2012年7月30日月曜日

漢字「穴」の起源と由来 先人たちは穴から出てきた 


  漢字 穴:「穴」の起源と由来 先人たちは穴から出てきた 

 穴は本来動物の巣穴のことをいう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とか「穴があったら入りたい」と我々の生活の中でも、交わされることである。もっとも最近はこのようなリスクを負う場面が少なくなって、人々はあまりこう言ったことを処理をするのに慣れていないので、どうしていいかわからない。だから警察等の公権力を頼りにしがちである。この事は社会が発展したともいえるが、別の見方をすれば、人間の退歩である。社会がきちんと機能しているうちはまだいいが、最近では本当に機能しているのかと疑う場面に遭遇する。これからますます複雑になる社会の中で「自分の命を自分で守る」ために、リスクに対応する能力の開発も必要になってくるだろう。

 その意味で、先人の残した漢字から、「自分の命を自分で守る」生活の知恵を探ってみたい


引用 「汉字密码」(P714, 唐汉,学林出版社)

"穴"は 上古先民住んでいた洞穴のデッサン画像

 "穴xu" は、これは一つの象形文字である。甲骨文の "穴" 文字は "天子" の中の"丙" の文字との同じ源で、上古先民が住んでいた洞穴デッサン画像だ。約 7000 ~ 10000 年の間の有史以前、黄河中下流地方の先民は、一種の袋状の穴居室を使っていた。いわゆる  "土の穴" である。

"穴"文字の本義は "土の穴" だ。

 このような口小さい腹の大きい穴によって土を掘ってつくる、屋根だけはあり、壁体がなく、その縦断面は"内"形だ。甲、金文の"穴"文字は相当このような土室に似ている。小篆の"穴"文字は金文を受けて、その上に一点を添加して、穴の脊椎屋根の出現を表している。楷書は小篆を受けて、点画の間を分けて"穴" と書く。 "穴"文字の本義は "土の穴" だ。

 《易•系辞下》にある如く"穴居而野处。"この中の "穴 "は即ち地穴のことで、穴洞の意味である。 また拡張して、墓を掘る、墓穴(埋葬する死人の穴)のこと。《歌•王风•大车》:の如く、"死则同穴。"とは、死後は一緒に埋葬するということ。「穴」の字は部首字である。およそ穴の字が構成されている字は皆家屋や洞穴に関係がある。害、巣窟、窓、孔など。
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2012年7月28日土曜日

古人の主食:粟、米、麦、稷、豆 総称の「禾」の起源、由来


中国は東アジアの文明の中心である。

  世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。
 中国は東アジアの文明の中心である。また世界農業の主要な発祥の地である。考古学者は今から7、8千年前の多くの遺跡中に粟、黍、稲等の穀物の遺物を発見し、また多くの簡単ではあるが十分実用的な生産工具や食料を加工する各種器具を発見した。この歴史的遺物は、有史以前に農耕文明が燦然と輝いている存在であることを示している。

引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社)

「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
「禾」は五穀(米、麦、粟、稷、豆)の総称
 その頃は主食は北方の地域では、稷(きび)や粟であったろう。これらの作物は乾燥に強く、干上がることの多かった黄河流域の比較的北方の地域ではよく作付されていたであろう。ところが南方即ち長江流域では既に米の栽培がなされており、水田も多く広がっていたと考えられる。それぞれが植えられ始めた時期はそれほど違ってはいないだろうと考えられている。


古代人の主食は「禾」

 禾という字の甲骨文字、金文は皆熟した穀物の様である。下部は根、中部は葉、上部は一方に垂れた穀物の穂である。古文の字を作った意味は見て分かるように、穀物で、まさに完全な形状をなしていて、本義は穀物を表す。 説文によると、禾を解釈して、よく実った穀物のこと。二月に生え始め、8月に熟し、時を得るうち、これ禾というなりとある。


「禾」は五穀の総称


 ここで禾は実際は粟のことを言い、粟を脱穀したものをいい、これが北方地方では古代では主食であった。これは猫じゃらしが穀物として成功したものだ。中国東北地方の旱作農業地域では主要な糧食であった。

 こうして何千年のうちに、農耕技術も発達し、貧富の差が生まれ、村が邑となり、大きな邑連合が形成され、都市国家を形成するようになり、殷商の時代に突入して行く。 
殷商の時代には広くいきわたり、産量が最大の糧食作物になっていた。秦の時代には禾は穀物を指し、もっぱら粟のことを指していた。

