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2021年1月19日火曜日

漢字「祭」の成り立ち:肉と又(手を表す)と示(祭卓)からなる。太古の祭りは残酷だった

2021年1月19日 再録

漢字「祭」の成り立ち:生贄を神に捧げる儀式を表現。太古の祭りは残酷だった
 今「祭」は神から離れ現世の喜びを享受を意味する漢字となった?


 祭りには文化祭、歌謡祭、感謝祭、音楽祭など色々あれど、神々の匂いを感じさせるものは今はあまり見ない。なぜ変わった? 漢字の変化ではなく人々の意識の変化?即ち生活の変化?
 上古先民は神を喜ばせ、神の施しを受けることで自分たちの命を永らえることができると信じていた。「祭り」はそのために生贄を生きたまま神に捧げるという残酷な儀式であった。上古先民は血の滴る肉片を祭卓に載せ神に捧げることを進んで喜んで行っていた。 したがって祭りは神に祈りを捧げるための重要な儀式であった。そして漢字「祭」にはそのことをあからさまに示す跡が残されていた。

しかしながら、今では、神社の祭りにしても神々の匂いを感じさせるものは今殆ど見ない。ともすれば、我々は現在の尺度で、物事を見てしまうことがよくある。しかし、今の尺度で物事を見るのではなく、過去は過去の尺度で物事を見るという歴史的な視点が必要である。

 したがって、祭りを調べれば、神々と人間の係わり、言い換えれば人間の精神の進化が跡付けられるはずだ。

「祭り」は生贄を生きたまま神に捧げるのは、現在から見るときわめて残酷な儀式であった。

 その痕跡は世界各地に残された数々の痕跡。
 ともすれば犯罪を犯しているかのごとき評価をすることさえ見受けられる。
  •   日本では、魏志倭人伝には卑弥呼の死に際して、100人あまりの奴婢が殉職させられた記録や諏訪大社の御柱にまつわる伝説、静岡県三股淵の付近では人身御供を伴う祭りが12年毎に行ったという言い伝えが今でも残されている。これは神の怒りを静めるための祭りであったといわれている。

  • 中国では 殷代の紂王以前には、生贄を捧げられ、神の意思を確認したとみられる甲骨文字が出土している。また、殷墟からは850人もの軍隊の人骨や戦車が出土している。あの残虐非道といわれる紂王ですら、奴隷の生贄を中止させたといわれる「慈悲」の心を持っていたと伝えられる。その行為が彼の「慈悲心」から来るものなのか、生産性が下がることを恐れる「合理性」からくるものかは今は分からない。

  • 現代のペルー首都に近いところで1400年代に栄えたチーム王国で140人以上の子供と200頭以上のリャマの生贄して捧げる儀式が行われミイラが残されている

  • また、アルゼンチンの北部の山頂で1999年、インカ帝国時代の子どものミイラ3体が発見されており、保存状態が極めてように安らかな表情で調べているということである。

  • 古代メキシコに出現し強烈な輝きを放ちながらわずか200年ほどで消滅したアステカ王国では、壮大な生贄の祭りが行われたその真髄は人間の血を神々に捧げ神の生き血を人間がいただくことであった。


 このように世界各地の民族で、時の権力者たちが、多くの生贄のささげ、自らの権力を保持するために壮大な祭りを取り行って来た。祭りは現代で喜びや華やかさのみが残ってはいるが、その歴史は実に血生ぐさい歴史の連続であった。

祭りにおける神への祈りと喜びを享受することが乖離
 しかし生産の発展とともに、人々の神への依存が少なくなって、祭りにおける神への祈りと喜びを享受することが乖離するようになった。
 祭りには文化祭、歌謡祭、感謝祭、音楽祭など色々あれど、神々の匂いを感じさせるものは今は殆ど見ない。そして、近頃では、例えばハロウィーンの祭りの如く、人々がかぼちゃの仮面を被って娯楽の側面がクローズアップされているが、、これはもともと「収穫祭」といわれ、収穫の喜びを表わし、神々に感謝の意を示すものでした。
 ところがこれに商業主義が乗っかり、神に感謝することからはなれ、単なるお祭りで騒ぐことに変化してしまっています。

 この原意との乖離の是非はともかく、漢字の世界にも同じようなことが起こっています。

 お祭りで楽しく過ごすこともいいのかもしれませんが、元々は、そもそもは「祭」は神に祈りを捧げるための重要な儀式であったということを思い起こし、一歩後ろに下がって考えてみることもいいことではないだろうか?



