2012年2月29日水曜日

方位の漢字:「北」

漢字「北」の解釈の通説
「北」の字の甲骨文字の解釈は、人という字が背中を向けあっている。これは反目している状態の会意文字であるというのが通説であるようだ。この説明からは北という字が「背」に使われているなどには確かに納得できるものである。

唐漢氏の意表をつく解釈
  ここで紹介する唐漢氏の解釈は少し意表を突くものであり、こういう見方もあるのかと思わせるものであった。



唐漢氏は人とその影を文字化したものだという
  北と南は相対する。4つの主要な方向の一つである。甲骨文字の形は一人の人間と影である。正午自分どこに向いていても、影の頭はすべて北向いている。

 北方の冬の時期は人影は一般に長く地上に映え非常に顕著である。この為古人は地上の影が正対している方を北とした。この事から今日われわれをして古人の観察が細かくかつ、字の構造を作る妙を思うと感嘆しないわけにはいかない。

 しかし、それにしても、北は人に対してその影を表現したものだという意見にはいささか違和感を覚える。

  古人の建てた家屋は多くは南向いている。而して影は北向きである。この種の南向きの建物で北にある部屋は中国では「正房」、「上房」と称する。古代両軍が交戦するとき戦争に負けた方は追手に背を向けて逃げる。その方向は正に自分の背中の方である。即ち本来影の位置する方向で、これを敗北と言う。


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2012年2月27日月曜日

漢字「西」の起源と由来:太陽が西に沈む様、鳥の巣など諸説あり

kigenntor「西」という字は太陽が西の空に沈むさまを形象した象形文字であると教えられてきた。そしてそれを無条件に信じてきた。   しかし唐漢氏の説からはそれは全くの俗説ということになる。彼によると甲骨文字からは全くその様な形状は考えられないみたいである。それでは検証してみよう。

「西」原義:鳥の巣、水汲み甕
 許慎の説文では「西」は鳥の巣にいる状態、もしくは鳥の巣だという。
 又ある文字学者は甲骨文字の形を対比して、甲骨文字の「西」は水を汲む陶器と考えて、水汲み用の陶器の器という。日が西の山に落ちて、外で採取したり、狩りをしたりした農耕民たちが住むところに帰り水を汲み飯を作るのがその日の最後の大事な仕事である。この為本来「西」の陶器が仮借されて日が落ちる方角を示すようになった。これは唐漢氏も支持する説の様である。

 西は又西洋を言う。元明のころ、今の南海以西を押しなべて西洋と呼んでいた。明末から清の初め以降は「西洋」は太平洋両岸の各国を指すようになった。

 「西」という字に関しては、中国の4大美女に西施という女性がいる。彼女は春秋戦国時代に生き、呉の国の王夫差のもとに送り込まれ、最終的には見事任務を果たし、夫差を骨抜きにし、越王勾践のあだ討ちに絶大な助力をした女性である。女性哀史といえる歴史秘話。

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2012年2月26日日曜日

方位の漢字「東」の起源

  日本では東という字は「木」に太陽が掛って日の出を表しているように見えることから、方位の東を言うといわれている。これは俗説かも知れないが、いかにももっともらしい。しかし木に太陽でなぜ東なのかもう一つしっくりこない。日の出を言うなら元旦の「旦」の方がはるかにすっきりする。
 

では唐漢氏は何と言っているのか。 東の青銅器の銘文中には右のように書かれている。彼はこれは皮の袋を示したものという。
 「東」これは一つの会意文字である。甲骨文字と金文の東は本来古代人が常用していた袋を指している。

 上古の時代は人は物を運ぶ時、まず地上に一枚の獣の皮を広げ、中に一本の木の棒を置き、獣の皮の上に物を置き、獣の皮を木の棒に巻きつけるように括るり両端は皮の紐か藤のつるで結える適当な大きさの袋になる。肩の上に担ぐのに都合がいい。外で野営する時、獣の皮は床に敷くのに実用的である。甲骨文字の「東」はこの種の袋の描写である。 




 古代人は太陽が昇った時に起床し、すぐに体の下に敷いてあった皮をまいて、肩にかけ、木の実を集めたり狩りに出かけたりした。この為「東」は太陽の昇ってくる方向を示す。これは即ち東が一つの象形造字であるということである。表意文字の仮借である。 「東」は「東方」ともいう。