  漢字が甲骨文から金文に至るまで一つの例外もなく、歴史的証左で、一字一字農耕文明の残した暗号が数多くあり、農業技術の一歩一歩の推進を示している。また、同時に華夏民族の農業の文明の歴史過程を反映したものであることが分かる。 

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2012年7月27日金曜日

裳はスカート:「裳」の語源と由来



衣裳の「裳」はもともと「常」と書いていた。「常」の字から派生字の「裳」が出来たその秘密に迫る。そんな大層な問題ではないが・・。
衣裳の「裳」はもともとは「常」と書いていた。
「裳」は「常」の派生字である
引用 「汉字密码」(P697, 唐汉,学林出版社)


 「常」は会意文字。「尚」+「巾」

 「常」は会意文字である。原義は下衣のことである。即ち人が下半身に身につけるスカートのことである。金文の「常」の字は上部は「尚」で、元々は古代の家の屋根で両方に勾配が付いている家を指す。下部は「巾」の字で布を指す。両形の会意で、スカートの前と後ろを隠して遮蔽している様をよく現わしている。小篆の「常」の字は金文を受け継いで、基本形は同じである。「尚」の字はまた発声を表示することから、巾と尚の発声で、形声字にもなっている。楷書ではこの事から「常」と書く。 

 新しい意味の派生

 古人はすでに羞恥心が備わっていたことから見て、夏の炎天下で上着は脱ぎ捨てることはあっても。下着は脱ぐわけにはいかなかっただろう。この為に「常」の字から恒久とか常時という意味が引き出された。

 『苟子•荣辱』の「仁义德行,常安之术也」 仁義徳行は常に安らかなる為の術であるという意味。

 「常」は「裳」に庇を貸して母屋を取られた格好

 常の字は引き出された意味専用になり、古人は「裳」の字を作り、専ら下半身のスカートを指すようになった。これは、常の字の下の「巾」が「衣」に変化し、派生字を作り出した。衣と裳を同時に上げた時、衣は上着、裳は下着(スカート)をさす。
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2012年7月25日水曜日

衣裳の衣は上着のこと、裳はスカートのこと

 「衣食足りて礼節を知る」ということわざがある。しかし最近のいじめの問題を考えてみると、「衣食足りているはず」のいいところの子弟が加害者になって平然としている。「衣食足りて・・」という命題はほんとうに正しいのか自信がなくなってくる。マスコミは学校が悪い、教育委員会が悪いと激しく責め立てる。悪いのは事実である。しかし、物事の背景には、家庭教育の欠如があるような気がしてならない。特に幼児、児童教育がわるいのでは。大きくなってからあれこれ言っても、はっきり言って遅い。これは自分自身の実感だ。


引用 「汉字密码」(P696 唐汉,学林出版社)

  「衣」は象形文字である。甲骨文字、金文、小篆の字形は基本的に同じである。その上部は人の字形で、着物の首の部分を表している。両側の開口部は袖で、下部は襟である。即ち古代の左前、右前である。楷書の形体は隷書化の過程で、字形が美観を志向し、但し象形の味わいは失われている。既に衣服の様子はない。

  東方未だ明るくない。衣服の上下を間違えた。これは《詩・斉風・東方未明》の中の2句詩东方未明,颠倒衣常(同裳)である。これは天がまだ明るくない時に起床した慌てて上下の衣服を履き違えたということである。現在は衣裳は一つの言葉であるが、古代は2つの言葉であった。説文は上は衣、下は「裳」と解釈している。「衣」の本義は上着を指す。《詩・却風・緑衣》にある如く、「绿衣黄常(同裳)」このことは緑色の上着に黄色のスカートという意味である。

