大和誕生秘話・・・日本は「倭」と呼ばれていたが、倭と同音の「和」に「大」を冠して「大和」(やまと)と呼ぶように決められた。
以前の記事「和」に関連して、日本の呼称「ヤマト」の謂れと由来に想いを馳せる。
古代において、日本は中国から「倭」と呼ばれていた。倭は、中国の文献に日本に関する記述は魏志倭人伝(247年)、後漢書(3世紀)、晋書(4世紀)などの文献にその名(倭)が登場する。元々は奈良盆地の東南地域は、大和(ヤマト)と呼称されていた。このヤマト地方に本拠地を置く政権(王権)のことを中国では倭と呼んだことは当然の成り行きである。このことから倭は、日本列島や国家を指す呼称であり、その範囲は、当時の日本列島の大部分を指していたと考えられている。
初めは大和朝廷も自らのことを「倭」と書いたが、元明天皇(第43代天皇 在位:707年- 715年〉の治世に国名は好字を二字で用いることが定められ、倭と同音の好字である「和」の字に「大」を冠して「大和」と表記し「やまと」と訓ずるように取り決められた。これで、倭-ヤマト-大和が明確に結びついたことになる。
導入
前書き
日本が外界に初めて紹介されるのは「漢書」(BC1世紀)の中でわずかに、倭人あり、100余国に分かれていることが紹介されている。それから約300年後「魏志倭人伝」で、AD247年のことである。この時邪馬台国・女王卑弥呼は魏の国に使者を送ったことが紹介されている。
これらの記述から、日本は国家統合の過程にあったのではなかろうか。いずれにせよ後のヤマト朝廷のような強大な権力を持つ政権はこの当時は存在していない。
それにしてもそこそこの権力を束ねるために、文字もない状態で、ひたすら口述による伝達に頼っていたとしたらそれはそれなりに、大変な苦労があったであろうと推察される。
目次
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漢字「倭」の今
漢字「倭」の解体新書
漢字「倭」の楷書で、常用漢字である。 漢字「倭」の甲骨文字、金文は見当たらなかった。漢書・地理誌の中に「倭」についての記述、「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」が見られる。なお漢書・地理は班固の纏めた、紀元前1世紀の日本に関する正確な記録である。 | ||
倭・楷書 | 倭・小篆 | |
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「倭」の漢字データ
- 音読み ワ、イ
- 訓読み やまと、したがう
意味
- 大和
- 大和政権
- 日本の国
同じ部首を持つ漢字 倭、委、
漢字「倭」を持つ熟語 倭、倭国、倭人
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漢字「倭」成立ちと由来
漢字「委から倭」の発達の軌跡
参考に倭の原字と考えられる「委」を列挙してみた。こうして並べてみると、「倭」の字がいかに生まれてきたかが良くわかる。「委」は最初は禾と女が構造的にも分かれていて、やがて「委」という字に統一される。しかる後それに人偏をつけ「倭」が生まれた。
漢字「倭」の字統の解釈
形声 声符は委。委は稲魂を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう。
委はもと田舞の状をいう字で、男が 稲魂を被って舞うのは年、女を委といい、委声の字はその声義を承ける。わが国の古名として古く中国の史書にみえ、〔漢書、地理志、下〕に「樂浪海中 に倭人あり。 分れて百餘國となる」、「魏略」に「倭は帶方東南の大海中に在り。山島に依りて風を爲す」「その舊語を聞くに、自ら太伯の後なりと謂ふ」などの語がある。[後漢書、光武紀]にみえる倭奴国も、その古名であろう。
漢字「倭」の漢字源の解釈
意味 昔、中国で、日本および日本人をさしたことば。
背が曲がってたけの低い小人の意。
「倭夷」「倭人、在 帯方、東南大海之中」「魏志倭人]「倭移」とは、なよなよしたさま。訓やまと
会意兼形声。禾々は、しなやかに穂をたれた低い粟の姿。 委は、それに女を添え女性のなよなよした姿を示す。
倭は「人+音符委」で、しなやかでたけが低く背の曲がった小人をあらわす。
漢字「倭」から「和」への変遷の史観
文字学上の解釈
古墳時代頃に漢字文化が流入すると、「やまと」の語に対して「倭」の字が当てられるようになった。中国では古くより日本列島の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んでいたが、古墳時代に倭を「やまと」と称したことは、「やまと」の勢力が日本列島を代表する政治勢力となっていたことの現れとされる。
次いで、飛鳥時代になると「大倭」の用字が主流となっていく。大倭は、日本列島を代表する政治勢力の名称であると同時に、奈良地方を表す名称でもあった。7世紀後半から701年(大宝元年)までの期間に、国号が「日本」と定められたとされているが、このときから、日本を「やまと」と訓じたとする見解がある。
奈良盆地を指す令制国の名称が、三野が美濃、尾治が尾張、木が紀伊、上毛野が上野、珠流河が駿河、遠淡海が遠江、粟が阿波などと好字をもって二字の国名に統一されたのと同じく、701年には「倭国」を「大倭国」と書くようになったと考えられている。
奈良時代中期の737年(天平9年)、令制国の「やまと」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力が弱まった747年(天平19年)には、再び「大倭国」へ戻された。そして757年(天平宝字元年(8月18日改元))、橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。このとき初めて「大和」の用字が現れた。その後、「大倭」と「大和」の併用が見られるが、次第に「大和」が主流となっていった。
(以上 AI 「Bard]参照)
まとめ
以上を纏めると、古墳時代に大和朝廷が権力を築くときには、すでに難波から奈良にかけて多くの人々が住み着きそれなりの都市が発展していたことは想像に難くない 。この地方を「ヤマト」と呼んでいたということである。文字がまだ使われていない時代に、「ヤマト」という発話され、それが当時の人々にどう認識されていたかというのは、大いに興味湧くところである。補足説明
AIによると、ヤマトの語源にはさまざまな説がある。それは下記のようなものである。
「やまと」の語源は諸説ある。
- 山のふもと。
- 山に囲まれた地域であるからという説。
- この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説。
- 「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説。
- 「やまと」は元は「山跡」とする説。
- 邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説。
「漢字考古学の道」のホームページに戻ります。
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2 件のコメント:
[委はもと田舞の状をいう字で、男が 稲魂を被って舞うのは年、女を委といい、委声の字はその声義を承ける。]
という上記の記述は、おもしろいです。稲の文化は、中国でも、揚子江流域で、黄河文明は、小麦文化と聞いていますが、漢字の成立には、黄河文明、揚子江文明と入り混じっているのが見えるようで、興味が尽きません。楽しみに読ませていただきました。kyonnta
確かに「南船北馬」という成語があるように、南は水稲、北は陸稲が盛んで淮河の北と南では気候風土も全く違うと聞いていますから、さもありなんですね。
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