 これは一種の仮借である。即ち本来袋のことを指して言っていた「東」は東方の東になった。 この解釈であれば、「木に朝日が掛る」などというある種の無理なこじつけをしなくてもいいし、よりしっくりした解釈になる。


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2012年2月25日土曜日

南京の「南」はどこから来たのか その起源と由来は如何に

 河村たかし名古屋市長の発言が物議をかもしだしている。その是非については、ここでは触れないでおく。

 南京の歴史は古く、紀元前700年頃、春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。三国時代になると呉の孫権が229年に石頭城という要塞を築いて建業と称してこの地に都を置いた。その後時代は下り、1421年に、靖難の役で皇位を簒奪した明の永楽帝により首都が北京(順天府)へ遷都され、「南京」と改められ、初めて「南京」という命名がされている。

 さて、ここで南京の「南」というのはどこから来たのか探ってみたい。
 南は上古の時代太鼓等と共に打楽器であった。それは南から伝わり殷商の時代に中原に入り、青銅器制の打楽器として隆盛を極めた。南蛮の楽器として「南」と呼ばれた。

 その音から、方位のことも「南」というようになった。

南京の名産物は「雨花石」(メノウの一種)と言われ逸品である。この石は中に鉄分や銅分等を含み、その含量等により模様や色がいろいろに変化する。また水に濡れれば絶品で、美しいことこの上なしといわれる。
「雨花石」は下の画像のようなものだ。これは日本の高知桂浜などの五色石にもよく似ている。

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2012年2月23日木曜日

表と裏の話 蒟蒻の表と裏はどっち?

 昔「こんにゃく問答」というテレビかラジオの番組があった。こんにゃくのようにふにゃふにゃしていてつかみどころがないというのがその名の由来らしい。

またこんにゃくの裏表がはっきりしない。どうでもいい様な事なのだが、どちらが表なのかと問い詰められると返答に窮する。

 このところ漢字づいていて、書店に行っても漢字の所につい目が行ってしまう。漢字検定はすっかり定着したのか、書店でも大きなスペースを占めている。 その中でも、「うん?」と思ったものの、一例を挙げると、「表」という字の説明に「表」という字を使っている本があった。

表 ; 冬の寒い時期に内に着物を着込み、外側(表)にさらに着物を着たことから生まれた。
裏 ; 着物に田の字のような模様の入った裏地を使用したことから生まれた。

 いずれももっともらしい説明だが、「表」という字がどのようにして生まれたのかの説明にはなっていない。「表」という字の説明に表を使う?論理的破綻だ。  「裏」の説明も本当かなと思ってしまう。漢字が生まれるような太古の昔に果たして「田」の模様の入ったような袷のしゃれた服が果たしてあったのだろうか。
 そこで唐漢氏に登場願うこととする。この方がすべて正しいというつもりもないが、バーバリ模様の説明よりずっとましに思えるのだ。


 一種の会意文字で、金文の下の部分は襟の袷を示す象形文字である。真ん中の記号は文字にすると「生」で成長するものを示しており、これは「毛皮」だというのである。一番上の部分は下部を覆う形になっている。毛皮の衣は通常中に着ることはなく「表」となったという解釈である。


 次に裏はどうだろうか。「衣」と中国語で「中・内部」を表す「里」の二つの記号が合わさった会意・形声文字である。これはある意味ではきわめて単純である。金文の形から見ても「田」の模様としては出てこない。襟の中は「里」である。里の字に「田」が出てくるが、里は田と土が合わさった会意文字で、すでに元の「田」という字ではないし、また単なる模様ではない。
現代では簡体文字は「裏」を略して「里」と書くが、これは音が同じなのでそうしたのかもしれないが、略しすぎではないだろうか。

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2012年2月22日水曜日

漢字「自」の語源と由来:我は「自」のことかと鼻を指す

「自」はもともと鼻の意味である。 昔の人は
自分の の鼻を親指で示し 「俺」と言っていた
ことから「自分」という意味になった。
 「自」はもともと鼻の形を表した象形文字である。甲骨文字の上部は鼻柱の様だし、下部は左右の鼻孔。
 金文の字形は鼻の山根の部位の皺を強調しているが、甲骨文字の形状とは似ていない。小篆字は金文から発展させたものだし、楷書はこの流れで「自」と書いた。

