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2021年7月13日火曜日

現代社会の基本である商は3500年前に中国で栄えた荒ぶる民族国家「商」(殷ともいう)という国名に由来していた


漢字 商の成り立ちと由来から見えるもの:古代中国の中原で強国「商」を作り上げた荒ぶる殷商王朝が浮かび上がる
 甲骨文字を最初に生み出し、強大な国家を作った殷の国は自らを「商」と呼んだ。

 この商という国は今の中国の湖南省・安陽という年にその国家の礎を定め、自らを商と名乗る。
 この商という名前そのものが、荒ぶる民族国家の成り立ちを物語るものである。

 殷商民族は、兵器の製造に熱中し,南征北伐を愛した。

 領土、人口、政権は国家の三要素をなす。ただし厳格に言えば「領土」とは武力コントロールあるいは占領下にある土地のことであり、「人口」とは武装統治にある民衆のことである。政権はすなわち武力を運用できる能力のある機構のことを言う。武力はあるもは専ら征伐を行使する常備武装のことをいい、国家の元である。

 殖民統治に伴うもろもろの実践の中で、「国」の字は血なまぐさい洗礼の中で生まれた。現有実物の査証から甲骨文の記載からいうと、ただ「商」だけが国家の真の意味を表している。とうぜん漢字はその遺伝子の暗号で以ってさらにその形象をなし、さらにその真実をわれわれに告げている。殷商はつまるところいったいどのような国家だったのだろう。

 商の時代は、生産技術はそれほど発達していなかったためか、国力の増強は専ら侵略による捕虜の獲得に頼ったのかも知れない。


漢字「商」の楷書で、常用漢字です。
 「商」は、本は殷商民族が、自己の王国の都城の呼称としたものである。即ち「大邑商」(現在の河南省安陽の小さな村)である。商民族が自己の民族と国家の呼称であった。甲骨卡辞中の「今岁商受年。」然るに甲骨文の商の字の形象を見てみると戦争捕虜と関係がある。どうして戦争捕虜を押し込めておく場所に商朝の都城を選んだのか。どうして地名の商を殷商王朝の名称に合わせたのか?
商・楷書


  
商・甲骨文字
戦争で奪ってきた捕虜に入墨を入れ支配を明示した。その入墨の針器を台座の上に建て、祝禱と共に神に祈ることで、更なる侵略の成功を祈った
商・金文
甲骨文字を承継しているが、経済を示す貝を付け加えることで、富の蓄積を誇ったのかも知れない
商・小篆
小篆が使われる時代には商という国は消滅し、殷商人の末裔である商人か活躍した。
国名と一般名称の乖離


    


「商」の漢字データ
 

漢字の読み
  • 音読み   ショウ
  • 訓読み   あきな(う)、はか(る)

意味
     
  • 品物を売買して利益を得る事(あきなう)、商売をすること
  •  
  • 商売人、商人(あきんど)、「行商人」(例:隊商)
  •  
  • はかる(良し悪しを明らかにする) 

漢字「商」を持つ熟語    商人、商業、商売、商量、商事、商圏、商談、商団




引用:「汉字密码」(Page、唐汉著,学林出版社)
唐漢氏の解釈
  甲骨文字の上部は軍の符号です。即ち「辛」の初文です。上古時期は捕虜を押さえつける刑具でもあった。下部は「内」の符号で、即ち丙の初文でもあった。それは地面に掘った軍の穴の牢獄の縦断面の図形である。甲骨文の後の一種の図形となり、また口を加えて地面の穴の入り口を示しこの種の牢獄の描写となった。

 金文中の「商」の字は、甲骨文を受け継いでいるが、但し下辺に貝の字が付け加えられ商の字となっている。

 約3300年前商民族は安陽の小さな村を捕虜を押し込めておく場所に選んだ。捕虜を押し込めておくために常備的な武装兵士を駐在させないわけにはいかない。軍事連盟の首領の商王は常備の武装兵士を指揮しコントロールするために移送させるわけにはいかない。このようにして事実上政治軍事の中心となった。捕虜中の工匠に対しては青銅の戈の上の図形文字には、飢餓と死亡の威嚇の下、必至に手工芸労働に専心し、兵器弓矢、玉器、精美を凝らした青銅器などを絶えることなく不断に製造することができたとき、大邑商は事実上王国の都城となった。


漢字「商」の字統の解釈
 商とは、辛と台座と口(サイ)に従う。辛は取っ手のある大きな針器。この入墨に用いる刑具を立てた、台座に祝禱を収める噐を据え付け、これに祈って神意を問う意であるから、商(はかる)ことを原義とする。古代王朝としての商は殷の正名でその都は大邑商といった。商はその神政的な支配を示す国号であったと思われる。