 「衣」の字は上着から拡張され、衣服の総称になった。《詩・函風・七月》:着るものも食うものもない。服装と食品は人々と切り離せないものである。この為人々は衣食を与える人を称して「衣食父母」という。衣服は体の外に付けるもの。いわゆる、衣の字は物体の表面を覆う層のものを指すのに拡張された。書衣、落花生の衣、地衣、糖衣などなど。その中の衣は事物の外の表皮を指す。
  日本では、男は左前、女は右前と決っていて、これは、男が女の胸に手を入れやすくするための決めごとと聞いていたが、あんまり関係はなかったみたいだ。それよりも男は武器を手にする必要から、右手を懐にすんなり出し入れするには左前しかない。これは古代からずっと続いてきたことなのかもしれない。
 因みに中国でも男の服は左前と決っているようである。また人民服は男女にかかわらず左前、現在でも軍服は左前のようだ。但し見栄えを重んじる儀礼服は女性は右前になっているようだ。
 日本の自衛隊については、戦闘服は分からないが、行進の時の制服は男は左前、女性は右前となっているようである。
 想像するに戦闘服は男女の右左の区別はないのではと思っている。


中国网より










2012年7月24日火曜日

漢字「宴」の起源と由来:屋内で女の人で客を接待すること

「宴」の語感
  漢字「宴」はもともと屋内で女の人で客を接待することの意味をもっていた。しかし近年「宴」から受ける語感は変化している。

 「春高楼の花の宴 めぐる盃影さして」と詠われた、春の宴は我々日本人にはうつくしい響きを以て、ある種の心地よさをもたらしてくれる。これは土井晩翠作詞と滝廉太郎作曲によるものだ。

  しかし、このような美しい情景を思い浮かべる「宴」も、その言葉の原義は、もっと生々しい、人間のエゴと欲望の渦巻く舞台であった。

「宴」の漢字の発展

引用 「汉字密码」(下巻P744 唐汉,学林出版社)

「宴」これは会意文字である。金文の宴の字は外側は屋舎のかたちで、中の下には「女」で、上部には「日」で、女とのセックスを表している。小篆は金文を受け継ぎ、「日」が女の上になっている。楷書では「宴」と書く。
  ここで「日」という字は、セックスを表しているというが、またもや唐漢さんの独特の発想かと思いきや、「中日大辞典」では、「罵り言葉として男から言う「日」には性交する」という意味も含まれるというから、まんざらとび跳ねたものではなく、それなりに巷ではこのような使われ方をしていたのかも知れない。

「宴」の本義は女の人で客人の接待をすること

引用続き
 「宴」の本義は女の人で客を接待することである。「宴新婚の兄弟の如し」ということは「上古時代の族外婚の時は兄弟同様一人の女性を共用する。「宴」は古代にあってはまた部屋の意味を表す。《易·随卦》の"君子以向晦入宴息。"の「宴息」は「夜になると屋内に入って休息する」という意味である。実際今日では、この行為は極端に野蛮で淫蕩な行為と見られているが、上古時代から女の俘虜はみんなの共用で、且つ客人の接待に使っていたのは一種の習俗であった。

 春秋戦国時代に至ると、諸侯、貴族、大商人は例外なく女を養うことで以て栄えたことのアイデンティティーとし、幼い子供、美しい妾で部屋を満たし、楽団や芸子を家の奥深く侍らせた。


 この種の女性は、単に高官、貴人に留まらず性欲のはけ口になった。また彼らは客人の接待に用いる一種の用品であった。
現代漢語の中で、宴は宴会、酒宴、宴席に招くなど多用されている。


壁画に見る宴会の様子

  この様子は昔殷の国の大きな邑があった云わば都であるが、今の中国の安陽という街の「安陽博物館」に飾られていた大きな壁画にも見ることが出来る。これは後世のものだろうが、当時(殷朝の時代)の宴のありようを表していると思う。
 この絵の左側は宴の出席者で、主催者と客人が飲み食いしている様子が見て取れる。右側には粗末な服を着た女人たちが踊っている。これが、恐らく奴婢、奴隷で、この宴で客人たちに体で接待を強要された者たちであろう。
 この時期は日本は縄文時代の末期であるが、中国では既に殷朝という大都市国家が出来、地域的ではあるが、権力の集中がみられている。建屋も立派な大きな宮殿が作られている。
 また女たちの着ている衣服にせよ、貫頭衣の様な未熟なものではなく、粗末ではあっても、それなりの縫製されたものと見受けられる。またこの王宮跡にはとてつもなく大きな青銅器の鋳型が作られていた。

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2012年7月18日水曜日

麦は太古から貴重な穀物

麦の歴史は非常に古く、比較的寒冷地でも、乾燥地でもよく育つことから、西アジア・西域の地で栽培されていたものが中国に伝わったのではないかといわれている。昔から安定的に収穫できる作物として、重宝されている。