  「自」の本義は鼻である。かつて人々は話の中で自分のことを強調する時、常々親指で自分の鼻を指していた。この為、「自」は自分の意味を表示するのに用いられた。
 自白、自己の如く第1人称代詞になった。鼻は大気を吸って体内に入れることから、正に体内の排気、呼出の効能を持つ。この説は古今東西正しいものと受け止められているようだ。

 「自」から拡張され「従、由」という意味になったことから、自然的と同義となって、副詞や介詞に用いられた。

 「自生、自滅」のように、自然の生長と滅亡と解釈され、而して自、自古の自、即ち介詞に用いられるようになった。

 意味の同じ従、由には「自」を当て更に多くのところで運用するようになって以降、人々は新しい「鼻」という字を作り「自」の本来の意味にとって替えるようになった。
 「鼻」の上部は「自」という字で、下部は「異」という字で「通じる」という意味を兼ね備えている。また読み音も表示している。

 「自」と「鼻」の間の関係は古今字となっている。「自」は古字で主には拡張した意味に用いられている。「鼻」は今字で「自」の原義を表す。即ち呼吸と嗅覚器官の意味である。「鼻音、鼻水、鼻青脸肿(殴られて鼻青黒く、顔がはれ上がる様)」等の言葉の中の「鼻」 の字である。 

 鼻は顔の中で突出した部位である為、人の顔の美観上重要な作用を持っている。
 《列女伝》の中に紹介されている「梁高行」はこの一例になっている。梁高行は梁某の妻であった。見目麗しく、聡明で、未だ花も実もある時に夫を失ってから、却って子供の面倒をよく見て、どうしても再婚しようとしなかった。梁王が人を家に差しやって媒酌の労を取ろうとした。梁高行は鏡に向かって自分の鼻を切り落としてしまった。彼女は使いの人に向かっていうに「私は我が子が孤児になるのが忍びがたく自殺できません。私は自分の鼻を切り落としました。あなたはどうか私を放っておいてください。梁王はそれを知って彼女を敬い「梁高行」という名を与えた。

 この故事の中で梁高行はなぜ耳を切らなかったのか、なぜ指を切断しなかったのか?それは鼻が容貌上の位置が別の器官と比べて非常に重要だったからである。


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2012年2月21日火曜日

我を呼ぶに「余」

「余」の意味は「我」と「余剰」の意味を持っている。
しかし甲骨文字では男性の性器を表し、そこから
我という意味が拡張されたという。
 「余」の字は漢語の中では、二つの意味を持つ。一つは第一人称として用いられ、《尔雅·释古》では「余は我なり」と解釈している。屈原の「離騒」の中でも我のことを表している個所がある。「余」第2の意味は「余り」。老子の中で、この第2の使い方がみられる。

  甲骨文字の余の字は指示語である。その中の上向き△と縦棒は男性の生殖器を表す。左右の短い横棒はVの形をしていて、下に向かって指示しているように書かれている。字形を整えてみると男性生殖器が性変後疲れて柔らかくなりブラブラしている様子を示す。

 「予」の字と同様、男子は常に性交と養育を自らの誇るべき資本とする。だから余は我の意味があり、拡張され第一人称代詞である。(この唐漢先生の説明は、さもありなんとと思うが、少し突飛過ぎて、「本当かな?」と疑念を持たざるを得ないが、さらなる使用例や傍証が望まれる。)

 「予」と「余」は字の構造上同じ源を持っている。同じく男性の性器である。だから、発音上も男性の行為と関係がある。残念ながら私には中国語の発音、それも古代中国語の発音についてはとんと知見がないので、この説明は何とも言えない。

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2012年2月16日木曜日

我を呼ぶに「我」

「朕」は「我」のことと始皇帝はいう。しからば「我」はいったい何処から来たのか?  

「我」は古代の兵器の形状である。ただその形状が
特異であったゆえに実践には用いられず部隊を表す
標識としてのみ用いられた
 「我」は刃の部分がのこぎり状を呈している一種の古代兵器である。この種の兵器の鋳造技術が複雑な上に、実戦能力もそれほど強くもなく、ただわずかにその形状が特異であるために、常々出征時などに、標識と権力の誇示のために用いられた。また統帥者の儀仗にも用いられた。

 よって第一人称複数代名詞、即ち「我々」の表示に借り受けられるようになった。

 甲骨文字中の「我」の字はまさに「我」の象形描写即ち波型の刀の刃の典型的な形である。しかし金文の「我」の字ではすでに象形は消失しており、小篆に至ってはすでに兵器の意味は少しもなくなっている。この形の変化が「我」のこの種の兵器の消失に関係があるか否かは分からない。


