2010年6月14日月曜日

漢字「幸」の由来:古代中国では「手枷」のこと。手枷が何故「幸せ」になるのか


漢字「幸」の起源と由来
 古代中国では「幸」の字は、手枷のことを表していた。甲骨文字から古代中国の社会が見えてくる。
 民主党の菅直人新首相は「最少不幸社会の建設を!」と国民に対し呼びかけた。それに対し自民党の小泉進次郎氏は「自民党は最大幸福社会の建設を」と訴えた。この場合、キャッチフレーズだけからいうと、菅直人氏に軍配上がる。
小泉氏のは耳障りはいいが、中身のない云わば戯言である。何故か?「幸福」という価値観は人により千差万別である。その曖昧な概念を政策とする時、その政策も曖昧になってしまう。

これが政策じゃなく、女性に対する囁きならば、話は別だが・・。

 さて、ここで幸、不幸とは一体なんであろう。漢字のルーツから、その中身に迫りたい。唐漢氏の「漢字の暗号」を参照して、進めたい。


引用:「汉字密码」(P627、唐汉著,学林出版社)
幸は手枷の意味
「幸」の字の成り立ち」

 「幸」の甲骨文字は、古代社会で捕虜や奴隷をつなぎ止める一種の刑具を表している。いわば手枷、足枷であった。
有史以前はこの種の刑具は簡単に作れた。木を切り取って、腕をその木の中に閉じ込め、両手の間に木の棍棒を差し込み細い枝ででくくった。このように、「幸」の本義は手錠である。この「不幸の象徴」がなぜ今日のような意味を持つようになったのか。上古の社会にあっては、捕虜の命は豚や犬よりも卑しく、殺されずに命を取り留めて生きていることは、本当に幸運な出来事なのである。よって「幸」はまた「幸いにも」という意味を持つ様になったといわれる。

さて、件の菅氏が「幸、不幸」の意味を使うのに中国の古代社会の概念を用いてなければいいのだが・・・。つまり、「君たち死ぬよりはましですよ」じゃないんでしょうね・・。




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2010年6月13日日曜日

貢物になった女性たち

昨日の記事に「西施」のことを書き、このような話は中国に5万とあるとしたが、実際に5万あるのかどうかは知らない。ただかなりの数になるのは事実のようだ。
この西施は当時の越王勾践が夫差との戦いに敗れ、大臣の范蠡の諌めに従い、夫差の奴婢となった時、やはり范蠡の助言に従い、夫差に貢物として差し出されたといわれている。
これが、かの有名な「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」などの熟語を生んだ歴史の舞台である。
また日本では後醍醐天皇が隠岐に流される際、奪還を図った児島高徳が残したと言われる歌にも引用されたことからも年配の人には、よく知られている。
『天勾践を空しうする莫れ。時に范蠡無きにしも非ず』
   天は勾践を見捨てなかったように、貴方をお見捨てにはならないでしょう。
いざというときには范蠡というような人物が出てこないとも限りませんからという意味である。

さて西施の他に、下の女性たちも数奇な運命を辿っている。
  • 王昭君  前漢の武帝のとき匈奴の頭目に差し出された女性
  • 妹喜   バッキという。古代の「夏」の桀王に彼が滅ぼした有施氏の国から貢物として差し出された女性。桀王は妹喜の色香に狂い、「酒池肉林」と称せられる、奢侈淫乱を旨とする遊びを行った。このため夏朝は急速に零落してしまった
  • 姐己  ダッキという。古代「殷」の纣王の下に、有蘇氏の国から献上された「姐己」は先のバッキに輪を掛けたような悪女であった。このため「長夜の飲」といわれる常軌を逸する狂態が120日にもかけて繰り広げられたという。これを戒めたものは「ホウラクの刑」といわれる、がんがんに焚かれた炭火の上に渡された油を塗った銅の棒の上を渡らされる刑に科せられ、燃え盛る炭火に落下して命を落とした人間を纣王と一緒に鑑賞して楽しんだという。
この他有名なところでは、呂布や玄宗皇帝などが、女性が元で命を落としたり、政権を追われたりしている。これらの女性たちは、悪女の代表のように言われるが、本当は犠牲者の一人ではあるのだろう。ただ、彼らは単なる犠牲者ではなく、ある意味積極的に係わっている面もあり、歴史的評価では難しい局面に立たされてしまうのは仕方がないことかもしれない。

