は雨水を指す。

雨乞いは商代の王の重要な職責

 説によると、現存中の10万片の甲骨片の中で、その中で雨の卜字の占めるのは少なくとも数千条になる。かつて雨占いは商王の重要な職責の一つであったろう。卜字中、殷人は対雨に対して多い少ないの区別のみならず、微雨の分類に、『糸雨、少雨』の描写もあり、途切れ途切れの雨の日のぶれ、星の少ない雨の日の雨、多くのものの相談者曰く『大雨、多雨』、雨の勢いについて、集まったもの曰く『列雨、疾雨』、綿々と絶えることなく雨は『征雨、霖雨』、調和が取れている雨は『従雨』、雨が降り及ぶものは、「及雨」、雨量が農作物の要求に十分なものは『足雨』。

 中国には梅雨という概念はなかった

これだけ豊富な語彙があるならば、もし中国人の中に梅雨という概念があれば、言葉には必ず残っているであろう。少なくともここでは一応結論付けをしておこう。


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2012年6月10日日曜日

地震は単に東北地方だけではなく、日本のすべてを揺り動かした:震の語源と由来

原発問題の核心は原発の存在。その引き金は地震
 原発問題の核心は言うまでもなく、原発があったことである。しかし、その問題の引き金になったのは、地震であるし津波である。宮城沖の海底地震は、東日本に甚大な被害を及ぼした。そしてそれは当然のこととして強烈な津波を引き起こした。津波は阪神淡路大震災にはなかった被害を東北地方の海岸べりにもたらす。

四川大地震 
 私は、去年の8月に中国四川省の地震跡に入ったことがあるが、それは東北地方の地震とはまったく違った様相を見せていた。そこではがけ崩れによる人家の倒壊が主な側面ではないかと思われた。しかし片やそれとはまったく異なる津波である。同じ地震といえども、その現れ方はケースバイケースで、その対策はまったく異なるのだということが実感できた。  現地のインターネット上で言われていたことだが、四川地震の原因は三峡ダムにあるのではないかということである。すなわち、強大な水甕が突如として現れたわけであり、それはその地方におそらく横たわるであろう活断層に何らかの影響を及ぼさずにはおかないだろうというものだ。  これが真実ならば、四川大地震は人災ということになる。しかしこれについては政府は認めておらず、未だ検証もされていないので、風聞の類なのかもしれない。そう軽々しく言うものではないことながら、私の見た三峡ダムはそれが風聞ではなく、現実なのだと思わせるに十分な規模のものであった。

地震の「震」の語源は結局地震の原因探しと同様よく分からない

 今日は地震の「震」という字について考える。これは会意文字で、「雨」+「辰」という字で構成される。
 以前に「辰」という字の解釈を行った。その時は、「辰の本義は臍の緒を切るということだ」とした。  唐漢氏はへその緒は切ってしばらくぴくぴくと動くので、拡張され躍動とか振動という意味が出たと解釈している。しかし、これについては当然別の解釈がある。 「漢字源」によれば、「象形。二枚貝が開いて、ぴらぴらと弾力性のある肉がのぞいたさまを描いたもの。」という解釈をしている。十二支の生成に重きを置けば唐漢氏の解釈に一貫性があるように思うし、ぴらぴらと動くさまに重きを置けば二枚貝説になる。  そして漢字源では、「雨」という空の現象を表す言葉と「辰」というびりびりと震えるさまを表す言葉を合わせて、「震」は「びりびりと震える雷のこと」としている。  ではそれでは雷の起源はどうかというと白川博士は、雷の原型は「雨」かんむり+「晶の漢字のすべての『日』が『田』に取って代わったもの」(稲妻を放射する形)という。このように百家争鳴で、諸説紛々としている。 しかし問題はその原因がどうであろうと、地震と原発がもたらした災害は、単に国土にとどまらず、いまなお、政治・経済・国力全般にわたり日本全体を揺る動かしている。

政治家やマスコミの演出する茶番
 わたしが危惧するのは、マスコミや自民や民主、公明などの政治家が意図的に目くらましを国民に投げつけているのではないかと思われるほど、皮相な問題をに必要以上に力を費やしていることである。  例えば、AKB48総選挙とか、原発事故調査委員会をめぐる茶番劇である。  前にも言ったように「菅首相がどういった指示を流したか」なんていうのは、どうでもいい話である。それよりも、大飯原発再稼動問題の方がよほど重要ではないか。


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2012年6月7日木曜日

小説「日本沈没」が語るもの:「沈」の起源と由来

日本沈没

 つい先ごろ、近所の「未来屋」という本屋さんで、「最も未来のない題名の」古本を買った。この初版は光文社から1973年に出され、その後小学館から2006年に再版されたものである。現在ではとうに絶版になっていて、たまたまこの本屋さんの古本の部に出ていたのを見つけ買ったものである。その本は小松左京の「日本沈没」である。