 「我」とは「説文」では「自ら」のことを言う。 
「広韻」」では、直接的な解釈で、「我、即ち自分のことを言う」 当然これは兵器の「我」を借りており、意味上の拡張後のことである。


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2012年2月14日火曜日

「朕」という言葉の重み

 我々日本人にとって「朕」という言葉が身近?になったのは、明治天皇による「教育勅語」からではないだろうか。昔の人間にとっては現代では思いも及ばない重みを持っていただろう。もう遠くなったと思われているこの言葉が、こっそりと息を吹き返す策動が動いているような気がする。

 朕は説文の解釈では「我」
 朕は説文の解釈では「我」である。古代の漢語の中で「朕」は第1人称で、「我、我の」の意味である。

「朕」という自称が皇帝のものとして確定されたのは
秦の始皇帝のときからである
秦の始皇帝の時代から皇帝の自称に用いられている。

甲骨文字の解釈
甲骨文字中の朕の字は「舟と舟の竿」からなる。両手で舟の竿を持っているような形。金文の朕は甲骨文字とよく似ている。只舟が右辺から左辺に移っただけである。小篆の朕の文字には変化があり、諸手で竿を持っていたのが火をささげる方に変化している。



 楷書は隷書への変化の過程でまた省かれて「朕」となった。一つ一つの形の変化で、朕の字の形も語義も暫時変化した。

 朕の本意は竿を持って舟を操ることである。舟を操るもの、舟の進退目標を掌握するもの、ひいては戦場の乗客の命運すら握るものである。上古の時代には個人はこの重大な任務を引き受けた時、常々「我来」と言っていたのがだんだんと朕を第一人称の仮借とするようになった。

《史記・秦始皇本紀》に記載されているのは「秦の始皇」から初めて、「天子みずから朕と曰く」。 

 これは大体秦の始皇帝が国家のかじ取りを握ったことを天下に誇示したことを意味する。


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2012年2月13日月曜日

漢字「身」起源と由来:身ごもった状態を表す象形文字

漢字「身」起源と由来:象形文字である。身ごもった状態が実に生き生きと表現されている
 民主主義とはある個人について見たとき、身分、性別などによってその人の処遇、行動などが制約を受けないでおられる状態にあるときと言うことができるかもしれない。 線引きが不可能なら、その社会の成熟度を民主主義の度合いのような尺度と考える必要があるのかもしれない。 さて、そこで身分、身の程知らず、身を切る、身内、身体などで使われている「身」とはいったい何ぞや? その起源に迫ってみたい。


「身」の原義は妊娠である。この意味から「孕」の字形が
引き出され、後には「体躯」という意味にもっぱら
用いられるようになった。
漢字「身」象形文字である。
 「身」は象形文字である。甲骨字は人の字の腹に一つの孤線を付け加え、突出した女の人の身ごもった有様に似ている。第二の身の字は中間に一つの点を加え、さらにまるで身ごもった様子である。

  金文の身の字は甲骨文字の同じ構造の形の下部に横棒を短く加えている。この事で女性が妊娠中は性交を行ってはならないことを示している。

  小篆の字形は金文の基礎の上にさらに美観を整え、明確になっているがこの字形は身と孕の字形への分化を示し、字の意味が身の本義から変換が引き出されて、身の意味が孕という意味に代わって来ている。

 これは人の身体をもっぱら指し、「身力強壮、身段、全身運動、獅子の身体で人面像等の言葉の身の字のように、みな人あるいは動物の体を示している。小篆はただ孕むという字に代わり赤ちゃんの為にもっぱら用いられるようになった。 

 体躯は人の肉体の根幹である。このため「身」の体躯の意味から自我の意味が引き出されてくる。"身先士卒、身体力行、以身作则"(「自分がまず兵士を率い、体が一生懸命行い、身を以て範を垂れる」の意味)この中で「身」は自分という意味である。自我の意味からは人の一生という意味も引き出されてくる。"献身、身后遗物"等である。又人の地位・品徳という意味も引き出される。"出身卑微、有失身份、身败名裂"等である。