当時の食生活は、庶民は粟飯、貴族は黍飯その他麦、米などが食膳に上っていたようだ。
調味料としては、6,7千年前には既に、醤、酢、酒が開発され、今から3,4千年前には調理法も
煮る、焼く、炒る、煎じる、蒸すなど多岐に渡り、基本形は確立され、既に現在と殆ど変わらないような調理がされていたものと思われる。もちろん冷凍マグロなんてのはなかっただろうが・・・。チーズなどはあったのだろうか?興味は尽きない。


引用 「汉字密码」(唐汉,学林出版社, P214)

 「麦」これは小麦の専称とである。また麦類の作物の総称でもある。甲骨文字の麦の字は会意文字である。上辺は麦の株を植えるデッサン(来)で、下辺は足をひっくり返した形である。金文と小篆の「麦」は甲骨を受け継いで、麥と書く。漢字の簡単化から「麦」と書かれる。

 ある人は「来」の下に一つの足を増やしたことは、春に小麦は芽を出すとき、農民は足で踏みつけ麦の苗を押し付け踏みつけることからこれを表したものだ。 この種の情景は近代の農村にあってもまだ尚見ることができ、しかし、3300年前は分からない。先人はまだこの小麦の習性を理解できていなかったこともありうる。

 「麦」 は農業文明中非常に重要な位置を占めている。《礼記・月令》の中で言うには、「麦」は断絶と継続の乏しい穀物だ。即ち「いつも秋になってまだ作物が成熟していない時に、麦が収穫でき、まさにこれは絶えて何もかも乏しいときでも、続けて収穫できる。「本草図経」で、麦は五穀の中で貴重だ。周人が殷商を滅ぼしたもの、秦が六国を平定したものその強大な物質的(主要には食料)基礎があり、麦に関係があるに違いないといっている。

 司馬遷は「史記」のなかで麦の故事として触れている。殷商が周によって滅ぼされた後、箕子が周の王都镐京に行きたくなった、殷商の古都を通過したとき、昔の豪華な宮殿が既に荒れて田地になっており、感極まった。一首「麦秀歌」を作った。「麦は次第に芽を出し花が咲く。黍は悠々とゆったりとしている。あの軽薄な子供。われ好まず。この歌の中では箕子は「軽薄な子」で以って、暗に殷の纣王を批判し、纣王が彼を信任して重用しなかったことを述べている。国敗れて人はなく、都は沈んで麦畑になった。殷の人はこの歌を聞き、しばし涙が流れて止まらずいつまでも嘆き悲しんだ。
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2012年7月12日木曜日

「黍」酒の原料:漢字の起源と由来 稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を表す


「黍」と「稷}

おなじキビでも漢字に書くと「黍」と「稷」。 「漢字源」によると、
  • 「黍」:穀物の名。実は赤、白、黄、黒など数種類ある。北中国では主食にし、飯、粥を作り、酒を醸すのに用いられた。香りと粘りがある。

  • 「稷」:イネ科の一年草。弥生時代に中国から伝来した。茎の高さは1m内外。葉は長く広線形。糯と粳の2種類ある。穀物の長と言われる。

黄酒と白酒

  この黍を原料とした酒に「黄酒」があり、一方高粱を原料とした酒に「白酒」がある。この白酒はアルコール度50、60%というのが一般的だ。飲み方は日本の焼酎の様にお湯割り、水わりと言うのはなく、原酒でかぱかぱ飲むのが常識である。日本流に考えて、「お湯割り頂戴!」なんて言うものなら、馬鹿にされるので、言わない方がいい。自信なければ、初めから「飲めません」と断るのがいい。中途半端な飲み方は、人間も中途半端と思われるのがおちだ。

  日本語では同じ読みの「きび」でも、甲骨文字では全く異なった形をしている。このことは、中国古代では両者は異なる使い方をされていたのではなかったろうか。

引用 「汉字密码」(P212, 唐汉,学林出版社)

漢字「黍」の起源と成り立ち:上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態


 漢字の成り立ち:甲骨文字の「黍」は上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を言う。下部は根で右辺は水を表す。
 「黍」は季子ともいう。皮を取り去った後は、大黄米ともいう。現在では陕西、山西省の北部、内蒙古の少数の旱魃、高地、寒冷地を除きこの種の糧食作物を植えることは少なくなっている。

