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2012年6月22日金曜日

中国人と儒教の根幹「仁」の起源と由来


中国人の儒教意識 

司馬遼太郎氏とドナルド・キーン氏の対談本「日本人と日本文化」の中で、「日本人のモラル」について語り合った個所で、司馬氏は中国人の儒教意識について、「中国人の場合は、・・・非常に感心するのは、彼らは日本のいかなる儒者よりも儒教的である。そう思うのは、つまり信というものをひじょうに尊びますね。裏切らないです。」と述べている。

現実の受け止め

 しかし、私の感想は少し異なる。私の短い中国滞在と旅行の期間、実に残念だが、正直言って裏切られ通しであった。司馬氏は「彼ら(中国人)は、頼むのは同胞だとか・・・友人だとか横の関係である。」と言っている。司馬氏がこの経験をしてから、既に20年も経っていることもあり、司馬氏は著名な作家ということもあり、司馬氏の様に重く受け止められていないのかも知れないが、私には残念な結果である。
それに儒教は基本的に君子論である、君子の庶民支配の方法論を述べたものであり、解放後の中国で生き続けられるはずがないと思う。しかも中国人はこの20年の間に高度成長を経験し、改革開放路線の下で市場経済論理がまかり通っている中では、司馬氏の言うように儒教的な思考が今なお生き続いているのか少し疑問である。

儒教の根幹「仁」

 さてその儒教の根底をなす思想に「仁」という言葉がある。儒教が生まれたのは、BC6世紀ごろで、甲骨文字が生まれたのはBC15世紀ごろなので、両者の間には千年の開きがあるので、甲骨文字で、儒教の思想を語ることは論理的に無理がある。しかし、当時の社会の中で、人と人の関係をどうとらえていたかの一面を知る上では一つの材料となる。

「仁」の由来

 両形は会意文字である。仁は他でもなく、千個の心眼を持っている或いは千種の考えの聡明な人を表している。「仁」の本義はそれだけ心眼の多く、考えること密で、因みに心を砕くもの人を治む優れた人を示している。それだけ小人、下等な人に対して、上人、大人を示している。古人はこれを称して君子という。孔子は仁者と呼ぶ。
 「上流社会の出身の人で権力があり、権勢のあるものは下人を指揮することが出来るものの、すべてが「仁者」というわけではない。」彼らはまだ須らく一種の品徳を備えている。即ち「仁者人を愛す」の品行は「成仁」となりうる。冷酷で薄情で恩が少ない人、巧みな話しぶりと人当たりの良さでへつらう輩は心を砕いても「仁者」ではない。 

仁者とは

 儒家の論述に照らして、「仁者」は「敬服させる位置にいて、愛を喜捨し、進退程よく、応対程よく、物腰もよく、事を処理するのにきちんとしており、徳行が様になっており、声や雰囲気が気持ちよく、動作が穏やかで、言葉に条理がある」これらが一連の品行である。これが孔子の心の中にある封建社会の中の「上人(古代帝王)」達が備えていたいわば徳行である。明らかに車引き、酒売りの輩、田を耕し、野ら仕事の連中、及び荒っぽい虐待狂者のごときものはこれら徳行を少しも備えることが出来ないものである。
これでは私は仁者にはとてもなれそうにもない。 


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2012年6月18日月曜日

「ますらおぶり」と「たおやめぶり」の起源


日本人と日本文化

 最近、司馬遼太郎に嵌っていることは書いたが、今読んでいるドナルド・キーンさんと司馬遼太郎の対談本「日本人と日本文化」(中公文庫)は実に面白い。その中で二人が日本人の「ますらおぶり」と「たおやめぶり」について語っている。


たおやめぶり

 司馬さんは、日本人の気質のベースには「たおやめぶり」があると主張している。このたおやめぶりを漢字で書くと手弱女振りということになるらしいが、字面から言うといかにも軟弱な感じが伝わってくる。そのまま、言い換えると軟弱、優柔不断、内省的などとなるが、彼がいわんとしていることは、決して卑下して言っているのではなく、むしろ優れた気質であるといっている。 一方、「ますらおぶり」とは、剛直、合理的、決断が早い、男性的となると思うが、何か正しいことを守りぬくという点で、「ますらおぶり」の人はくるっとどこかに転換してしまっているのに、「たおやめぶり」の人は頑固であるといっている。いい悪いはべつとして、これは民族の方向を決定する上できわめて重要である。