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2012年2月8日水曜日

漢字「政」の起源と由来:その本質は「自ら棍棒を用いて他人を既定の目標に向かわせること

[政」の字の意味するところは自ら棍棒を用いて他人を既定の目標に向かわせようとすること
 先日あるテレビ政治討論会を見ているとやたら「政局」という言葉が出てきた。誰かが言うのに「最近政局の話ばかり出てくる。いま大事なのは政局ではなく、政策だ。」とのたまう。

  それを聞いてなんとなくそんなものかなと納得するようなしないような!? 
 確かに問題の解決はそっちのけで、「民に問え」「解散総選挙にもっていく」等と話しがやたら多く見ている側も白けてくる。 では、そもそもこの政治の「政」という字はいかなる意味を持っていたのか?甲骨文字に遡って見よう。
  「そりゃ、いくらなんでも遡りすぎだよ」という声が聞こえて、確かにその様に思うが、やはり原点に戻るのが一番だ。しかし甲骨文字はなかったようで、時代は少し下った紀元前1000年前後の青銅器の時代の文字である

 唐漢氏いわく、「政」この字は会意文字であり形声文字でもある。「説文」では「政は正なり」と解釈し、「支」と「正」から来て、発声は「正」を取ったとしている。金文の「政」の字の右辺は棍棒を手に持った形で、左辺の下部は「足跡」があり、歩みを表す。上部は一本の短い横棒で行動の目標を表す。明らかに政の字の構造の意味するところは、自ら棍棒を用いて他人を既定の目標に向かわせようとすることである。小篆は金文と相似であるが美観は一層整っている。


 ここで、ちょっと待てよと感じられる向きも多いと思うが、なぜ「棍棒なのか?」  議論の「議」のように、「羊の頭を旗頭に掲げ結集を促すために言う」のような穏やかなものではなく、初めから棍棒で強制的、抑圧的な権力者の頭でもって考えられた概念である。

このように政という字はもともと武力行使で方向を定めていく側面が強かったのだが、いろんな方面での議論を通して次第に「棍棒」という暴力的側面が見えなくなってきて、法令、機関、政策を指すようになったのかもしれない。
 民主主義の今日、あらゆる局面、あらゆる場所で「多数決」で物事が決定されている。仕方がないといえ「数」という一種の「棍棒」という力に頼らなければならないのは、人間の世界は昔とそれほど大きな違いはないのかも知れない。


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2012年2月5日日曜日

「宦」は奴僕であり奴婢であり、身分的には「官」に及ぶべくもなかった

  戦前の天皇制、資本家、大地主の支配の時代から米国の一時的な支配はあったものの、金融資本、新興ブルジュワジーなどは片時もその権力を放り出したことはない。最近の民主党も結局は、彼らが時の権力に無能であったということではなく、積極的に権力の要求にこたえようとしたことの結果であろう。彼らは自民党と何ら異なることがないのだから。何の異なることのない党に希望を託し、裏切られて、恨み言を言うなど初めから期待する方が間違っていたのだ。
  このような「民主主義」体制を維持するのに「官僚」はもってこいである。つまり、時の内閣は選挙という洗礼を受けて入れ替わるが、官僚だけは入れ替わらない。彼らは過去のありとあらゆる事を知りつくし、内閣という権力者に「助言」という命令を与える。





宦官は中国で数千年間続いた封建政治体制
の妖怪であり、彼らが国を陥れ、
甚大な被害を及ぼした例は枚挙のいとまがない
 さて中国では数千年間続いてきた封建政治体制を補完するものとして 「官」と「宦」がある。「宦」は官と違って、奴隷であり、官と宦は全く異なる身分である。 NHKの「蒼穹の昴」を見た時すっきりとわからなかったが、唐漢氏のこの部分を読んで完全に納得できた。


宦官は中国の数千年の封建政治体制の「妖怪」であり、彼らは常々権力を弄して、政治をもてあそんだ。但しその基本的な地位は却って低いいやしい奴僕であった。
宦官の墓を発掘した考古学者の蘇教授によると、彼が発掘した宦官の墓は、『大体永定河沿いにありました。彼らは仏教様式で埋葬され、亀の中に座っていた。宦官たちの切除された器官は白檀、陶磁、日干し粘土などで、模造品を作ってつけてあった』とのことである。