しかし、黍は上古の時代は十分その地位は顕著であった。黍米は粟と比べ粒が大きくその色は黄色で、成熟した後一筋の香りもある。貴族だけが常食してた。平民は粟飯を食べていた。



黍
 甲骨文字の「黍」は上部は稷の穂が分かれ、斜め下に垂れている状態を言う。下部は根で右辺は水を表す。小篆の黍の字形が変化し、禾と雨の。説文は「黍」を解釈して、禾に属する粒もの也。 黍は酒にもなり、水の入った穀物。また黍の字の構成中水があり、黍が水をよく吸収することを示している。右の画像は黍の穂である。(ウィキペディアより)


黍と酒


  酒の重要性は食物にも似ていた。古人は飲む酒も酒粕も正に一切食用であった。甲骨卜辞の中に常に出現する一種の酒即ち鬯(古代の酒、黒キビを原料とし鬱金草を混ぜてかもした匂い酒)は香草と黍を合わせて醸した匂い酒である。古人は黍で匂い酒を造った。黍を脱穀後一旦蒸して色が済んだ色になると一種の心や臓腑にしみる香気をもつ。黍を用いて造った酒は広軌が黍飯に比べ、濃厚で人を酔わせる。この為この種の酒は常々個人が祖先の神霊にお供えするために作るものだった。




黍と香り

  黍は無論飯も作りまた酒も作る。皆香りと味はよく、個人は香りという字を作る時黍と甘いという字を組み合わせた。


「黍」は「香」の字の原字

  以降黍の音を簡略化し禾とし、ついに「香」という現在の字が出来た。  黍を蒸す時一種の粘りがある。北方の農村ではいつも正月にはこの大黄米を使って、餅や粽を作り親戚や友人を接待した。この為、「胶」と「黏」の字を表示して、「占」の音で、麦飯の粘りの意味を表す。

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2012年7月9日月曜日

古人は稷を主食としていた:漢字の「稷」の起源と由来

古代人は何を食べていたのだろうか。その主食はなんであろうか?それを解くカギは甲骨文字にあった。これから文字から古代人の生活を蘇らせることに努めていこうと思う。

 古代人は主食は五穀を食べていた。即ち黄河流域の北部の乾燥地帯では、稷(きび)、粟、長江流域では早くから水田が開かれ、大規模な灌漑工事が施され、主食は米であった。この外五穀には小麦、豆等があげられる。豆はどこでも栽培されていたようだが、小麦はむしろ西域から伝わったようだ。



以下は「汉字密码」 (唐汉、学林出版社)より引用

稷は穀物の長

「禾」が穀類の作物をおおよそ指す一方、粟は穀物が成熟後の種子を指すのに用いられる。粟が「谷子」の専用名称になったために、穀物の種子を表すには、今日に至るまでずっと「稷」が用いられている。甲骨文字ではまるで人が穀物の苗をもてあそんでいるような字形である。金文と小篆の「稷」の字は人の形が一つ一つ変わって、採集は一個の形声字に変わっている。説文では「稷」は五穀の長で禾偏と形声からなる。



稷は中国東北地方では最も良く栽培された

「稷」は乾燥にも十分耐え、北方の干からびた天候に適しており、産量も比較的安定する。脱穀後粟飯粥または炊飯は少しさわやかな香りがする。だから、稷は古代先民からは穀物の神のように見られ、五穀の長とみなされた。古人の稷に対する評価は「天下はこれで安定だ。危なくなるはずはない」


古代では稷は農耕文明の中心的存在

中国は元々農業大国を誇り、土地と菱食は立国の本と見立てていた。古人は社で以て土神とし、黍は穀物の神と見ていた。社稷(土地の神と五穀の神)併せて国家の代称の言葉とされた。(社稷は国家という意味がある)漢代の大学者班固は解説して、「人は土地に立つにあらず、穀を食うにあらず、土地広くても、教えるに偏ること出来ず、五穀多くとも、いちいち祭りもできず、故に土地に封じて役所を作れば、土地があること示す。 稷は五穀の長である。故に稷を立て、これを祭る。」この事から稷は農耕文明の中心的な重要な位置を占めている。


農業の発展につれ、「稷」の農作物の中での比重は減少


今日農業の発展、進歩するにつれ、稷の農作物の中で占める比重は次第に小さくなった。しかし社稷が国家の代称ということも、長期に下火になった。北京公園内で明清の両代皇帝が使用してきた社稷坛はよくよく整備され欠けたところがない。