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2010年6月12日土曜日

漢字の「美」はなぜ羊を頭に被っているのか

 今まで、男と女に係わる漢字を見てきたが、ここで特に女性にとっては、関心事の主要な部分を占めるであろう(失礼?)「美」という漢字の由来について触れてみたい。

 女性で美と来ればやはり「美女」を避けて通らぬわけには行かない。中国の4大美女といえば、西施、王昭君、貂蝉と楊貴妃といわれている。最近では、映画レッドクリフでも有名になった、呉の将軍周瑜の妻小乔もその中に加えるべきなのかもしれない。小乔についてはよく知らないが、西施、王昭君、貂蝉と楊貴妃の4人については、「月は閉じ、花は恥じらい、魚は溺れ、雁は落つ」とたとえられるほどの美人だというからすごい。

 西施は、彼女がある時水辺で魚を見ていたら、魚が彼女の美しさに虜になってしまい、ついには泳ぐことを忘れ、海底に沈んでしまったという逸話があるほどの美人だということである。私の見た中国映画では、越が呉の夫差に戦いで敗れた時、越の王から呉の夫差に貢物として差し出され呉の夫差の心をとりこにしたという筋書きになっていたが、これは作り話であるかも知れない。というのは、中国ではこんな話は五万とある。また彼女に纏わる成語で「東施效颦」というのがあるが、これは後日紹介をしよう。

 王昭君は後漢の人で、匈奴の単于という王に嫁入りをするが、彼女は「その北の国を渡っていく雁が彼女の美しさに見とれ落ちてしまった」と喩えられた。これも面白い話があるが、別の機会にしよう。

 貂蝉については、その美しさには月もその前には自らその顔を閉じてしまうという様に例えられた。

 楊貴妃については余りに有名なので、ここでいうまでもないかもしれないが、「花も恥じらう」と云う言葉で表現されるが、この言葉は今でも生きている。

 さて、本題に入る。
 
甲骨文字 「美
 唐漢氏によると、 「美」は「羊」と「大」の2文字で構成される会意文字である。「大」はここでは健康で強壮な男子のことを表している。又羊の大なること美しいという意味も含んでいる。ところが日本の白川博士によると、これは羊の全体形を現す象形文字であるという。白川博士は羊はそもそも神にささげられる生贄と使われていた。神にささげられる際に全身が無欠の完璧なものでないと困る。何処にも欠陥のない羊を美しいとしたとの説をとっておられる。

甲骨文字「羊」

 しかしこの議論の前にそもそも「美」という文字は、今日使われるような「美しい」という概念を表していたのであろうか。




「美」の字は上古の先民はその意識の中に4種の感覚を持っていた。

  •  視覚上、羊の体が太って強壮な姿態から受けた感じ
  •  味覚の上から羊の肉が脂の多い感覚
  •  触覚上、羊の毛皮から防寒の必需品とすることを期待し、そしてその生産品の心地よい暖かさの感覚
  • 経済的観点から、羊の交換価値を思い、それ故に生産を持つ喜び
この4つの感覚が入り混じって、間違いなく、かすかに打ち震えるような心の中の「美」の感覚をもっただろう。しかしこの「美」の感覚は今日とは異なっていたのではないだろうか。

 北方人の美意識の中には、「大きいことは美しいこと」という観念が根深い。部屋から陵墓から工芸品に至るまでである。南方人は精緻、細かく且つ複雑であることを求める。しかし北方に行けばいくほど、粗く雄大で且つ大きい。それから段々審美意識中のたましいになった。  「美」の字は羊と大が合わさった会意文字で、「羊は大きければ美しい」「人は羊のごとく壮健なれ」という理解もできる。但し両者の解釈は皆「美しいことはいいこと」という基本概念の帰結である。文字学の角度から言うと、「美」の字の本義なのだ。