日本の「官」はもともと非常に優秀な人材だったはず。それがいつとはなしに「保身と延命」の為の「宦」と化す。

 この体制が続く限り日本は救えないような気がする。レーニンがかつて言ったように、官僚を罷免し、数年で交代させ、官僚にも責任を取らせることでもしない限り・・。第3者の評価機関をつくり、厳密で公正な判定が出来るようにしなければならないだろう。即ち奴隷の家の中で家事奴隷の頭目を示している。・・人々は大監を称して「宦官」という。この事から彼らは宮廷内において、皇帝や妃に侍るからであり、各種雑役をこなす奴僕の一種である。実際上、東漢以前には宦は全てが去勢をしていたわけではなく、漢の光武帝から中興の初め宦は悉く去勢者を使うようになった。



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2012年2月3日金曜日

「官」の今昔。 やがて腐る「官」

今国民の間で大きな関心事の一つに「官僚」の横暴がある。国権の最高機関である国会を無視し、自らの利権を追及して憚らない。 現代の国権の執行者は言わずもがな内閣府に見える。しかし見えるだけである。これは議員内閣制を敷いている為、国会(衆議院)で多数を占める党派が、多数をかさに自分たちの代表する利権を実現しようとありとあらゆる手を使う。
  国家の官僚は表向きはその時々の力関係の上で踊る政治家の言うことを聞くようにふるまいながら、その実、「真」の権力者にこびへつらう。誰かが言ったが、議会制民主主義というのはこの「真の権力者」を隠蔽するための無花果の葉っぱにすぎない。日本は民主主義国というがその実、金主主義国と言える。
 ではその「真の権力者」とはだれか?考えてみると戦前から体制が変わった部分は多少あったとしても、基本的には一貫して保守勢力(金を握っている部分)が支配したことには変わりはない。

それでは「官」の字の由来に戻ることとしよう。


「官」昔は腰を落ち着けて休むところの意味
現代の官僚は国民の上に腰を落ち着けて
ゆっくり休んでいるのかも
 「官」これは一個の会意文字である。甲骨文字の上部は「内」或いは上古の家屋の形である。その中の形はちょうど90度回転すれば、人のお尻の形に似ている。両形の意味が合わさって、尻を落ちつけて暫し休むところという意味になる。金文中の官の形は甲骨文字と相似である。小篆の形は屋内のお尻で、既に変化しあまり似ていない。楷書では隷書化の後「官」と書くようになった。
 上古の時期、先民たちは狩りに出かけた。一旦外に出れば、全て足を頼りに行く。いつも数日、或いは数十日も帰ることはできないであろう。上古人は「官」の字を用いて彼らが途中腰を落ち着け暫し休んだ場所を表している。最も早い時期の官はただ人が歩いて行く空いた粗末な部屋であったろうし、後日にはある人が留まる駐営地になっただろう。これは都の外にあって、派遣されて駐留する仕組みの官のことを言ったものだろう。接待に責任を負うことを除けば、まだ地方の民衆を管理監督する職責であったろう。だから「官」は基本義は途中休憩をするところという意味である。それから派生して派遣駐留する機構になり、 当然のこととして後日の官府になったものだ。
 両漢以前は、官と吏の概念は同じではなかった。一般の行政機関或いは職務を指していた。吏はもっぱら官吏を指していた。而して「官」のそれ自体は官員の意味を持っていなかった。漢朝以降「官」は官府と一般的な官員を示した。「吏」は即ち低級な官員である。当然官の字は行政職務の意味に未だに用いられている。


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2012年2月1日水曜日

漢字「寇」は何を意味するか。 甲骨文字は家に入り込んでこん棒でぶん殴る様子をそのまま字にしたもの

「寇」の漢字の構成

 屋内に入り込んで人の頭を棍棒でぶん殴るという流行りの連続強盗のまんまを表している。

 今ウクライナ戦線で問題になっているオルガルヒは、韓流ドラマに出てくる倭寇みたいなものだろうか。倭寇と日本人のDNA:司馬遼太郎氏の深い洞察に学ぶ

「寇」は建屋の中で行われる暴行を表す

唐漢氏の解釈

 「寇」は会意文字である。甲骨文字の寇の字は上部は建屋を表す。屋内の右には一つの棍棒を持った手、まるで左の人をまさに殴っているようである。しかし、ここでのウ冠は、屋内というより、「内部」という意味合いが強いのかも知れない。つまり内側に入り込んでくるという感覚なのか。