 商は神意を計ることを原義とし、そこから商量の意が生まれ後通商の意となったものであろう。


まとめ
 今我々が日常不断に使う「商」という漢字は、古代中国の「商」という国に由来する。この国は国名からして、血塗られた侵略と構想のの中で生まれ育った。人類は、このようにして戦いと侵略の歴史を繰り返してきた。それから後の生産力の高揚と相まって、血なまぐさい戦争の繰り返しから脱して、平和に生活することが出来るようになった。我々はこの人間の歴史からともに共存するという生活様式・生き方を今後とも大切にしなければならない。



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2021年6月15日火曜日

殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり

 殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり


本記事は2012年6月28日木曜日にアップした記事「殷の起源と由来」を全面的に加筆修正したものである
殷という国は、紀元前1600年頃、今の中国の河南省の辺りで栄えた連合体国家であった。殷という国名は殷の人々自身がそう呼んでいたのではなく(むしろ彼ら自身は自分のことを「商」と呼んでいたようであるが)、これを滅ぼした周人がこの商邑という国家連合をさげすみの心で「殷」と呼んだということである。
その心は「殷は国の腹全体に膿がたまった国」という意味だ。


  因みに殷の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。

しかし、これ自体は高度な医療技術で、商人は高い医療技術を身に付けていたことが、図らずも、殷の国の蔑称となった、漢字から明らかになった。



殷という字の解析

  「殷」これは会意文字である。甲骨文字の「殷」の字は左辺はおなかが突出した人間の形である。右辺は今まさに手が鋭い針の形ものを持っている形である。両形の会意文字で、針を以て人の腹を指していることを表示している。疾病を治療する意味である。金文の「殷」の字は、甲骨文字を引き継ぎ、小篆もまた金文を引き継いでいる。文字が一歩一歩変化している中で、楷書の「殷」とかくようになった。


広大な王墓の門

殷の本義は手術用の石針で切り開き、血を放出する

「殷」の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。この種の篩治療手段は3つ効果:その一骨ばり、竹針、金属バリを用いて刺治療、その二は石片、角骨片を用いて急性のカタルを切ったり、放血治療したり、第3には外科手術の切開に用いたりした。

殷は針または放血のことで、放出した血は往々にして赤黒いものである。この為殷には黒紅色の意味もある。《左伝・成公二年》にある如く、「左輪朱殷」は即ち左の車輪は血で染まって赤黒かったという意味である。針石で、化膿部を破った時に声が出た。だから「殷」は声の様な言葉にも見える。「Yin」と読む。《诗·召南·殷其雷》の殷其雷は雷の音殷殷としてのという意味である。 



殷朝の国王の墓に埋葬されていた戦車と人馬
周から見れば
殷は国の腹全体に膿がたまった国

 「殷」も周人が商を滅ぼした後、周人が商王朝に付けた蔑視的なあだ名である。意味は「商王朝の統治者は飲んだくれで色に溺れ。王国全体が腹に膿がたまった病人のようだ。周人はイシバリを手に取った医者で、彼らに最初の手術をした。だから周人は敵を恨み商を殷とよんだ。


周人が殷を滅ぼした後、商王国が数百年架かって作り上げ、蓄積してきた大量の財宝を掠め取った。だから、「殷」は膿の溜まった凸部,腫れという意味から拡張して盛大なとか多いという意味が出てくる。現代中国語の中で「殷」は財物について、充足していることを指す。また感情については「深く厚く」を指す。殷切、殷憂のとおりである。また更に拡張して、熱情、周到の意味もある。殷勤の言葉の様なもの。

 

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2014年11月24日月曜日

干支十二支の起源と成り立ち


 2011年2月10日のブログですでにふれた通り、殷商の時代すなわち甲骨文字が生まれた時代に早くも十二支は天干と共に日にちを表すのに用いられている。干支は十干と十二支の二つの概念で構成されている。十干とは天干ともいい、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10種類からなる。十二支は子丑虎卯辰己馬未申酉戌亥は地支といい、天干と地支と相交えて日にちを表していた。 「上古の先民は何のためにこの漢字を作ったのだろう。彼らはまたどんな事実の証拠になるのか。こういう漢字を作るようになってきたのか。 個体発生学と人類発生学の相似の一面が科学的に証明される。殷商民族は商代の甲骨文字に刻まれている、干支年表の緑子の時期に酷似している。人類の発生の時期、全てのものは現象を持ってそのよりどころとした。文字もその例外ではない。

引用 「汉字密码」(P866、唐汉,学林出版社)

 安陽の殷墟の小さな村で発見された、甲骨文字が刻まれた「甲子年表」はほぼ中国で最も早くカレンダーが順序どおり並べられていたことが知られている。出土した商代の甲骨文は多数干支で日にちが記され、商代すでに干支で日にちを記す方法が行き渡っていた。しかし、地支「十二支」の形と意味は今日に至るまで、諸説紛々としており。いまだ共通認識にいたっていない。
 またウィキペディアによると、「また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。」とあり、いま一つはっきりしない。


