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2014年12月17日水曜日

漢字「羊」の変遷



引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

 唐漢氏は「未」の本義は未然と断定しているが、白川静博士は、「字統」の中で、卜辞や金文にはまだ「未」という文字が未然の意を表す使い方をされた例はないと主張されている。「未」は枝葉の先が長く伸びてゆく形であるとされている。一方の唐漢氏は十二支は人の出産から成長の時の移ろいの形をとって時の流れを表したもので、殷の時代には既にこの十二支を使って暦が作られていたと考えている。そして、子から午までは実際に子供が嬰児の時から産道を通って出産に至るまでの過程を表し、未から猪までの字では蓋然を表すと主張している。
 このブログはどちらの主張が正しいかを云々する立場ではない。ただ、唐漢氏の考え方の紹介をするものです。

 
 唐漢氏によると
「未」は草木の根から生え出す木の芽の成長からとられたもので、まだ嬰児の4肢のバタバタの動きからもその源になっており、皆どれも子女の健康に成長することを願いが深く切であるし切望しているものである。いわゆる「未」の本義は未然である。すなわち嬰児が今後生きるか生きられないか大きく成長するか分からないとしている。  
 ただこの十二支を子丑寅~戌猪の表記を鼠、牛、虎~犬、猪という漢字でなぜ表すようになったのかは、いまだはっきりしないところがあるが、字も読めない人々に身近な動物で暦を説明するためだというのが、うなずける説明になっているような気がする。
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2014年11月25日火曜日

来年の干支は「未」

 来年の干支は、未である。前に書いた通り、干支の歴史は古く、今から約3000年ほど前の殷商王朝の時代にはすでに、使われていた証拠が残っている。しかし昔は「子丑寅・・」という漢字が使われていたものであるが、それが今日のような「鼠、牛、虎・・・」という動物の名前にとってかわったのは、漢の時代とも言われているが、もう一つはっきりしない。その理由も諸説あるが、はっきりしてはいない。しかし、唐漢氏のように「時の移り変わり」を「妊娠、出産、成長」に当てはめてみるという見方を当時の祖先たちがとったであろうという推測もあながち奇説とも言えないものを持っている。

引用 「汉字密码」(P875、唐汉,学林出版社)

 未は会意文字である。許慎は甲骨文字の未の字は木に重なった枝や葉を表していると考えている。すなわち樹木の枝や葉っぱが多くの分岐が出てくることを用いて、伸び繁るさまを表している。草木の形の上にもう一筆増えているのはこの意味である。実際未の字は四つの足を踏ん張って伸び踊る嬰児からできたものだ。
 上辺の増えた一筆は嬰児の両腕が振られ動いたさまである。下辺の縦の両ばらいは、嬰児の両脚の合わさった部分と広げたさまを表す。 金文の「未」の字は甲骨文字を受けており、小篆はまた一脈受け継ぎ、楷書は隷化し「未」と書く。

 むろん「未」は草木の根から生え出す木の芽の成長からとられたもので、まだ嬰児の4肢のバタバタの動きからもその源になっており、皆どれも子女の健康に成長することを願いが深く切で切望しているものである。いわゆる「未」の本義は未然である。すなわち嬰児が今後生きるか生きられないか大きく成長するか分からない。また否定の意味もある。すなわち現在まだ夭折していないと意味もある。

 「未」の字の構造及び内包されているものは、上古先民の事実に即して問題を処理する生活態度を反映している。願いは願い、事実は事実とし、彼らはまだ文筆家の嬰児の満月を恭賀する欺瞞を持ち合わせていない。
 確かにいえることは「未」は一種の蓋然に対する状態の判断である。「未」暗くて不明という意味も持っている。「未」は暗いの初めの文字である。「未」は一種の蓋然で、味は嘗めてみて初めて分かるもので、味は多様で同じでない性質を持っている。このことから「未」は味の初めの文字でもある。
 「未」は現代漢字の中で「将来」意味も表すことができる。未来のごとくである。また事後(起こってしまったこと)の否定の対句の意味にも用いられる。「まだない、まだ起こっていない」と同じ意味である。未知数、未婚、死活がわからないなどなど。
 また否定の意味にも引用される。言葉の意味では「不」にあたる。「未敢苟同、未可厚非」(賛同しかねる、無理からぬことである)などに用いられる。