民族の言語、気質と気候

 わたしもかつて中国に居る友人と討論したことがあったが、日本語そのものが実に女性的ではないかと感じている。そしてその言語、民族の気質を作り上げたものこそ「気候」だろうということで、意見が一致した。日本の気候は実に女性的だ。細やかで、繊細でしかもしたたかである。気候がしたたかというと変に聞こえるかもしれないが、要はしぶといのである。変化するにもなかなか変化しない。その点中国の気候は大陸性気候で実に男性的つまり「ますらお的」である。実に単純で、はっきりしている。これはシンガポールでも、南太平洋でもそうであった。シンガポールや南太平洋の初頭の気候は海洋性気候で穏やかであり、中国のそれとは異にするが、それでも、なお男性的である。雨の降り方でも日照のあり方でも、降るとなると土砂降り、わずか2、30分も降ればぴたりとやんで、ぎらつく太陽が顔を出す。最近では日本でもゲリラ豪雨と呼ばれる現象がでているが、日本の場合そう簡単には降ったり止んだりしてくれない。

 因みに中国語には「ますらおぶり」とか「たおやめぶり」という語彙も当然の如く存在しない。ますらおで辞書を引くと「男子漢」「大丈夫」「好漢」という約が見つかった。また「たおやか」に対しては「優美」「閑雅」という言葉が見つかったが、いずれにしても日本語のこの語彙とはかなりの開きがある。 

日本の男性作家と女性作家

 日本の文学史上、基本的にはたおやめぶりで、万葉集、芭蕉、明治初期など時代・時代の変わり目の時に「ますらおぶり」の文学が現れるが、すぐにもとの「たおやめぶり」に戻ってしまう。

 したがって、日本の文学には「私小説」的なものが多いのである。私の勝手な心証であるが、この私小説的なものを書く作家に、意外と男性が多く、逆に女性作家の方に、ますらお的なスケールの作品を書く人が多いのではないかと感じている。長い間虐げられてきた女性は自ずと目線が下からの、社会の仕組みそのものに向けるようになっているが、男性の場合、甘やかされて育っているのか、どうしても自分中心の目線つまり「俺が俺が」の目線になってしまっているのではないだろうか。この議論少し乱暴かもしれない。

 私の尊敬する作家は、山崎豊子さんである。


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2012年5月22日火曜日

漢字の起源と由来:悠久の昔から受け継がれた姓「羌」


「中国・蜀と雲南のみち」を辿る
 このところ司馬遼太郎さんに嵌っている。その彼の「街道をゆく20」の「中国・蜀と雲南のみち」は彼が昭和56年に成都から雲南へと辿った道の少し古い紀行文である。
 私も先日北京から成都に入り、四川を遡り九賽溝をめぐった後、三峡を少し下って来た。もっとも私の場合は完全な観光旅行であり、司馬さんのいわば取材旅行とは趣をずいぶん異にするも、もう少し自分の足跡をトレースし直すのも悪くないと考えている。

「羌」と「姜」
 それはさておき、彼の「街道をゆく」の中で、少数民族のチャン族のことが触れられていた。そこでこのチャン族のチャンという漢字に焦点を当ててみたい。  このチャンという漢字はピンインでqiangと表現するが漢字では「羌」と書く。もう一つ「姜」という字があり、まったく同じ字形をしており、原義も殆ど同じである。ただ羌は男のチャン族であり、姜は女のチャン族を表しているという。 そしてこの姜という字は上古の氏姓制度の名残りとして今日の「姓」に受け継がれている。

チャン族の人々
 現代ではチャン族の人々は、人口30万人と言われ、青海、チベット、雲南の各地に分布し、少数民族としての文化大切に(頑固に)守りながら生活している。司馬氏は「街道をゆく」の中で、このチャン族は殷周帝国の祖先ではないかと推察している。周族の女性にこの姜を名乗る人も多かったというのも司馬氏の推察の根拠になっていたのかもしれない。


