2016年7月27日水曜日

漢字:鼎(かなえ)の起源・由来を「甲骨文字」に探る

 先に鼎の故事に触れた。今回は鼎の文字の起源と由来に触れる。
 鼎とほとんど同じ用法で、形象もよく似たものに「鬲」がある。説文でも鬲の説では「鼎の一種」というように書かれている。年代的には鬲は鼎より数千年前に世に現れ、新石器の時代に長く人々の煮炊きに使われていたようだ。素材も土器であり、鼎のひと昔前の時代のものと言っていい。一方鼎は素材は青銅器でつくられ夏から殷、周において、煮炊きに使われてもいるが、祭祀や権力の象徴として、王室で用いられていたようである。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

読み方:(音)てい (訓)かなえ

 「鼎」は説文解字で三つの足と耳が二つの味付けするための器である。それは「煮炊き用の祭祀用具であるという。
 鼎は象形文字である。上端は鼎の両耳があり、中間は腹部になり、下面は三つの足がある。
 金文の形体は少し変化している。腹部に横線が一本増えて、鼎の外部の図案に表示している。 また煮炊きする食物といえないこともない。小篆はすでに美化されて形を失っている。上辺の目の部分が鼎の腹を表している。これは実際上鼎の方形の形になっている。楷書の鼎は小篆を引き継ぎ形体上の基本は一致している。 


 古の時代は鼎は煮炊きする炊事によく使われた。考古学で発掘されたものには、そこに煙臭い臭いのあるものが多くあり鼎が煮炊きに用いられていた証拠であろう。煮炊きする食物を除くと鼎は祭祀の時肉を盛り付けるのに用いられた。このことから発展する氏族や貴族の礼拝堂の礼器に用いらされた。だから鼎は政権の象徴である。「鼎」にまつわる故事を参照願いたい。 鼎は煮炊きする器に用いられていることから政局が不安定なことを表すのに「鼎沸」という言葉が派生した。また、鼎が盛大の意味に拡張されて、成語のなかで「大名鼎鼎」(有名だ、著名だという意)という語が生まれた。

 日本での話で、兼好法師の著した「徒然草」という随筆に、仁和寺の法師が酔った勢いで、鼎を頭にかぶってふざけて遊んでいるうちに、鼎が抜けなくなり大騒ぎをしたという話がある。場を盛り上げようとしておどけた悲劇であるが、何となく滑稽に見えてしまう。日頃の行動には気を付けたいものだ。




  この鼎ともう一つの鬲(訓読みではこれもかなえとよぶ)用途は非常に似通っている。一方は年代が鼎に比べるとはるかに早い時期の遺跡から発見されていることを考えると、まず鬲がうまれ、その後それが発展した形で鼎が生まれたと考えていい。
 しかしいずれも甲骨文字にあるということは、それらが同じ時期に併用されたことを物語っている。実際春秋戦国時代の遺跡からも陶製の鬲(形状は鬲であり、呼び方も混在していたことがうかがえる。
  しかし、春秋戦国時代になると陶製のものは影を潜め、圧倒的に青銅器のものが多く出土するようになる。



 文字の作りでいうと甲骨文字や金文では鬲と鼎は大きな違いがある。まず鬲は三つの丸い口を持つ足が胴体と分離していないことが文字の形状に現れているが、鼎のほうは明確に足の機能と胴体(容器)部分が分離しており、文字の形体の上からも、機能が分化したのではないかと想像される。
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2016年7月26日火曜日

鼎にまつわる故事

鼎とは三つの足と二つの耳を持つ金属製の釜のことで、古代中国では祭祀、料理、表彰の具、釜茹での刑に用いられた。通常は3本足であるが、方形の鼎は3本ではなく4本の足を持つ。




 左の写真はいずれも中国の殷墟跡博物館に陳列されていた円形、方形の鼎である。
これらの青銅の鼎は、大きさはそれほど大きなものではないが、同じ殷墟の正面には非常に大きな鼎が展示してあった。この殷墟のものは、殷や周の時代のものであり、紀元前1500年のものである。
 下の写真は中国安陽にある「殷墟王陵遺跡」の正門近くに安置されている超大型の方形鼎である。これそのものが遺跡から発掘されたものかはわからない。ただし遺跡内にはかなり大きな鋳型跡が残されていたので、殷の時代にはすでにかなり高度な鋳物技術が発展していたであろうと想像している。
 中国ではこの殷が周によって亡ぼされた後、数百年を経て春秋戦国時代に入り孔子などの諸子百家の活躍の後ようやく秦の始皇帝による天下統一が完成する。