 「未」十二支の中で第8番目に位置している。時間で言えば未時はすなわち午後1時から3時までの時間帯である。 注目に値するのは干支の中の12の字の中で、「子丑寅辰巳午」はすでに起こった状態を表している。しかし「未申酉戌亥」は蓋然たる状況である。二つに分けて、前者は育産の現実を表し、後者は嬰児が成長し大きくなり、立派になってほしいという願望をあらわしている。
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2010年5月27日木曜日

「羊」の起源と由来 基本的な象形造字法

「羔」や「義」という字が「羊」を構成要素として作られていることを見たが、ここでは羊そのものの字のつくり、その由来について触れてみよう。

 羊という字を作る方法は、象形と呼ばれる。たとえ甲骨文字と金文文字の形は同じではないが、しかし皆、羊の頭の簡略化である。湾曲した角、二つの耳、特に突出し湾曲した角は人が一見して別の動物に見間違えようのないような図を示している。

 羊の字の手本として書くのは羊全体の形ではないが、羊の局部の特徴を持っている。典型的な特徴で事物の全体を現す一種の造字方法であり、漢字の象形の主要な方式の一つである。

 一説のよると孔子はこの象形文字を見た後、「牛と羊の字はよく形を現している」と驚嘆したといわれている。 

 実際上、現在我々の前の甲骨文字の羊という字はアイディア法から言うと形で局部的な特徴を捉えているばかりでなく、現代の思考方法である「抽象化」を具現したものである。

 無論一種の芸術的思考、更にシンボル化の成果で、まさに21世紀の新しいコンピュータインターフェイスを啓発するものでもある。羊の字は一つの部首の字でもある。たとえば漢字の中では、祥、養、庠(古代の学校の意),烊(溶けるという意味)、氧(酸素)、漾(ゆらゆらたゆとう)、佯(偽る)、详、痒、翔など皆羊がその主体となる字であるか、或いはその発声としている。

  羊の性格は温順でおとなしく、食に群がり人と争わず、さらに人を傷つけることも出来ない。羊はまた肉として食に貢献し、皮は衣になり、腹がふくれ、暖にもなる。よって古人はその実用性と功利から羊を大吉、大利のいいことの兆しとみなした。


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2010年5月26日水曜日

「義」の起源と由来 この言葉は今の世の中に必要ないのだろうか

 一昨年のヒットした中国映画は「赤壁」。蜀は漢王室の再興という「義」を掲げ魏と戦った。また昨年のNHKの大河ドラマの「天地人」の基本テーマは景勝の「義」と直江兼継の「愛」であった。ドラマはこの二人の武将の掲げる旗印を軸に展開した。

 このように中国でも日本でも「義」というのは、共通の思想というべきものかもしれない。「義」に対する態度で自己中心型と自己滅却型の違いはあるにせよ、両民族に共通して流れる思想が「義」であったことにはあまり異存はないであろう。最近では日本でも中国でもこの言葉はいささか古臭い響きから、少し敬遠されてくるようになったようだ。

 中国では古くからつい先日まで、「忠、孝、節、義」という言葉が、「仁」という言葉ともに人間の行動・生き方の規範として語られてきた。日本でも同じようにこれらの言葉が人々の生活に深く根ざしていた。しかし日本では、明治維新以降、この言葉は重きを失い、中国では文化大革命によって、孔子と共に葬り去られた。

 一方、日本では最近起こるさまざまな事件を眺めていると、それに関係する人々の間にその人なりの「大儀」があるようには思われない。もちろん犯罪における「大儀」は第3者から見た時、「言い訳」に過ぎない場合が多い。

 しかし少し前は、それでも良いか悪いかは別にして、誰でも「言い訳」をしていたように思う。しかし最近その「言い訳」が聞かれなくなって、やたら弁護士の「心神喪失」という第3者的な言い訳ばかりが目立つようになった。

 要は世の中が余り深く考えなくなった、つめて考えなくなった風潮の結果かもしれない。悲しいことだ。

 だがその中国を歩いてみて、まだこの旧思想と批判された言葉が言葉としてだけでなく、具体的な行動の指針として人々の間に息づいていることが分かり、人間は捨てたものではないと改めて感じている。

 日本と違うのは、中国は日本ほど資本主義に毒されていないのかもしれない。

 さて、今日は「義」という文字の由来・語源に焦点を当ててみたい。

 ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、




甲骨文字「義」
 「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。
金文「義」

 ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。

 そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。

 このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。

  このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。

 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。


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