引用:「汉字密码」(P819、唐汉著,学林出版社)
唐漢氏の解釈
 「祭」、これは象形文字であり表意文字です。甲骨文にある「祭り」という言葉、右は又(手を表します)、左は肉片、中央の小さな点は肉片に滴り落ちる血を表しています。全体的な意味は、古代の祖先が先祖の神々に犠牲を払うために殺されたばかりの新鮮な肉を使用した儀式を意味しています。
 金文の「祭」という言葉は、血の滴のドットを省略していますが、犠牲の主題と方法を強調して、祭壇または祖先の位牌を表す「示i」という言葉を追加しています。
  小篆の「祭」は、金文を継承し、美しい字体とより対称的な構成になっています。楷書では、この関係で「祭」と書かれます。

上古先民の死生観と祖先を祭ることをどう考えたか
 殷王朝と商王朝の祖先の概念では、先王と皇族は死後、別の世界(亜:かりそめの世界)に行くだけでした。彼らは2つの世界(つまり「复」の構造)を自由に行き来し、現実の世界を支配することができると考えました。(福をもたらし祟りを作る)。

 心の中で常に祖先の霊に対する畏れが膨らんでしまった結果として、祖先は、祖先の神々が何を差し置いても現実の物質的な文明をも楽しむ権利を持っていると信じていました。

 そのため、牛、羊、豚、鶏、犬などの動物、米、穀物、エッセンス、粉などの作物、翡翠、貝、女妾、男の奴婢など、あらゆる物が焼かれたりて埋められたり、河に流したり、お供えをしたりするなど、当然やるべきことを進んで行い祖先の心霊に捧げました。先祖や神々からの祝福や災いを取り除くことを願うと引き換えに、先祖の霊に捧げ献身しました。これが「祭」です。



字統の解釈
新石器時代の祭卓「示」
会意文字。肉と又と示とに従う。示は祭卓です。その上に肉を供えて祭る。祀が自然神を祀るときの字であるの対し、祭は人を祭るときの漢字である。



結び
 祭りは神に人間が生きていること、この世界に自然という恵みを与えていることに対する感謝を表すという崇高なものでした。しかしその実際の姿は、人身御供の世界があり、単に稲や果物や魚などの珍味だけではなしに、奴隷たちが焼かれたり生き埋めにされたりする世界がありました。時には生きたまま体を切り裂かれ内蔵を引き出されるというおぞましい世界もありました。
 人類の歴史には綺麗ごとだけでなく、生々しい惨たらしい世界が長く続きました。そして何より、人類はそのような血だらけになりながらの歴史の中で生きてきた結果として今の私たちがあるということです。

 そしていまでは、祭りには文化祭、歌謡祭、感謝祭、音楽祭など色々あれど、神々の匂いを感じさせるものは今は殆ど見ない。私たちが今見ている世界は、最初から出来上がったものでは決してなかったことを肝に銘じておく必要があります。漢字の中にはそれがしっかりと刻まれています。私たちは、漢字を通して人類の苦悩に迫ることができます。それもまた私たちの人間の使命だと思います。


「漢字の起源と成り立ち 『甲骨文字の秘密』」のホームページに戻ります。

2020年12月24日木曜日

漢字「告」の由来と成り立ち:告白とは重い響きの言葉だ。それは「告」が神に告げるという厳粛な言葉から来ている由縁である



漢字「告」の由来と成り立ち:告白が重い響きを持つのは、「告」が神に告げるという厳粛な言葉から来ている由縁である
 「告」は生贄の牛を祭壇に並べたことからくるという解釈と祭祀を執り行うとき神に告げる言葉を「サイ」という祝詞を入れる箱を木に結びつけたことからくるという説等諸説があるが、いずれにせよ単に話すとか語るということではなく祭祀に臨んで神に祝詞をあげるという厳粛な使い方をされたことから来るものだ。


引用:「汉字密码」(P24、唐汉著,学林出版社)
祭祀のとき神に祈りや祝詞を奉げ、告げること
唐漢氏の解釈
 「告」の字は甲骨文字の第一款は、「牛」と「口」から成り祭告、告庙を意味する。告の字の構造の形象から看て、それは祭壇の前の皿の上に置かれた、切り刻まれた雄牛の頭に非常によく似ています:彼の目は大きく開いていて、何かを言っている様子が伺える。