 鼎は中国の王朝においては、非常に大切にされていた。日本でいうとさしずめ「三種の神器」にあたり帝位の象徴とされてきた。
 中国に古くから伝えられている成語に「鼎の軽重を問う」というのがある。この意味は「帝位を狙う下心を持っている」という意味であり、これが転じて、「相手の内情や実力を見透かして、その弱みに付け入る」の意味にもなっている。  この成語が生まれたのは周時代の末期のBC600年ごろ楚の莊王が周王と洛陽郊外で対立していたころの逸話から生まれている。
 当時楚の荘王は春秋の五覇に数えられるほどの実力を持っていたし、天下に対する野心を持ち、周との一戦を構えようと虎視眈々と機会をうかがっていた。荘王はかねてから覇権のシンボルと言われ、周の王室に伝わるという「鼎」というものについて知りたかったので、使者にその軽重を尋ねた。使者は「鼎」について、それが夏の禹王が諸侯に命じて銅を供出させこれを用いて鋳させたものであり、朝廷が夏から殷にそして周に移ってからも700年余り周で受け継がれてきたことをとうとうと述べた後、「そもそも鼎の重さが問題になるものではない。要はそれを持つ者の徳が有るかないかが問題なるのである。鼎は常に徳のある所に移ってきており、周は衰えたといえども、鼎を伝えてきたことは天命の致すところであり、したがって鼎の軽重など尋ねられるいわれはない」と突っぱねた。荘王も力づくで奪うわけにいかず、兵を引き上げたという逸話が残っている。
 ところでこの鼎の行方は、周が滅びた後秦に運ばれる途中、泗水に沈んだといわれている。
    以上「中国故事物語」(後藤、駒田、常石著 河出書房新社)参照 

2016年6月3日金曜日

漢字:「面」の起源・由来を「甲骨文字」に探る



引用 「汉字密码」(P437 唐汉,学林出版社)

読み方:(音)メン (訓)おもて、つら  「面」は会意文字である。甲骨文字の面は、横から見た顔の輪郭に只一つの眼があるだけだ。それで人の面目を表している。小篆の面の字は未だ塞がってない囲いの中に従来通りに人の顔を表示している。人の正面の顔であるものは一個の「自」(鼻)の字がある。この字の作りの如く、鼻は人の面の最も突出した部分である。一番目立っている。人と話すとき「俺のことか」と確認するときは人差し指で自分の鼻を指す。こんな時に自分の目を挿したり、口を指す人はまずいない。昔は鼻は「自」のことを意味していた。
 《说文》では「面」を解釈して、顔の前としている。よって知り得るのは、面の本義は顔面である。楷書は隷書を経たのち「面」と書くようになった。

 「満面笑みをたたえ、面談」の面は顔面のことを言っている。  
 顔面の意味から「面」は事物の表という意味に拡張された。「地面、水面」の如くである。拡張されて、方向を表すようにもなった。「片面、面面俱到(各方面に行きわたるの意味)」等。
 又中国語では、「面」は扁平なものの量詞にも用いられる。「一面旗帜(旗幟一つ)、二つの鏡」等。"挂面、药面儿、面粉"の中の面は繁体字では「麺」と書く。両字とも形は同じではないが、簡体字を作る時、彼らは簡略化のため統一した。
 面の字は古文中では「脸」と同じではない。「脸」の字は本来両頬のことを言った。婦女子の目の下で頬の上で脂の乗っているあたりをいう。後に「脸」は使用中暫時「面」に取って代わった。遂に面の全部の部分を指すようになった。
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2016年1月21日木曜日

漢字:上の起源と由来



引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

上は指事字である。
 甲骨文、金文の上の字は一つの横長の線あるいは弧線の上方に一条の横線を加えることで、方向あるいは一の上の意味を表している。
 後期の金文と小篆は縦線を加えることで、「二」との区別を示した。  上の本義は相対的に高いところを、上面を指している。上と下の意味は相反している。

 またこれから派生して、等級や品級の上等な事物を広く示す。上級、上流社会、上品、上好などである。古代社会もまた尊長なことを示す。また特別に皇帝を指す。「犯上、上谕」など。

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漢字:介の起源と由来

 「介」という字は現在では非常によく目にする。介護、介助犬など日常生活で、われわれがお世話になるいろいろのサービスの中で、この言葉抜きには語れない。
 その昔は、「吉良上野介」のように名前にもよく使われていた。ここでも漢字の持つ意味合いは、助けるというものである。
 この他、節介、介添え、魚介などがある。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)
 「介」これは会意文字である。甲骨文字の「介」は、顔を右に向けて立っている人の形である。脚の部分に4点で足を表している。金文の介の字は背を曲げた人の形で下部の4点は前後の2つの点に変っている。
 小篆の介の字は基本的には金文と同様で、楷書の構造は隷書化の過程で変化し「介」と書くようになった。
 上古の時期、華夏先民は下半身は短い裾の服装をしていた。いばらの荒野を行進中は足全体を必ずゲートルで巻き上げていなければならない。この種のゲートルは「介」と称されるようになった。
 上古の戦争では、武器で相対する戦争で(この時期は矛と盾はまだ普及していなかった)、介(ゲートル)と冑(ヘルメット)は兵士達には必須の防護装備であった。
 史記の韓非子列伝では「急则用介冑之士。」とあるがこの介冑とはすなわちゲートルとヘルメットのことを言い兵士を比喩している。
 この意味から、発展して甲殻類などの堅い殻をもつものを含め、魚介類と称するようになった。