 今から30年近く前の話で、当時読んだ時は、ある意味で「荒唐無稽」な小説と感じたのを記憶している。しかし、17年前に自分自身が阪神淡路大震災を経験し、そして先日の東北大地震を目の当たりにし、当時漠然としていた恐れが、にわかに真実味を帯び、自分の心の片隅に澱の様に居座っている今日この頃である。  しかも、その後の東南海トラフ、西南海トラフ等に溜まっているというストレスの解析が進むにつれ、澱のように沈澱していたものが、具体的な形と色を持つに及んで、この小説の下巻、更には第2部の上下を読んでおかねばならないという衝動に駆られ、アマゾンから取り寄せたり、更にいろいろな古本屋に当たって見たりして、ついに全て読み終えた。

 日本列島が真っ二つに折れ、太平洋に沈みこんでしまうという、壮大なスケールの前に、なすすべもなく、12000万人の人間のうち数千万人の脱出させるのが精いっぱいという結末を迎える。残された数千万人は太平洋の藻屑と消えてしまうしかなかった。
 小松氏は日本列島が大洋に浮かぶ龍の様だったと書いている。そしてそれがまるで生贄の様に大洋に呑みこまれてしまう。「沈」という字も、太古の昔、牛をいけにえに捧げるため、大河に沈めた様を描写したものだという。


小松左京氏の視点

小松氏は日本列島の上に起こる未曽有の自然災害を、科学的な観点から見事に描き切ったといえる。  しかし私が感心したのは、その天変地異の現象を通して、日本人、日本民族の特質をえぐり出し、良くも悪くも現代日本人に課せられた課題を突き付けていることである。  日本沈没という未曽有の事態を直前にして、首相の委託を受け、箱根に住む妖怪の様な老人のもとで三人の学者?が日本人のすすむべき道のためのガイドラインを作る。 1) 日本民族の一部がどこかに新しい国を作るために 2) 各地に分散し、どこかの国に帰化してしまうケース 3) 世界のどこにも入れられない人々のために   これら3つのガイドラインは実は「この状態にあっても何もしないケース」を元に組み立てられている。「国土を失った日本民族は世界のあちこちの隅を借りることになる。だが求めて得られなければ無理に要求してはならない。生きるにしても自力で生きなければならない・・。」ということをベースに各論が組み立てられている。日本民族は世界の厳しい環境の中である意味では、本当に自力で生きた経験がない。日本列島という大きな箱舟の中で守られてぬくぬくと生きてきた。  私は本当に自力で生きることこそが、日本沈没までいかなくても、今の日本人に求められていることではないかと思う。

日本沈没と原発

 最後に時代的制約かもしれないが、指摘しなければならないのは、この小説の中では原発について触れられていないことだ。日本列島沈没という事態の前に、今日本にある原発は世界中に非常に長きにわたって放射能汚染という2次的な災害をもたらすことが予想され、1次災害以上に人類破滅の道筋をつけるものになるかも知れない。ある人は言うかもしれない。「このような荒唐無稽な事態を設定して、原発の安全性を云々することはばかげていると」。  しかし、一つだけはっきりしていることは、原発がなければ、原発事故は起こらないということである。

漢字の解析:沉」と「沈」は古代ではもともと同じ字

甲骨文字は川の中で男が小便をするさま
川の中にいけにえの牛が溺れているの2案あり
  「沉」と「沈」は古代ではもともと同じ字であった。「沈」は甲骨文字の字形は一人の男が川の中で放尿をしているもので、沈没の意味である。尿は樹木の様に浮かぶことなく、又石の様に河底に落ちてしまうわけではない。こうして声もなく息もなくなってしまう。古人はこの象形文字を使っての、絶妙のアイディアを言えよう。(ほんまかいなとつい思ってしまう)

 甲骨文字の中で別の表現がある。沈牛を表す字である。これは牛の自然溺死を示すものではない。川の中の牛の沈入は祖先と河川の神に対する祭祀に用いたか、上古先民の祭祀の一種の方法である


沈祭、埋祭の生贄

祭品を作る為に牛は沈祭の中で悲劇の役割を演じるだけではなく、埋祭の中でも同様に悲劇の役割を演じる。甲骨文字中の埋の字は十分形象的である。一頭の牛(あるいは他の動物)が深い穴の中で傍らの点点でぱらぱら落ちる泥土を示して、 逐次埋葬される天命にゆだねた祭牛の状況を表している。牛は穴の中に生き埋めにされ、人間の土地の神と先祖の神霊に奉納される祭品となる。


沉」と「沈」の使い分け

「沉」の本々の字は「沈」の異体字である。現今両方の字は既に分化している。現代漢語の中では、「沈」はshenと読み、姓名、地名を表すのに用いられる。「沉」は溺れて溺死するの意味である。