これ以外にも、「美」下の部分の「大」は男を表し、古代では立派な男は頭にりっぱな羊の頭の被り物をしていて、これが「美しい」という感覚になったという話もある。

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2010年6月10日木曜日

漢字「道」の起源と由来:甲骨文字では、十字路と脚ということから歩道

漢字「道」の起源と由来:最近の漢字の起源を書いた読み物では、これが恐ろしい漢字だと解説されている。なぜか恐ろしいのか。そこには、大衆の興味を引くための作為が隠されているように思う。

 最近、漢字検定が普及した結果なのかもしれないが、本屋さんに行っても漢字の本が書棚に並んでいるのを見かける。そして検定に関するものについでよく見かける。さらに漢字をその起源から説き起こそうという本が幅を利かせるようになっている。

漢字の起源の説明に日本の古代の話は無用

 漢字の発生は多分に呪術的な部分があり、何せ古代のことでもあるので、まだまだ謎に包まれている部分が多い。それだけに漢字の解釈、起源については百花繚乱である。実にさまざま本が書かれている。中には随分いい加減なものも見かける。たとえば漢字の起源それも甲骨文字について解説するのに日本の古代のことをあげて説明しているものさえある。このようないい加減な内容でいたずらに恐怖心をあおることは許されないとおもうのだが。



  さて、今日は「道」という漢字に焦点を当ててみたい。なぜこの文字を取り上げたかというと、この漢字というのは恐ろしい漢字だというのがいろいろな本に書かれているからだ。あの有名な白川博士も、古代において、道には怨念が宿っていたとされ、その怨念をふり払うために、異民族の首を切って歩き、それでもって悪霊を追い払うことができると信じられていた。道とは「行」の間に首を手で下げたことを表す記号(文字)から構成されているといっている。

 しかし、首を下げて歩くような行為から、孔子や老子の説く「道」の漢字に至るには少しギャップがありすぎる。そこでわが唐漢氏は、これをどう読み解いているのであろう。ご登場願うこととする。

甲骨文字では、十字路と脚ということから歩く道であることを示している。

 道は道路のことである。車も馬も通る道は皆道路という。古代の道は小道と大道の区別はなかった。甲骨文字では、道の字は「行」と「止」という字からできており、十字路と脚ということから歩く道であることを示している。金文の道の字は、「行」と「首」に変わっている。これは道がその当時、遠くまで人の顔がきれいに見渡せる広い大きな真っ直ぐな道路のようなものであったことを示している。



小篆の「道」の成立ち:従と首からなる会意文字
小篆の道の字は第2の金文を受け継ぎ、従と首からなる会意文字に変わっている。楷書ではこの理由で道と書かれている。

 記録によると殷から少し時代が下った周の時代には、「牛に引かせて,遥か遠くの場所に店を構え」とあるように、当時の陸路の運輸が既に四方八方の段階に至っていたということである。両周の時期には各地の封建諸侯と王室は密接な関連を保っており、さらに兵、車戦争の特質に対応するために全国は道は礫のごとく平らに、矢のごとく真っ直ぐに修築され、道は周行、周道と称されるに至ったという記録もある。

 道の本義は大きな道である。即ち平らで広々とした道のことをいう。その言葉の意味は道路を経由して、方向、道のり、あるいは「志同道合」のように同じ志を持つという意味まで拡張されている。又したがって行く、行き渡るという意味に拡張され、道理という意味に用いられ、物事を探求する原則、標準という意味に使われるようになった。

唐漢氏の解説は随分あっさりしている。甲骨文字から金文に至るまでの間、「行」という字の間の「足」がなぜ「首」に変わったのか、そしてそのことが唐漢氏の言うように「遠くまで人の顔が見渡せるほどになった」から足が首に入れ替わったという説明には少し飛躍があるような気がする。これ以上は今後の研究に待たなければならないのだろうか。