 羌、姜jiang共に羊に関係する特殊な字である。この2個の字は全て一つの古くて且つ多難な民族に関係している。彼らの世代は牧羊で、羊で自己のトーテム崇拝をしている。彼らの宗教はアミニズムをである。そしてそれは生活様式と融合し今日まで受け継がれている。

 羌は甲骨文字では羊と直立した人の合成字であらわされる。字形の構造からみると、十分人が羊の首を飾ったように見える。さらにこの事は牧畜の生活様式と密接に関係している。
殷商の甲骨卜辞中、非常にむごいことだが、多くの羌人を生き埋め、叩き切り、焼き払い、手足をバラバラにした後に祭祀品に当てたという記載がある。



羌人の彷徨
 羌人は元々古代の中国の西部(今の山西省、陕西省一帯)の遊牧生活をする部族を指していたが、北方の遊牧民族も含まれるようになった。羌人は祖先から遊牧業を守り抜いてきたし、漢族と結婚もし、混血して生きてきた。但し中原の漢族の不断の征伐と凌辱を受け、次第にはるか西北部に追いやられてきた。漢代の時人々は西羌と呼び、北宋時代には突厥と呼称し、或いは唐の時代にはトルファンと呼んだ。後日、青海とチベットの少数民族に融合している。


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2012年5月14日月曜日

白川文字学と唐漢説の分かれる所

唐漢氏と白川博士
 私がここで紹介している唐漢さんの甲骨文字に関する説は、おそらく中国の中でも亜流の説であり、本流とは認められていないようだ。事実彼の著書の表紙には「奇説」という言葉すら記載されている。

 一方白川博士はわが国を代表する推しも推されぬ漢字学の権威の一人である。

白川静さんの漢字学の中心をなす文字
 白川静さんの漢字学の大きな中心をなす概念(サイ)に関連した文字だ。白川文字学の大きな功績のまず第一に挙げられるのが、「口」が「くち」ではなく、神への祝祷の祝詞を入れる器「サイという名の器」であることを体系的に明らかにしたことだということだ。(小山鉄郎著 「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」より)


 そして、「口」の字形が含まれる漢字は非常にたくさんあるが、古代文字には、「耳口」の意味で構成される文字は一つもないという。


 しかし、ここで疑問がでてくる。「耳」、「鼻」、「目」、「首」、「手」、「脚」等身体の部位を示す字形が含まれる漢字は古代文字には沢山あるにもかかわらず、なぜ「口」の意味で構成される記号「口」が一つもないのだろうか。

 また白川先生によると基本的に甲骨文字は時の王が自らの宣旨や命令を記録するために生まれたのであり、王の宣旨は卜辞や占いの形をとって為されることが多いため、必然的に甲骨文字は宗教色や卜辞の色彩が色濃く反映されたものだとのことである。

 話は変わるが、つい先日司馬遼太郎氏と陳舜臣氏の対談の文庫本を読んだが、その中に面白い話を見つけた。それは「跪」という漢字に話が及んだとき、当時はまだ褌というものがなく、男もすその割れるような服を着ていたので、跪く時には一物がもろに見えて大変「危険である」ことから足偏に「危ない」と書いて「跪く」としたのではないかということで、少し話が盛り上がっていた。跪くのは別に男に限らないし、多少は話を面白おかしくしているところもあるかも知れないが、この両大作家の解釈はまさしく唐漢氏と発想は同じくするものであり、独断ではないのだと意を強くした。ちなみに唐漢さんの本の中には、「跪」という漢字に関する記述はない。というのは、この漢字は甲骨、金文の時代にはまだこの世にはなかったからである。

 漢字というものは、漢字の構成および構造だけからは捉えられない奥深いものを持っているとを痛感させられた話である。


 白川氏自身が漢字学から入った学者ではなく、考古学から入った学者だと誰かが少し難癖のようなのものをつけていた人もいたが、入り口は何処であろうと、彼は大学者である。しかし問題はそんなところにあるのではなく、その人が科学の立場に立っているか、観念論かどうかが分かれ目のような感じがする。すこし大上段(大冗談??)過ぎるかなあ。

 私のような人間がこのような口幅ったいことを言うのはあまりにあつかましいと非難が聞こえてきそうであるし、私自身もそんな感じを持っている。浅学のそしりは、甘んじて受けねばならないだろう。


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