 しかし後世のこじ付けともいえる命名のことはともあれ、なんと今から大方4000年前、中国では夏、殷、商という高度な文明を持った王朝が栄え、干支年表というカレンダーを作っていた。そしてそのカレンダーの中身は、子丑寅卯辰己馬未申酉戌亥という漢字を用いていた。
 わが唐漢氏は、「子丑寅卯辰己午未申酉戌亥」という漢字が、大きく二つに分けられ、前半の「子丑寅卯辰己午」は人間の胎児の時代から、産道を通って出産してくる現実の出産過程を表し、後半の「未申酉戌亥」は未だ未然のことではあるが、嬰児が夭折なく、無事育つよう、希望と期待をあらわしていると解釈する。
一方天干も実は生命消長の循環過程を分説したものであるといわれている。以下の意味合いを持っているとの説が有力である。


甲 こう きのえ 木の兄    草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意
乙 おつ きのと 木の弟   陽気のまだ伸びない、かがまっているところ
丙 へい ひのえ 火の兄   陽気の発揚
丁 てい ひのと 火の弟   陽気の充溢
戊 ぼ つちのえ 土の兄  “茂”に通じ、陽気による分化繁栄
己 き つちのと 土の弟   紀に通じ、分散を防ぐ統制作用
庚 こう かのえ 金の兄   結実、形成、陰化の段階
辛 しん かのと 金の弟   陰による統制の強化
壬 じん みずのえ 水の兄 “妊”に通じ、陽気を下に姙む意
癸 き みずのと 水の弟 “揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態

  こうしてみると唐漢氏が十二支は人の出産・成長過程を表したもので、古代人が時を表すのに、身近に起こる出来事で象徴的に表したものだという説をとったことは合理的だという気がする。

2012年6月28日木曜日

殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり  

 殷の起源と由来:殷を滅ぼした周人が殷をさげすんで「国の腹全体に膿がたまった国」と呼んだのが始まり

殷という国は、紀元前1600年頃、今の中国の河南省の辺りで栄えた連合体国家であった。殷という国名は殷の人々自身がそう呼んでいたのではなく(むしろ彼ら自身は自分のことを「商」と呼んでいたようであるが)、これを滅ぼした周人がこの商邑という国家連合をさげすみの心で「殷」と呼んだということである。

 その心は「殷は国の腹全体に膿がたまった国」という意味だ。

  因みに殷の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。

殷という字の解析

  「殷」これは会意文字である。甲骨文字の「殷」の字は左辺はおなかが突出した人間の形である。右辺は今まさに手が鋭い針の形ものを持っている形である。両形の会意文字で、針を以て人の腹を指していることを表示している。疾病を治療する意味である。金文の「殷」の字は、甲骨文字を引き継ぎ、小篆もまた金文を引き継いでいる。文字が一歩一歩変化している中で、楷書の「殷」とかくようになった。


広大な王墓の門

殷の本義は手術用の石針で切り開き、血を放出する

「殷」の本義は針でさし、血を放出すること。史書記載に基づけば、最古の針治療で、イシバリ(古代医療用の石針、または石片)で、一種の鋭利な石片である。それで化膿した部分を切り開いたり、身体の部分を指したりして、傷病の治療効果を持つものである。この種の篩治療手段は3つ効果:その一骨ばり、竹針、金属バリを用いて刺治療、その二は石片、角骨片を用いて急性のカタルを切ったり、放血治療したり、第3には外科手術の切開に用いたりした。

殷は針または放血のことで、放出した血は往々にして赤黒いものである。この為殷には黒紅色の意味もある。《左伝・成公二年》にある如く、「左輪朱殷」は即ち左の車輪は血で染まって赤黒かったという意味である。針石で、化膿部を破った時に声が出た。だから「殷」は声の様な言葉にも見える。「Yin」と読む。《诗·召南·殷其雷》の殷其雷は雷の音殷殷としてのという意味である。 



殷朝の国王の墓に埋葬されていた戦車と人馬
周から見れば
殷は国の腹全体に膿がたまった国

 「殷」も周人が商を滅ぼした後、周人が商王朝に付けた蔑視的なあだ名である。意味は「商王朝の統治者は飲んだくれで色に溺れ。王国全体が腹に膿がたまった病人のようだ。周人はイシバリを手に取った医者で、彼らに最初の手術をした。だから周人は敵を恨み商を殷とよんだ。