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2010年6月8日火曜日

漢字「合」の由来と起源

  近頃、ニュースなどでよく聞く言葉は「日米合意」である。合意というのは双方がお互いの利益を認め合う成文もしくは不文の了解事項である。そこでは条約と違って、お互いの平等互恵という側面が重視されるのかもしれない。「不平等条約」はあっても、「不平等合意」というのは聞いたことがない。どんな国でも、不平等なことをわざわざ「合意」しない。

 さて、前置きが長くなったが、今回は合意の「合」の漢字に焦点を当ててみたい。
 これは会意文字である。甲骨文字、金文、小篆でも、構造的には同じで、上部の「A」の形は男性の生殖器の省略形であり、下部は女性生殖器▽の異形の口である。

両形の意味が合わさって、男女の性のつながりを表し、性交、合歓を表す。

それから拡張され、一般事物の符合、集合、会合など物体間のくっつき合うことを表すように用いられて来た。
唐漢氏によれば、「合」のもともとの意味は性交そのものであることになる。

これに対し、日本の白川静先生などは「合」の下部の口の記号は「サイ」を意味し、神のお告げを入れる入れ物だと解釈されているので、「合」全体の解釈も自ずと変わってくるだろう。

  ここで映画「ダビンチ・コード」を見られた方は思い出すだろうが、主人公が聖杯の秘密を解明するくだりで、「山の形は男を現し、V字形のものは女性を表すのが世の中の一般的な表記法だ」という箇所がある。この解釈は万国共通のようにも思えるが・・。文字や符号が生活実態を反映したものか、抽象的な概念である「宗教・神」を反映したものか、さらなる議論が必要だろう。

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2010年6月2日水曜日

「男」という漢字の起源と由来は

今回は引き続き男と女の問題について上古の昔に戻ってみよう。

甲骨文字_男
男という字は会意文字である。甲骨文字の字の左は「田」である。この意は農耕のことである。

右側は「力」。これは「加」や「幼」の中の記号と同様である。元々は男の生殖器を指しており、ここでは男性を示す記号である。


小篆_男
 金文の男の記号は田の下に来ている。小篆の形体は基本的には金文と同じである。ただ「力」という字が完全に「田」の下に来ており形体もまた少しごちゃごちゃしている。楷書の「男」は小篆を引きついているが、「田」と「力」で簡単明快である。

殷商の初期、農耕はまさに土地を焼き、木の先を尖らして地上に穴を掘り、種をまいた後土をかぶせて、農作業を終えるといういわゆる焼き畑農業が行われていた。この種の簡単な労働は主として女が受け持った。しかしながらたとえ農耕の主力が女としても、氏族の集団で狩をしたり、狩猟は男の担当であった。このようにして甲骨文字の中の「男」の字は、商王国の中でもっぱら農耕部落の首領をさすようになった。


史書に記載している周の時代の「公候伯子男」爵の中の男爵は常々農事に功のあった臣に授けられる爵位である。この種の制度は殷商の時代の「男服」に源を発している。即ち「男服」とは常々農耕に従事しさらに王に農産物を貢ぐ部落の首領あるいは小規模の候国の王のことである。
周が滅んで後、華夏民族にとって民族的歴史に真の農耕時代をもたらされた。このときから狩猟活動は減少し、農業産出物が食物の本源的な主体となった。更に体力の強壮化によって、男子は農耕の生産の主体を担った。これに反し女子はその生理的条件と社会的地位の制限により、農耕領域では二次的な生産者の位置に下がってしまった。そうして家務を切り盛りし、桑や麻をつむぐことを主要な職務となった。
農耕と男子のこの種の関係は、「男」の字に新しい意味を付け加えることになった。農耕即ち男子のことである。「説文」(漢字の集大成された古文書)で「男は主人である。田と力から、力を持って田をなすことを男という。」
男の性別の意味が氏族の首領の意味に取って代わって以降、畑の中で労働する男を指し、さらに拡大して一般に成年男子のことを言うようになった。もちろん限定された使い方で、男の子を意味したり、息子を意味する場合もあるが・・。




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