 右にゲートルをまいた武士の図を「汉字密码」(唐汉,学林出版社)から引用したが、このような武士の姿は、最近の映画「赤壁」の中でもすでにお馴染みである。


 これに対し、白川先生は「体の前後によろいを付けた人の形」としており(「字統」)、また円満字二郎氏も、「漢字成り立ち図鑑」(円満字二郎、誠文堂新光社)の中で「この人を示す形の両側にあるのは、「よろい」を示すもので、これを組み合わせた漢字が変形した会意文字である。」という同様の説明をしている。
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2015年12月13日日曜日

来年の干支は「申」


  来年の干支は「申」である。今から3500年前の殷の時代の廃墟から出土した甲骨文字の中に、すでに十二支十干で暦を表していた。干支についての考察はすでに以前に触れているのでここであえて触れることはない。
 古代の人々が農耕のために暦を作る必要に迫られた時に、何をよりどころにするか?唐漢氏が主張するように、自分たちの身の回りで繰り返される人が生まれ成長し、それに何を期待し願うのかの思いをそこに込めてそれをよりどころとする説はそれなりに説得力がある。それはあくまで仮説であって、諸説紛々としているのは事実である。
 しかし彼らは何故を持って十二支としたのか、まだ明確な回答は示されていないように思う。一年は12か月、そして子、丑・・という字を当てはめ12年で循環させたその理由はいったいなぜだろう。子という字に鼠を当てはめ、丑という字に牛という動物を当てはめたのは、文字の読めない人々にも理解しやすいように動物の名前を当てはめたというのは理解できる。
 来年の干支は「申」であって、「猿」ではない。では古代人が申としたその字はどういう意味を持っているのだろう。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

 申という字は指事語である。「申」の字の構造的な形は、女の嬰児に対する期待から発生したものである。 甲骨文字の「申」の右半分は (匕)で、これは即ち、母獣の生殖器の指事造語である(漢字源によると「匕」は妣の原字で、もと、細い隙間をはさみこむ陰門を持った女や雌を示したものという。)この借用で女の嬰児の性別を表示する。匕の左下の符号は女子の嬰児が大きくなって生育したことを示している。このため申の字は女の嬰児の意味で、また女が女を生み代々続く意味である。 人々はとうの昔にその形の深い意味を知らなくなっている。金文の申の字は字形の美形化と同時に、又その内容については失われてしまっている。小篆ではまさに上下の2個の指示符号いわゆる両手に変化している。楷書では誤りに誤りを重ね、又両手は合併され「申」と書くようになっている。
 「申」の本義は一種の期待と願望だ。即ち母系血縁に照らして、代々延々と続くことを呈示している。このことから引申はまっすぐ伸ばす、展開の意味になった。

「申」の嘱望、期待の意味から、又陳述、表白の意味が出てきた。

「比」は狭いすき間を置いて並ぶ、「屁」は狭いすき間から出るおなら

参考 指事語とは「中日大辞典」(愛知大学・大修館書店編)によると「形を模することができない抽象的概念を表すために符号を組み合わせる造字法」とある。
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2015年5月26日火曜日

漢字:壺の起源と由来

漢字:の起源と由来
「壺」日本語では、訓読みでは“ツボ”と読み、音読みでは“コ”という。中国語・簡体字は「壶」で、読みでは«hu 2声»と読む。
引用 「汉字密码」(P680,唐汉,学林出版社)

 象形文字である。甲骨文の壺は上古時代の酒壺の形取ったものである。上部の大という字は壺のふたである。

  中ほどのひょうたん型のものは、壺の腹を指している。下部は壺の輪底である。 小篆もまた大体酒壺のもようで、楷書の壺の字は簡体字では象形の味を失って、完全に線状化、符号化してしまっているように見えるが、繁体字では、未だ壺のふくらみが残されているようで面白い。

 壺は古代にあっては主要な酒盛りの器であった。
 古代からの文献を見るに、壺は当時また水器に用いられた。《周礼·夏官·挈壶氏》「掌掌壶以令军井」とある。ここで言っているのは、挈壶氏は水つぼを提げる職掌だということだ。軍隊の為に井戸水のある処を指示したのだろう。



 尚、「字統」での解釈は、唐漢氏のものとほぼ同様であるが、祭祀用に用いた酒壺というニュアンスが若干強いように感じた。