周人が殷を滅ぼした後、商王国が数百年架かって作り上げ、蓄積してきた大量の財宝を掠め取った。だから、「殷」は膿の溜まった凸部,腫れという意味から拡張して盛大なとか多いという意味が出てくる。現代中国語の中で「殷」は財物について、充足していることを指す。また感情については「深く厚く」を指す。殷切、殷憂のとおりである。また更に拡張して、熱情、周到の意味もある。殷勤の言葉の様なもの。

 

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2010年6月2日水曜日

「男」という漢字の起源と由来は

今回は引き続き男と女の問題について上古の昔に戻ってみよう。

甲骨文字_男
男という字は会意文字である。甲骨文字の字の左は「田」である。この意は農耕のことである。

右側は「力」。これは「加」や「幼」の中の記号と同様である。元々は男の生殖器を指しており、ここでは男性を示す記号である。


小篆_男
 金文の男の記号は田の下に来ている。小篆の形体は基本的には金文と同じである。ただ「力」という字が完全に「田」の下に来ており形体もまた少しごちゃごちゃしている。楷書の「男」は小篆を引きついているが、「田」と「力」で簡単明快である。

殷商の初期、農耕はまさに土地を焼き、木の先を尖らして地上に穴を掘り、種をまいた後土をかぶせて、農作業を終えるといういわゆる焼き畑農業が行われていた。この種の簡単な労働は主として女が受け持った。しかしながらたとえ農耕の主力が女としても、氏族の集団で狩をしたり、狩猟は男の担当であった。このようにして甲骨文字の中の「男」の字は、商王国の中でもっぱら農耕部落の首領をさすようになった。


史書に記載している周の時代の「公候伯子男」爵の中の男爵は常々農事に功のあった臣に授けられる爵位である。この種の制度は殷商の時代の「男服」に源を発している。即ち「男服」とは常々農耕に従事しさらに王に農産物を貢ぐ部落の首領あるいは小規模の候国の王のことである。
周が滅んで後、華夏民族にとって民族的歴史に真の農耕時代をもたらされた。このときから狩猟活動は減少し、農業産出物が食物の本源的な主体となった。更に体力の強壮化によって、男子は農耕の生産の主体を担った。これに反し女子はその生理的条件と社会的地位の制限により、農耕領域では二次的な生産者の位置に下がってしまった。そうして家務を切り盛りし、桑や麻をつむぐことを主要な職務となった。
農耕と男子のこの種の関係は、「男」の字に新しい意味を付け加えることになった。農耕即ち男子のことである。「説文」(漢字の集大成された古文書)で「男は主人である。田と力から、力を持って田をなすことを男という。」
男の性別の意味が氏族の首領の意味に取って代わって以降、畑の中で労働する男を指し、さらに拡大して一般に成年男子のことを言うようになった。もちろん限定された使い方で、男の子を意味したり、息子を意味する場合もあるが・・。




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2010年5月24日月曜日

漢字「家」:起源と由来 「家」の中になぜ豚がいるのか 太古の昔の生活習俗に基づいていた

 なぜ、「家の中に豚がいるのか」その理由は太古の昔の生活習俗に基づいていた

 漢字「家」:起源と由来 「家」の中になぜ豚がいるのか 太古の昔の生活習俗に基づいていた

 遥か3500年前の遺跡の考古学の発見から見ると先住民は豚を家畜として飼っていた証拠がある。甲骨文字の形から見て、家の中にある豚は一頭の雄豚である。しかしなぜ雄豚なのか?

 この謎は太古の昔の雲南省の部族の風習から解き明かすことが出来るとし ている。

 納西族の婚姻の習俗は母系性社会の族外婚の一つの段階にあった。女の子は成長した後も、家族の中の母と父と暮らし、それから後も彼女は一棟の部屋を持ち単独で居住することが許される。、氏族男子が夜訪れ、泊まることになる。

   面白いのは、全く同じ習俗を、その当時の先住民の豚を飼う檻を訪れる野性の雄豚に発見することだ。夜な夜な彼らの豚の檻に野豚が訪れ、しかも同時に彼らの母豚をはらませ、巣に子豚を恵んでいる。この頼みもしない野豚はまるで太古の昔の男子と同様で、夜が明けるとすごすごと去ってしまう。両者は恐ろしくよく似ている。

 これが当時の男、野豚の雄の重要な役割であったということだ。男は部族の女にとっては共有財産?だったといえる。

 この種の婚姻習俗はかつて優れたシステムであり続けた。殷商の末期には、商民族の中下層社会に敷衍した。しかし秦になって以降、この種の「放蕩?」な現象に制止がかかり、以降この風習は廃れたという。何らかの理由でこのシステムの存在価値がなくなったのだろう。

 これが家の字の中に雄豚のある原因である。

 こんなややこしいことをいうまでもなく、上古の時代は生産力が低いので、繁殖力の高い豚は珍重され、家の中で豚は飼われていたからだという説もある。


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