以上引用終わり



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2012年7月5日木曜日

漢字「左」の起源と由来:「左」には助けるという意味あり。「佐」は助ける人

左は「工具」を持つ手の象形文字

 「左」という字は、甲骨文字ではまるで左手を上に上げた形状をしている。甲骨文の右の字と相反する。金文と小篆の「左」の字は、下に一個の「工」の字を増やしたものである。ここでの工の字は工具と見ることが出来る。また針を通して作るとも見れる。但し全て労働して作るの意味である。両形の会意で工作の左手を表示している。
この解釈は白川博士も、藤堂博士の「漢字源」でも同じ解釈をとっている。
 
左の本義は左手である。左右の両字が連用される時、『左右圣上』のように補助の意味を表す。即ち皇帝を補助するの意味である。「佐」は左の字から出来た。それは前の文の「佑」と同じである。だから、左の字はもともと補佐の意味を有する。補助は「佐」から受け継がれている。


中国では東向きを左という。これは皇居は南向きに作られており、皇帝から見て東は「左」に当たる

中国の伝統的地理の観念中、常に西向きを右と言う。東向きは左という。江西は江右といい、山西は山右といい、江東は江左である。このような方位の概念は、元々皇宮が北にあって南に面して、君主は南に向いて座るのは確定的である。


左は太古では低く見られていた。戦車が使われるようになると左が高く見られるようになる

 「左右」の字は尊卑、上下の気配を濃厚にもっている。「右」は本来勝ち進む、出来るの意味を持っている。しかし戦車の文化の中では、却って「けなし言葉」になってしまった。


古代の戦車での戦闘方法 

 古代は戦車には3人一組で乗り込む。御者は前方の真ん中に座り、射手は矢を以て車の左に座り「車左」、長い矛を持つものは車の右辺に立って陣取る。また、車右とも呼ぶ。敵味方双方の戦車が殺し合う時、相向かって駆け、先ず射手が更新中に連続して矢を射かけ、戦車が近くなって迫撃の時、両者は同時に左に旋回し、右側の長矛を持った兵士に攻撃をさせる。古人は所謂「左に回り右に引き出す」という。これは所謂「一回のわたり合い」だ。両者は相向かって駆け抜け、左に転じて攻撃し、もしこれが右に転じた時は、戦車の攻撃の規則に合わず、戦うのを嫌って逃げたことになる。左は攻撃、右は逃げる。

左が低く見られたのは、何も中国に限らず、インドでもそうだったと聞いている。昔はトイレでは紙を使わず、尻は手で拭いたが、その際、右手は使わず、左手で拭いた習慣があった。従って、今でも左手は「不浄の手」と言われている。握手する時も左手で握手を求めるのは大変失礼なことだそうだが、どうであろう。


左は革新、右は反動

 近代社会に至っても、左は革命、右は反動、左は妄動、右は機会主義となったことが、定着したが、これは、昔の戦車の戦法が人々の意識に染み付いてしまったためであると唐漢氏はいう。
 しかしこのことは、フランス革命のときのフランスの議会で、革新側は議場の左に陣取ったことから来ていると昔習ったように思うのだが・・。

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2012年7月2日月曜日

実は中国の古代人も右利きだった


現代人からの推量

現代人の非常に多くの部分は右利きである。子供のころに左利きだったのに、親に無理やり矯正させられた経験を持つ方もあるだろう。
現代人に右利きの人が多いということは、古代人もやはり右利きが多かったではないだろうかと考えていた。その根拠は、若し昔左利きが多かったとすれば、左利きを右利きにするための何らかのかなり大きな変化がなければならないが、そういう要因はあまり考えられないということ。
ある統計でも日本人の約88%、香港の約90%、スウェーデンの約94%、トンガの約91%など、圧倒的に右利きが多いという結果が出ているということだ。

体の左にある心臓を守るには左手を空にしておくことが不可欠 

 もう一つの根拠は、人間の心臓は左にあり、若し何らかの事情で心臓に直接的危害が加わる恐れのある時、とっさに心臓をかばう為には、常に左手は空けておかねばならないということだ。これは、人類普遍のことであり、日本人だろうが、中国人だろうが、現代人だろうが、古代人だろうが、全く同じことであると考えるからである。