 告は牛の頭を祭祀に用いて祖先を慰める神祗を表示している。又「告」の本義は人びとが祭祀の時に発するする祈祷であり、それゆえ牛の鳴き声とも理解できます。



字統の解釈
 木の小枝に祝詞を収める器の賽をかけている形象形文字である。 祝詞の器を木の小枝に付けて捧げ 髪に祈告する意味で告とは神に訴え告げることを言う。説文には 牛と口に従う字とし「牛人に触る。角に横木をつくとし、人に告ぐるゆえんなり」とあり、牛が人に何かを訴えようとするとき横木をつけた口を摺り寄せてくると解するが、上部は牛の形ではなくて物をかける木の枝の形であることは卜文、金文の形において明らかである。

 唐漢氏と字統の解釈は、祭祀に生贄の牛を使うか、木に祝詞を掲げるかの違いはあるが、祭祀に神に何らかの祈りをささげる点では一致している。

漢字源の解釈

 会意文字だとする。漢字源では、牛の角に縛った枷の原字だとする。後付の解釈のような気がする。


結び
 現代で告白という言葉は、単に「言う」とか、「話す」ということだけではなく、ある種の重みを持ったものとして語られる。告白が重い響きの言葉の理由は、「告」がそもそも漢字が発生した太古の昔から、神に告げるという厳粛な意味を持っている由縁である


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2016年7月26日火曜日

鼎にまつわる故事

鼎とは三つの足と二つの耳を持つ金属製の釜のことで、古代中国では祭祀、料理、表彰の具、釜茹での刑に用いられた。通常は3本足であるが、方形の鼎は3本ではなく4本の足を持つ。




 左の写真はいずれも中国の殷墟跡博物館に陳列されていた円形、方形の鼎である。
これらの青銅の鼎は、大きさはそれほど大きなものではないが、同じ殷墟の正面には非常に大きな鼎が展示してあった。この殷墟のものは、殷や周の時代のものであり、紀元前1500年のものである。
 下の写真は中国安陽にある「殷墟王陵遺跡」の正門近くに安置されている超大型の方形鼎である。これそのものが遺跡から発掘されたものかはわからない。ただし遺跡内にはかなり大きな鋳型跡が残されていたので、殷の時代にはすでにかなり高度な鋳物技術が発展していたであろうと想像している。
 中国ではこの殷が周によって亡ぼされた後、数百年を経て春秋戦国時代に入り孔子などの諸子百家の活躍の後ようやく秦の始皇帝による天下統一が完成する。



 鼎は中国の王朝においては、非常に大切にされていた。日本でいうとさしずめ「三種の神器」にあたり帝位の象徴とされてきた。
 中国に古くから伝えられている成語に「鼎の軽重を問う」というのがある。この意味は「帝位を狙う下心を持っている」という意味であり、これが転じて、「相手の内情や実力を見透かして、その弱みに付け入る」の意味にもなっている。  この成語が生まれたのは周時代の末期のBC600年ごろ楚の莊王が周王と洛陽郊外で対立していたころの逸話から生まれている。
 当時楚の荘王は春秋の五覇に数えられるほどの実力を持っていたし、天下に対する野心を持ち、周との一戦を構えようと虎視眈々と機会をうかがっていた。荘王はかねてから覇権のシンボルと言われ、周の王室に伝わるという「鼎」というものについて知りたかったので、使者にその軽重を尋ねた。使者は「鼎」について、それが夏の禹王が諸侯に命じて銅を供出させこれを用いて鋳させたものであり、朝廷が夏から殷にそして周に移ってからも700年余り周で受け継がれてきたことをとうとうと述べた後、「そもそも鼎の重さが問題になるものではない。要はそれを持つ者の徳が有るかないかが問題なるのである。鼎は常に徳のある所に移ってきており、周は衰えたといえども、鼎を伝えてきたことは天命の致すところであり、したがって鼎の軽重など尋ねられるいわれはない」と突っぱねた。荘王も力づくで奪うわけにいかず、兵を引き上げたという逸話が残っている。
 ところでこの鼎の行方は、周が滅びた後秦に運ばれる途中、泗水に沈んだといわれている。
    以上「中国故事物語」(後藤、駒田、常石著 河出書房新社)参照