「寇」の漢字の由来

「寇」の漢字の由来については、古代の中国の歴史的背景に関連しているとされています。
 以下の説があります。

  1. 説1: 侵略者や略奪者を指す説
    「寇」は、古代中国において侵略者や略奪者を指す言葉として使用されたという説があります。古代中国では、他国や他地域から侵略されることが多く、そのような侵略者や略奪者を「寇」と呼んでいたとされています。
  2. 説2: 略奪や侵略を意味する説
    「寇」は、略奪や侵略を意味する漢字であるという説もあります。古代中国では、戦乱や略奪が多く、略奪や侵略を表現する漢字として「寇」が使われたとされています。
  3. 説3: 神秘的な敵を意味する説
     また、「寇」は神秘的な敵を指す語としても使用されたという説もあります。古代中国では、異民族や外敵を神秘的な存在として捉えることがあったため、そのような敵を指して「寇」という漢字が用いられたとされています。

  4. 以上のように、諸説あるため確定的な由来を特定することは難しいですが、これらの説を参考にすることで、「寇」の漢字が持つイメージや意味を理解することができます。


「寇」の漢字の発展

 この種の屋内での凶行は却って略奪の行為を「寇」とするのに適している。小篆の「寇」の字は将に屋内の左に立つ人が変化して「元」の字なっている。「元」は古文字では、頭を突出した人の形で、棍棒を用いて頭部を攻撃して、残虐に殺す意思を含んでいる。楷書は小篆からきて、一脈引き継いでおり、形も似ている。



「寇」の使われ方

 「寇」の本義は屋内の暴行、即ち盗賊や匪族の意味である。盗賊ないし侵入者はこの為「寇」または侵犯の意思を含んでいる。杜甫の詩「復愁」の如く、その中に「万国なお防寇あり」、この寇は侵入者を指す。明代に将に侵入してきた日本の浪人たちは倭寇とよぶ。抗日戦争当時、中国人民は将に日本の侵略者を「日寇」と称した。全て侵略者の意味である。
冠と寇し、その中の寸は手であり、その手で持って、帽子をかぶるのを冠という。冠と寇は意味と音は全く異なるのだ。つまり一方は冠で、もう一方は侵略者だ。




引用:司馬遼太郎「日本人と日本文化」


  対談本「日本人と日本文化」の中で、司馬さんは室町中期から秀吉の辺りまで倭寇が活躍?していたことについて触れ面白いことを言っている。少し長いが引用する。

倭寇と日本人のDNA

   彼らは世界の中の日本の位置づけを知らないので、ただ荒らしまわるだけで自らビジネスに出来ない。大体が情報を握っている中国人の手下で働き、いわば暴力労働者の様な形になっていたという。
 五島列島の倭寇は中国の杭州湾口にある船山列島を明軍と戦い占領したことがあった。
 占領したら自分のものにしたらいいのだけれど、彼らは3カ月程すると故里が恋しくなって日本に帰っていくことを繰り返していたらしい。土地の人々も、倭寇が来てもほったらかしにしておればいいといわば泰然と構えている。「いずれ彼らは帰って行くんだ」と。
  倭寇には土地を占領してそこを治める政治力が育たない。

  これとある意味全く同じようなことが、太平洋戦争でもあったと司馬さんは言っている。
 当時海軍にいた司馬さんの遠い親戚の人から聞いた話として、「当時の海軍には真珠湾を攻撃することはできるが、しかし攻撃した後どうするかという戦略がなかった。それは海軍に留まらず日本国全体が持っていなかった。」
   彼はアメリカは非常に強い。どうせ負けるのであれば、「倭寇で行きましょう」と進言したということである。つまりどういうことかというと「真珠湾を攻撃し、そしてアメリカ沿岸を空襲して帰ってくればいい。ただそれだけのことです。」

 明治の戦争以外は日本人には倭寇の時と同じで、欲望表現としての戦争があっただけで、戦後の処理をどうするかという戦略も持たずに突入していった。当たり前のことではあるが、倭寇のDNAと日本の主導者のDNAは同じであり、まったく同じ過ちを繰り返していると司馬さんは分析している。
   これを読んで、目からうろこが落ちるという印象を否めなかった。これは、ある意味今でも脈々と受け継がれている。
 原子力発電でもそうだし、沖縄復帰の問題でもそうではないだろうか。どんと花火を打ち上げ、世間の注目を集め、選挙に勝つなりしたらもうそれで全てよしとしているきらいが窺えないだろうか。



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