甲骨文字に「右」、「左」はどのように現れているか

甲骨文字の「右」
 さて、それが漢字に現れているのか、現れていないのかを見てみたい。甲骨文字の右という字は右の画像のとおりである。甲骨文字では、右手の象形文字になっている。では甲骨文字の左はどうなっているかというと、これまた左の画像の通り左手の象形文字である。

甲骨文字の「左」
 それならば、この右と左の手の形が甲骨文字の中でどのように現れているかである。まず手偏であるが、甲骨文字の段階で手偏が現れることは、まずないといっていい。次に左右の文字について、調べてみると、右の手では、針を持ったり、刀を持ったり、指で目を突っついたり、棒でたたいたりする動作の殆どは右手でなされていたことが分かった。では左手はどうかというと、「左」という字でも分かる通り、工具を支えたり、右手の動作を支えたりする事にしか使われていないことが分かった。この点については、「漢字源」でも、左には「そばから左手で支える意味を持つ」と書かれている。甲骨文字すべてについて見たわけではないので、もう少し深い研究が必要であるが、ざっと概観した限りでは、この観察結果に間違いはないように思う。

「漢字源」の中で、右はどう定義づけられているか

さらに、やはり「漢字源」の中で、「右」は以下の意味を持つとされている。
  1.  
  2. 右の方に行く
  3.  西    王宮は南向きに建てられたので、王座から見て右は西に当たるということで右=西となった。
  4. 上位 戦国時代は左はいやしく、右は尊いとされた

以上の考察から、古代においても、右利きが優勢を占めていたことは間違いがないと思われる。おそらく人数でも優位だったろう。
 

「右」という漢字の変遷と使われ方


因みに「右」の字についての解説を最後にしておく。参考にしたのはもちろん唐漢さんの「汉字密码」である。
右は甲骨文では完全に右手の正面の形状である。金文中の字形は変化して会意文字になっている。右下に一個の口が加わり、ご飯を食べようとする手を表している。楷書の「右」の字は書くのに便利なように、ちょうど鏡像の様に反転して、今日の右の字になっている。
「右」の本義は右手である。説文での解釈は「右、手と口が相助けるなり」としている。右手が飯を食べる時食べ物を口の中に運ぶのに効率よく、だから右の字は助けるの意味もある。『·襄公十年』では天子介るところ、独り者またこれを祐く。この句の中で「右」は即ち助けるの意味である。以降右のこの一つの意味から「佑」の字が出来た。
右は又方位を表す名詞である。左の反対だ。「孫氏の兵法」にある、「左に備え右を薄ということ、右に備えることは、左が薄いということ」 多くの人にとっては、右手は総じて左手に比べ器用である。だから古人もまた右を巧みで、より高く、成語でも「右に出るものなし」という言葉もできた。即ち優れたという意味である。 
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「苗」:漢字の起源と由来


 先日台風4号が来て、和歌山の田が水浸しになっていたのがニュースになっていた。レポーターが百姓さんに大丈夫ですかと聞いていたが、百姓さんは「未だ植えたばかりなんで大丈夫です」と答えていた。これが高知だったらもう第一期分は刈り取りの時期なので大きな被害があったに違いと思いながらみていた。

苗という字の語源と由来


「苗」という字は会意文字である。金文と小篆の字形は、等しく小さな草が萌え出て来て、田と組み合わせになっている。草かんむりと田が合わさって、田の中から成長してくる幼い苗が正に生え始めていることを表している。植物の成長の過程で漸く成長する時を「苗」という。開花時は「秀」といい、結果の時は「実」という。


論語で曰く「苗而不秀者,有矣夫!秀而不者,有矣夫! (苗而して花付けないものもおり、花咲いて実をつけないものもいる。)」これは孔子が彼の弟子顔回英が年若くして逝ったことを惜しんでいったことである。後に「苗而不秀」は成語になって、才能のある人が早く死ぬことを言う時に専ら用いられるようになった。


苗のいろいろな使い方

 拡張されて、「苗」の字は広く植物の株や動物がまだ初めの状態にあること指す。例えば、苗場、豆苗、苗、花苗、苗等である。また更に拡張され、事物が初めてその兆候を表すことを示すことを言う。(露頭)、火苗(火頭)等である。また特に疫苗を指し卡介苗(ワクチン)などという。この類の疫苗は人体に注入し、人体の免疫力を増加するためのものである。


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