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2012年6月6日水曜日

「夷」の漢字の起源と由来:「夷」は中国東部の民族が使っていた狩猟用具

中国では昔日本のことを夷人とよんだ

中国では日本のことを「倭」と呼んでいた。また「夷人」ともいう。この夷人は時には東の方の夷人という意味で「東夷」とも呼んでいた。この「夷」という意味は「野蛮」という意味であり、要は「野蛮人」ということであろう。この漢字は日本に対する侮辱であると論調もあるが、物事には歴史的経緯があり、太古の昔の話を現代の尺度でとらえてはいけないと思うのだが・・。もっともこの漢字を未だに用いるとすれば、太古の話を現代の尺度にあてはめようとするもので、逆に時代錯誤というそしりを受けるだろう。

日本で使われた「夷」という漢字の歴史
 日本でもこの漢字は古くから使われてきた。

  • 皇極天皇の時代、蘇我蝦夷という名の豪族が大和朝廷で力をふるう。
  • 大化の改新後大和朝廷は蝦夷を異民族とにみなし、征討の対象としている。
  • 658年阿倍比羅夫が蝦夷の征討開始
  • 平安初期、坂上田村麻呂、征夷大将軍の称号を受け、蝦夷征伐に赴く
 以降源頼朝以来、武家の棟梁として、征夷大将軍の称号は定着し、明治維新まで続く。古代、中国で日本のことを「東夷」と呼んだことは非難できるものではない。力関係からすればある意味当然だろう。

「夷」という漢字の起源と由来

 さて、本題の漢字の由来について調べよう。今日は「夷」である。

「夷」は綱が付いた矢のこと
 「夷」、これは象形文字である。甲骨文字で「夷」の字の矢の字の上「缴」(いぐるみ:矢に糸をつけて発射し鳥を絡め落とす狩猟具に用いる糸)が付け加えられている。即ち矢の端に細い縄が付いていて、飛んでいる鳥を射殺すのに用いる。
小篆の夷の字は最上部に横一線、元々矢頭が長い。楷書は金文を受け継いでいて、「夷」と書き既に矢の形象は失われている。

「夷」は中国東部にすむ民族が使っていた狩猟用具・・縄の付いた矢

 尻尾に縄の付いた夷は飛ぶ鳥を射穫する。的中した鳥は早く探し出せる。若し的中しない場合でも夷は縄を持っている為、湖沼にあったり草むらから探して回収するのに便利である。この種の矢は東部にすんでいた先民の発明である。渡り鳥が集い、沼沢に集まる環境から、この種の工具を算出する原動力になる。
  歴史上典籍では通常東部のこの民族を「夷人」とか「東夷」と呼んでいた。《説文》では「夷は東方の人なりとある。後日「夷」は少数民族を指すのに用いられた。「夷は殺すこと」と言っている。「夷」は動詞として用いられ、平たくする、平定するの意味である。また拡張され名詞の「峻嶮」に対し、「平坦」という意味に用いられる。

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2012年6月3日日曜日

尿の原義は「立ち小便」:漢字の起源と由来

古代人の感性

 古代の文字を見ていて、中国の古代人の描写能力と感性にはつくづく感心する。おそらく日本人もそうであったろうが、人間の能力や感性が、人間が社会で生活するようになってから急速に減退したのではないかと思う。
  ここに上げる「尿」や「屎」は、一見しただけで「そのまんまじゃないか」と感じるものなのだ。少し前に触れた「乳」という字もそうであったし、「孕」という字も実に言い得て妙があるものだ。

「尿」原義は立ち小便
   尿は象形文字である。甲骨文字の尿の字は、まるで一人の横向きに立った人が体の前に3点の尿線を噴出していることを表示している。一人に男性が立って排尿をしている意味である。但しこの絵からはこの「人」が男性であるかないかは判断のしようがない。むかしフランスの貴族の女性も、あのふわっとしたスカートの中へ出していたということもあり、中国の上古の女性が立ったまま用を足したということも十分あり得るのだ。(もっともこの点に関しては単なる想像の世界であり、もっと調べてみたい。)

 先民が野蛮な時代が終わって、後世の儒家はこの字を見て品がよくないと感じるだろう。因みに小篆では尾と水の会意で、排尿をしている動作を表している。実際上、この図はさらに母畜がさん尿をしている情景に非常に近いが、甲骨文字ほど明白で直接的ではない。図の示すところによれば、小篆の尿は甲骨文字の造形とは同じではないが、但し意味と文字の本義は完全に同じである。


屎の原義は糞便:字はそのまんま


  「屎」も象形文字である。まるで一人の人が跪いて大便をしている形である。人形の尻の部分の下から何点か小さい点は肛門から出てきた排泄物を表している。 

 このため、屎の本義は糞便である。


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